鹿毛馬神籠石:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 07

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飯塚市鹿毛馬の田園地帯にぽつんと厳島神社が鎮座しています。

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細い参道の先に社殿が見えました。

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社家の庭と思われる場所にも小さな祠。

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階段を登って、立派な拝殿に至ります。

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祭神は「市杵島姫命」(いちきしまひめのみこと)、「田心姫命」(たごりひめのみこと)、「湍津姫命」(たぎつひめのみこと)の三柱、宗像三女神です。

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相殿の牧野神社は昔、厳島神社の北側にある鹿毛馬神籠石の中に鎮座していたそうです。
主祭神は狭野命(さぬのみこと)。狭野は神武天皇の幼名とされます。

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伝承では命が、求菩提山を経由して、鹿毛馬村を訪れた際に多くの馬が群れていたのを見かけ、馬の牧(牧場)を開いたと伝えられています。
牧場の廃止とともに神社が荒れ果て、元亀年間(1570~73年)に厳島神社の相殿に合祀されました。

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由緒を見ると、宗像三女神に関する伝承は次のとおりです。
「日本紀によりますと、太古三女神が豊前の宇佐嶋より筑前の宗像へお出ましの折り、道に迷われ烏の先導で日思山へお立寄りになりました。それ故にここを烏尾(からすお)と言います」

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宗像三女神は宗像・吾田片隅 (あたかたす)の娘であり、「宇佐から宗像にお出まし」というのはおかしな話となります。
しかし宇佐の祭神と宗像三女神はよく関連づけられ、この場合の祭神の筆頭は末妹の市杵島姫であることが常となります。
更に当社名が厳島神社であることも重要なポイントとなります。

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宇佐神宮の真の祭神・豊玉姫は市杵島姫の末裔でした。
宇佐族は物部族の分家でありながら、宗像家の血を濃く引き継ぐ一族であり、さらにそこへ海部の血を受けた痕跡があります。
つまり宇佐族は豊王家を名乗り出す頃に至っては、出雲系宗像族と出雲系海部族の側面を強く持つ一族であったと言えるのです。

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更に豊玉姫の葬儀が行われた宮島、そこの神社がかの厳島神社であり、祭神は市杵島姫を筆頭とする宗像三女神。
厳島神社の神使は烏であり、ヤタガラスとの関連も示唆されるところです。
日本紀に記されているという三女神を日思山へ導いたのも烏。

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三女神が豊前の宇佐嶋より筑前の宗像へ向かう途中に当地へ立寄ったという話は、豊玉姫の末裔のことを指しているのではないでしょうか。

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厳島神社のほど近くに、国指定史跡の「鹿毛馬神籠石」(かけのうまこうごいし)があります。

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神籠石とは九州地方から瀬戸内地方で見ることのできる、石垣で区画した列石遺跡の総称です。

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柵で囲われた中には石の水路がありました。

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これは暗渠(あんきょ)と呼ばれ、土などを被せて外から見えないように作られた水路とのこと。

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神籠石と呼ばれる列石遺跡の多くでは、谷を通過する場所に数段の石積みを有する城門や水門が見られるのが特徴の一つです。

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このような水路をあえて作っていたということは、この先に居住区間があったということでしょうか、ところが列石遺構の内部には顕著な建物遺構が見られないことも特徴の一つとされています。

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山側に道が続いています。

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この先に列石が。

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階段を登っていくと

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ありました。

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四角く切り揃えられた石がどこまでも連なっていて、さらにその上部には版築による土塁が築かれています。

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下の方に池が見えました。

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神籠石は主に北部九州、特に福岡にその多くが存在し、列石の配置から、山頂から平野部に斜めに構築する九州型と、山頂を鉢巻状に囲む瀬戸内型に分けられます。

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神籠石という名称は、本来高良大社の参道脇にある「馬蹄石」など、神の依り代となる岩石を指す名称でした。
しかし近くにある列石「八葉の石畳」と混同して学会に報告されたため、この列石遺構の方が神籠石と呼ばれるようになりました。
確かに列石は結界ではありますが、石自体に神が籠るという風に作られていないことが分かりますので、この呼び方は明らかに誤りです。

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神籠石が学会に発表されたのは、明治31年(1898年)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初となります。
ところが明治33年(1900年)に九州の神籠石を調査した八木奬三郎が、これは城郭であると主張し、神籠石の霊域説と城郭説との論争が展開されました。

