福岡県豊前市に鎮座の「大富神社」(おおとみじんじゃ)は景行帝の行宮跡であると伝えられていました。
当地は旧豊前国にあたります。
景行帝は豊前国に行宮を建てて、岩屋の土雲族を征伐のとき勅して本社に平定を祈らせ、土雲族を平らげた後は付近の里の田地と、神官数多を報賽し、神官数人に種々のものを賜ったのだと云います。
非常に立派な社殿。
祭神は本殿に「八幡大神」として「応神天皇」「仲哀天皇」「神功皇后」の三柱、
東殿に「宗像大神」として「田心姫命」「湍津姫命」「市杵島姫命」の三柱、
西殿に「住吉大神」として「表筒男命」「中筒男命」「底筒男命」の三柱を祀ります。
古来は宗像八幡社とも称され、大富神社神輿の古い鏡には大富ノ神とも宗像ノ神とも記されているそうです。
当社創始は不詳ですが、社記によると往古に宗像三女神が真早(まはや)という者に「山田の原の頓宮に住む、速く宝基を建てよ」と神託が下ったので祀るようになったのが始まりであるとされています。
この辺りは山田と呼ばれていたのでしょうか。
崇神天皇5年(前93年)4月には天疫が流行したため当地で国主が神官を使わし、祈祷したところ、天疫が止んだとされています。
景行帝が当地にやって来たのはその後のこと。
更に後には神功皇后も当社に参詣し祭物を供して三韓征伐を祈ったと伝えられます。
宗像神社宝鏡記によると白鳳元年(671年)、山田庄長横武某に住吉大神・八幡大神の神託があり、祀って現在の祭神となったとか。
いろいろと多く語り継がれる大富神社ですが、つまり本来の祭神は宗像三女神であったということが言えると思います。
景行帝はここに行宮を建て、麻剥の残党が棲まうという岩屋を攻めたとありますが、岩屋までの距離はおよそ30km。
山中にいる敵を責めるには、あまりに距離が離れていますし行程も険しい。
しかも大富神社がある場所は、前面に海が、背後に山が迫り、地の利があれば良き要塞となり得るでしょうが、敵地であれば逆に不向きではないか。
豊前という地名から言うまでもないことではありますが、大富神社も本来は豊系の土地であり、その末裔である土雲が支配していたであろうと考えられるのです。
そこへ景行帝の軍勢がやってきて制圧したのでしょう。
当社には山田の感応楽というものも伝えられています。
ここで目に留まったのが「赫熊」(しゃくま・しゃぐま)という文字。
ここではかつらのようなものを指しているようですが、それは名の通り、熊の赤毛のようなもので作られたかつらであると想像できます。
僕が赫熊で思い出すのは、久留米大善寺に伝わる「鬼夜」の火祭りです。
クライマックスの盛大な火祭りの陰でひっそりと行われる真の祭事は、一年の穢れを一身に受けた鬼神を月の霊水を湛える泉(川)で清めるというものでした。
その暗闇の中で鬼神を泉まで導くのが赫熊と呼ばれる子供たちです。
この赫熊と呼ばれる役目の人々こそ、土雲なのではないでしょうか。
境内の一角に少し異質な神社がありました。「築上蚕神社」(ちくじょうかいこじんじゃ)です。
五穀豊穣・蚕繭豊作の神「保食神」(うけもちのかみ)を祀るのですが、昭和15年(1940年)に宗像大社から勧請されたと伝えられます。
築上郡養蚕業組合の事務所に鎮座後、昭和28年(1953年)に築上蚕業技術指導所へ遷座。
昭和50年(1975年)3月に当地に遷座しました。
北口の参道を出ると、一本の杉の木がありました。
幣が掛けられているので、御神木なのだと思われます。
南に続く参道の脇には、
「勅使井」(ちょくしい)と呼ばれる井戸がありました。
社記によれば、当社に勅使が宇佐神宮へ参向の時、この井戸水を汲んで炊事に用い、茶水と為したところからその名がついたと伝えられています。
現在も10年毎に斎行される宇佐神宮勅祭では、神職が御神水として井戸の水を持参し、勅使にお茶を差し上げるのだそうです。
このように宇佐神宮と関わりの深い大富神社。
神護景雲3年(769年)、宇佐神宮の神託を利用して天皇になろうと画策した弓削道鏡の、その神託の真偽を確かめるために勅使として遣わされた和気清麻呂も道中、勅使街道の路頭より、下乗して当社を拝礼したと伝えられていました。