防府市付近をうろうろしていると、田園脇に「玉祖神社御殿跡地」なるものを見つけました。
おや?
石碑には貞享2年(1685年)2月に現御旅所に移設とあります。
またふらふらっと移動していると、奉献台に御旅所と彫られた場所を見つけました。
これか?と首を傾げていると、
そこから少し先に進んだところに神社がありました。
「玉祖神社」です。
どうやらここは、同市内に3社ある周防国一宮から分霊された玉祖社のひとつ、「切畑玉祖神社」であるようです。
二の鳥居の脇には、
狛犬の代わりのように小さな石が祀られています。
郷社とありますが、立派な神社。
神仏習合期を思わせる鐘楼もあり、
地元民の崇敬の厚さを感じさせます。
社殿の中には三位の一体の勾玉。
こちらには水を湛えた美しい放生池がありました。
ここから見える切り崩された山は、筑豊田川の香春山を彷彿とさせました。
道の駅で休憩中、地図を眺めていたら「人丸社」と言う文字が目につき、探してみました。
ぽつんと佇む人丸社。
島根の柿本人丸神社から勧請されたと云います。
まるで金庫のような神社。
中に掛け軸の人丸像が納められているのでしょうか?
かつては立派な社であったそうですが、今は見る影もありませんでした。
さて、なぜ僕がこのようにうろうろしているのかと言うと、国津姫神社の元宮を探していたからでした。
国津姫神社の現社地はかつては海であったろうと思われ、本来はもう少し内地にあったはずなのです。
富海村史稿によると、それはもともと船山(岡の宮)にて祭祀されていたとあります。
それで見つけたのがこの「船山神社」でした。
住宅街に押し競饅頭状態の小さな神社です。
しかし由緒を見ても、国津姫神社の元宮を示唆する情報はなく、真偽の程は分かりません。
境内には船型の石が据え置かれていました。
これは船山を船に見立て、繋ぎ止めるための錨石だそうで、かつては他にも数個あったのだそうです。
船山神社がある戸田地区に八幡宮があったので、足を伸ばしてみました。
参道の右手に「宮島様」と呼ばれる祠があります。
池と言うか堀というか、水の中に祠があります。
中に祀られるのは弁天様かと思いきや、
鯛を抱えた恵比須様が祀られています。
なぜ宮島様と呼ばれているのか定かではないそうですが、安芸の宮島といえば、あのお方が亡くなった場所。
八幡総本宮の宇佐神宮と宮島との中継点にこれがあるのも意味深く感じます。
側に3つの御旅所があり、
何やら石のようなものが祀られていました。
戸田小学校と桜田中学校に挟まれた参道の先に鳥居があります。
そこにちょっと愛嬌のある狛犬が鎮座しています。
桜田八幡宮は室町時代後期の永正4年(1507年)に、大内義興(おおうちよしおき)が宇佐神宮より勧請し、この地に遷座・造営したとされます。
その後安政6年(1859)年に再建され、今に至ります。
階段を登ったところに「皇威輝四海」(こうい しかいにかがやく)と彫られた石碑がありました。
地元出身の陸軍中将「児玉源太郎」(こだまげんたろう)の筆だそうで、台湾総督を務める一方で児玉文庫を創設するなど郷土の発展に貢献した人物です。
小高い場所に建つ社殿。
中央の本社の他に
左右に立派な摂社が鎮座します。
桜田八幡宮は元は、「降神社」という名の神社で、降神村にあったのだそうです。
それを大内義興がこの桜田山麓に遷座・造営し宇佐八幡宮の分霊を勧請しました。
それにしても「降神村」とは物々しい名前です。
近辺の伝承で次のような話がありました。
神功皇后が三韓征伐の帰路、周防灘で大時化に遭い、この先の白髪の浦(四郎谷)に避難しました。
この時、幼少のホムタワケ皇子(応神帝)は高熱を発していました。
皇后と皇子が今の四郎谷・大陰八幡宮の場所に滞在していると、里の白髪の老人が「湯野温泉の湯を進ぜば熱も退散する」と進言し皇子に奉りました。
そこで皇子にその湯を飲ませたところ、熱はたちまち下ったのだと云います。
その400年余り後、天武天皇の白鳳2年(674年)春、四郎谷より霊光輝き、朝廷に申し上げて和銅3年(710年)年、元明天皇の勅命により降神に宮が祀られたのだそうです。
実は神功皇后の皇子ホムタワケは、7歳の時に夭折しています。
その後上毛国に逃れた豊彦の子孫「竹葉瀬君」を皇后は秘密裏に養子に迎えました。
これが宇佐神宮で応神帝を祀ることになった理由です。
とすると、ひょっとしてホムタワケ皇子が亡くなったのはこの場所だったのではないか、と思われます。
ホムタワケ皇子の御霊が鎮まったので降神なのでは、と。
拝殿の中に古い桜田八幡宮の境内図が貼られていました。
なかなか荘厳に描かれていますが、その姿は今とあまり変わりないように見えます。
そしてその端に目が止まり驚きました。
船山神社が描かれており、その先に「岡の水(木?)」という文字が見えます。
やはりあの船山神社が国津姫神社の元宮、船山(岡の宮)である可能性が高いようでした。
これまで神功皇后と竹葉瀬君を取り次いだ人が誰なのか、ずっと疑問でした。
しかしここに土蜘蛛の姫・神夏磯媛の末裔が住み着いていたのだったらなるほどな、と納得したのでした。
さて桜田八幡宮のすぐ側に、「降神・元宮跡」の文字を見つけたので行ってみました。
そこは思わず通り過ぎてしまうほど、小さな案内板と荒屋があるだけの何もない場所でした。
いつも楽しく拝見しています。
宇佐家の古伝に「宇佐稚屋の弟である御諸別命が神功皇后、誉田天皇、武内宿祢を打ち破り、武内宿祢は行方知らずになり、神功皇后と誉田天皇は香原岳の南の勾金に幽閉されてこの地で亡くなったと云う。」というホンマかいなという記述があります。
もしかしたら、応神天皇のカラクリは伝承ほど平和理にいかなかったのかもしれません。
たしかに勾金に河内王陵(勾金陵墓参考地)というものが存在していますが、河内王は天武天皇の孫と推定される人物です。古墳年代と合致しないようで宮内庁が厳重に管理しています。
個人的に天皇陵の発掘許可が容易ではないのは世に出たら困る遺物がある可能性があるためだと思ってます。
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ブサイク王さん、こんにちは!
古墳はそうでしょうね、正史とされているものがひっくり返っちゃう可能性がありますからね。
なるほど、確かに神功皇后はヒボコ家の血筋ですが、豊家を裏切った物部王朝のお后ですからね。そして田油津姫らを殺していますが、彼女は豊家の末裔の一族であると僕はみています。
それですんなりと行く方が無理がありますね。
ただ、神功皇后は豊浦の海岸や佐賀、志賀島などで干珠満珠を手にしています。干珠満珠の受渡は豊家の月神信仰を受け継ぐことを意味していると思われますので、おそらくですが、神功皇后には豊家の血も流れているのではないかと思っています。
竹葉瀬ノ君の養子縁組の是非については、豊一族の間で分断していたのかもしれません。
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