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その後、昭和38年(1963年)佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見されました。
これによって神籠石は山城の城郭であることが確定的となっています。

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しかし本当にそうでしょうか。
神籠石から先のエリアには、ほとんど顕著な建物遺構が見られず、さらに仮に土塁を積み上げたとしても、防壁と呼ぶにはあまりに高さが足りないような気がするのです。

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しばらく歩くと少し開けた場所に出て、

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直角に交差した先に階段がありました。

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登っていくと

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小高く土が盛られたところに祠がふたつ。

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ひとつは牧野神社。
そう、先の厳島神社に合祀されていた狭野命を祀る祠です。

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ということは、もうひとつは厳島神社でしょうか。

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この牧野神社の由来については全くわかっていません。
何故ここに狭野命(神武)が祀られているのか。

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神武のモデルとされている人は3人。海部の天村雲と物部のウマシマジ、それと物部のイクメ。
豊家の子孫が宗像三女神として当地に祀られているのだとしたら、この狭野命はもっと古い物部の祖神を祀っていたのかも知れません。

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それはたとえば徐福の母である高木神ではなかったか、と思うのです。

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牧野神社からまっすぐ降りてくると、鳥居がありました。

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一旦、鹿毛馬神籠石を出て駐車場に戻ります。

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駐車場のそばに、第一暗渠と反対の方に矢印を示す列石の案内板がありました。

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そちらへ向かうと、確かにここにも神籠石があります。

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暗渠のある谷を挟んで、二つの峰に列石が置かれていることになります。

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その上に何かある。

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滑りコケながら必死に登ってみると、

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まるで卵のような岩がありました。
これに似た磐座を見たことがあります。

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そう、神功皇后が「神あり」と言った、糸島の神在神社の神石です。
地元の人はその石を「ひよこ」のようだと表現していました。

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神功皇后は辰韓(新羅)の皇子・アメノヒボコの子孫であるとされていますが、彼女は三韓征伐の行程で、干珠満珠の祭祀を行い続けています。
そして豊家の子孫・竹葉瀬ノ君を養子に迎えるなど、豊家との繋がりを感じさせます。
つまり、彼女は豊家の血族でもあったのだと思われるのです。

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その彼女が糸島でここに神ありと言ったのは、豊系土雲族の御神体である神石を見たからでは。
神石もこの磐座も、ある方向から見れば天に浮かぶ月のように見え、またある方向から見れば勾玉のような、つまり胎児の形に見えるのです。

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月は生命の誕生に深く関わりがあります。
月神信仰も実はサイノカミ祭祀が根底にあったのだと思われます。

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この磐座を見つけて思うのは、神籠石とは山城の城郭ではなく、聖域の結界なのではないかということです。
そして鹿毛馬神籠石とは、正に豊の末裔・土雲族の聖域だったのではないでしょうか。

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この後の旅でも、土雲の伝承地と神籠石は不思議な関連性を見せるのでした。

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6件のコメント 追加

  1. Nekonekoneko より:

    この丸くておおきな岩の中には人喰い鬼でも封じられてるのかなんか嫌、

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      特に案内板もなく放置されていますが、僕は古代土雲族の御神体であったと思っています。勝手に思っているだけですが。
      ひょっとすると古代には、この岩の下に王族の遺体を埋葬したのかも知れませんが、実際に歩いてみて僕は嫌な感じはしませんでした。鈍感なだけかも知れませんがね😁

      いいね

      1. Nekonekoneko より:

        死体の上に妖怪の封入された大岩置いてどうするのか?死体はただの腐った死体なんだが、一体それで何の呪詛をしたいのか?よく分からん一族😨

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          古代に妖怪という概念はなかったと思いますよ、たぶん😅

          いいね: 1人

          1. Nekonekoneko より:

            では、悪魔の精気体ですか。それとも悪鬼ですか?凶悪な鬼ですか?何か角の生えた怖い奴が牙を剥いてるような気がしてならない…

            いいね: 1人

          2. CHIRICO より:

            景行帝は当地にやってきて日思山に宮を建てさせたと伝わっています。景行帝は九州各地でまつろわぬ民を虐殺していますので、ここが土雲の郷であるなら同じことが行われたと思われます。Nekonekonekoさんが感じるのは彼らの怨念なのかも知れませんね。彼らはツチグモと呼ばれ、時にはオニと呼ばれています。

            いいね: 1人

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