宮処野神社:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 10

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冬十月、景行は速見邑に着いた。その土地は広大で美しく、故に碩田国(おおきたのくに)と呼ばれた。
「大君、速見邑の女が来ております」
「うむ、通せ」
海沿いの仮拵えの宮は、凛とした冷たい空気に満たされていた。そこへ一人の女が現れた。巫女独特の妖艶な香りをまとう女である。
「私はこの邑の戸畔、速津と申します。 畏まってお伝えたいことがあり参りました」
「申してみよ」
「はい。この先の山に鼠の石窟と呼ばれる大きな窟があり、そこに二人の土雲が住んでおります。一人は名を青といい、もう一人は白といいます。また直入県の禰疑野に三人の土雲がおります。一人は打猿といい、もう一人を八田、さらにもう一人が国麻侶といいます。この五人はそれぞれが強力で仲間が多く、 皆、皇命には従わないと言っております。もし従うことを強いるのなら、兵を興して戦うと言っております。大君様、どうぞこれらの者どもを討ち取られください。彼らを滅せれば、他の土雲もたやすく御することができましょう」
「なるほど、よくぞ教えてくれた。が、お前の言うことがまことであると保証するものがない。我を騙し殺させるために嘘を伝えに参ったか」
景行は剣を抜き、切先を女の鼻先に向けた。女は怯む素振りも見せず、伏したまま言葉を続ける。
「私も土雲の巫女、大君様がお疑いになるのも承知いたしております。どうか私めを側に置いていただき、私の話が嘘であった場合はすぐさまその剣でこの首をお刎ねくださいませ」
しばし景行は女を見つめ、そして剣を納めた。
「それでは私がお前の価値を見定めてやろう。ただし、少しでも怪しい動きをすれば命はないぞ」
「ありがとうございます。それではすぐに宮をお移りくださいませ。この場所は彼奴らに知られております。來田見邑が良いでしょう。彼奴らに知られぬよう、私めがご案内いたします」
かくして、景行らの軍勢は来田見邑の森に入り、土雲征伐の軍備を整えていった。

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大分県竹田市久住町大字仏原に鎮座の「宮処野神社」(みやこのじんじゃ)を訪ねます。

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「豊後国風土記」によると、景行帝が大分に来たとき「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」と言ったとしており、これがのちに「大分」と呼ばれるようになった由来であると記しています。

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実際には大分平野は広大とは言いがたく、むしろ地形は狭く複雑で、「多き田」がその由来であるというのが最近の見解のようですが。

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ともあれ、景行12年(82年)10月に、帝が九州征西の途中、豐後國速見郡に住む速津媛(はやつひめ)から5人の土雲の長の話を聞き、これを征伐するため來田見邑(くたみのむら・朽網郷)に入り、行宮を設けて議(はかりごと)を行ったと伝えられています。

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その行宮の場所が当地であり、宮処野神社創始の由来となっています。

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宮処野神社の神門手前を右手に進むと、景行宮趾と掘られた石碑が杜の中にポツンと建っていました。

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後世に村人が、この行宮の地に景行の霊を祀り、さらに皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)の霊を合祀し「景行宮」と称したと云います。

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祭神は「景行天皇」「日本武尊」のほかに 「嵯峨天皇」(さがてんのう)を祀ります。

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弘仁5年(814年)、宮処野神社の社家でもあった吉野の直入郡擬大領の膳廣雄(かしはでのひろを)は、娘を嵯峨天皇の采女(うねめ)として宮中に献上しました。

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娘は承和9年(842年)7月、天皇が崩御された後に故郷の來田見邑に帰り、嵯峨天皇の恩贈の御物を境内の擬山陵に鎮め奉ったと伝えられます。

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仁寿3年(853年)に当社にて嵯峨天皇の霊も祭祀したことにより、里人から「嵯峨宮さま」として親しまれるようになり、明治4年(1871年)に宮処野神社と改称されました。

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「宮處野、朽網郷の野にあり。同じ天皇、土蜘蛛を征伐む時に、行宮をこの野に起てたまひき。これをもちて名を宮處野と曰ふ」

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「宮処野」という名は、景行帝が土雲征伐の行宮(かりみや)を設けたことに由来すると『豐後國風土記』に記されています。

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景行帝が大分に至った時、彼に土雲の情報をもたらした速見郡に住むという速津媛、彼女も土雲の戸畔であったと推察できます。
当時の九州北側の3分の2に当たる部分は物部・豊連合王国でした。
物部族と豊族は複雑に入り混じっていたと思われますが、邪馬台国と称される女王国の姫巫女・豊玉姫の威光は厚く、女首長・戸畔が各集落をまとめていました。

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物部族は父系社会なので、彼らが主体であれば女が首長となることはなかったと思われます。

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ただ、速見郡・速津媛の「速」という文字は物部の祖「徐福」に好まれて使用される文字です。
彼女は土雲でありながら、物部に傾倒していた可能性が高いと思われ、その正当なる王・景行に協力したのだと考えられます。

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青・白、打猿・八田・国麻侶が率いる各土雲族はそれぞれが強大な勢力でした。
そこで景行帝は内陸部に拠点を築いて、計略を練り、十分に軍備を整えて彼らの討伐に臨むことになります。

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当地は土木にも活用できる大樹が茂り、また良質な水が入手しやすかったという利点があります。
近隣では炭酸泉も沸いており、傷ついた兵士を癒すのにも使われたかもしれません。

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そうした細かな情報も速津姫によってもたらされ、彼女は景行の信頼を獲得していったのでしょう。

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かくして物部王朝・景行軍と豊の末裔・土雲の、最大の争いが行われていくことになりますが、偉大な女王とその後継者を失った土雲の悲劇は、彼らを一つにまとめ得る統治者がいなかったことにあるのでした。

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2件のコメント 追加

  1. Nekonekoneko より:

    汚ねえ女の暗躍…

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      女は怖いですねぇ、ブルブル😨

      いいね: 1人

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