俵積神社:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 11

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景行は群臣と話し合い、言った。
「今こそ、大勢の兵を動かしてツチグモを討とうと思う。もしツチグモが我らの兵の勢いを恐れて山野に隠れてしまえば、必ず後に憂いとなるであろう」
景行の軍勢はすぐに海石榴樹(椿の木)を採って、それで椎(槌)を作った。それで勇猛な卒(兵士)を選んで椎を授けて、山を穿ち、草をはらって、石室のツチグモを襲って、稲葉の川上で破り、すべての党(ともがら)を殺させた。
その流れた血は、踝(ツブナキ・くるぶし)にまで達した。
人は、その海石榴の椎をつくった所を海石榴市と言い、また血の流れたところを血田と言った。

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大分県竹田市市用(いちもち)の、のどかな田園の側に、不思議なものがあります。

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天満社境内の横にあるのが

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「市用横穴古墳群」です。

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丸型や

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四角い窓がずらりと並んでいます。

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これは、古墳時代後期の六世紀末頃の横穴古墳と考えられています。

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速津媛は景行帝に、「山に鼠石窟という大石窟があって、その石窟には二人の土蜘蛛が住み、一人を青、二人めを白という」と伝えますが、その鼠石窟(ねずみのいわや)がこれではないか、という説もあるようです。

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が、流石にそれは違うでしょう。鼠石窟があるとしたら、もっと大きな洞穴であると思われます。

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しかしうっすら赤い塗料の跡も見受けられる横穴古墳群は興味深いものでした。
この横穴古墳は、通常の古墳と比べると簡単な造りになっており、埋葬された人々は、竹田市菅生にある七ツ森古墳群のように強大な支配層ではなく、村や集落の有力者程度の地位の人たちだったと考えられています。

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ちなみに天満社は、横穴古墳群よりかなり後にできたもので、古墳群と直接の関わりはないようです。

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豊後大野市朝地町綿田の山中に、ひっそりと「俵積神社」(たわらづみじんじゃ)は鎮座していました。

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樹勢よく、杜の氣が降り注いでいます。

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長い階段を登ると、

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平坦な場所に出ました。

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鳥居の方向へ進み、

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しばらく歩くと

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神門が見えてきます。

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まるで人目を避けるように隠された聖域。

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社殿はとても立派で、大切に守られている印象です。

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祭神を見てびっくり、宇奈岐比古(うなぎひこ)と宇奈岐比売(うなぎひめ)が祀られています。

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由緒書ではこの二柱はのちに合祀されたように記されていますが、当地が宇奈岐族の勢力地であったことを示しています。

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宇奈岐比売といえば湯布院にその名を冠した神社はあれど、祭神としては隠されてしまった姫巫女です。
また同名の彦と姫を合わせて呼ぶときは、その集落の王と姫巫女を表していると考えられます。

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つまり当地には、豊玉女帝を生み出した一族の、正当なる末裔が居住していたということになるのではないでしょうか。

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当社に関しての伝承がありました。
景行帝が当地に至った時、この地に小竹鹿奥(シヌカオク)・小竹鹿臣(シヌカオミ)という土雲が居ました。
景行が日子五柱と日女三柱の神を祀らせたところ土雲は逃走し、景行軍はこれを追って俵積山麓に至ります。

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そこで土雲は降伏し、その地の百姓が戦勝をことほぎ、宇奈岐比古・比売の織った木綿などを献上したとのこと。
景行帝は二柱の神に幣帛を捧げ、その後社殿を造営して祭祀したのが当社の始まりとするようです。

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また、土雲の小竹鹿奥・小竹鹿臣については『豊後国風土記』に、二人は景行帝に奉る食事を作ろうとして狩をしたが、その狩人の声が大変やかましかったため、帝は「大囂」(あなみす、やかましいの意)と言ったと記されています。
これが大囂野となり、訛って網磯野という地名になったのだと。

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では小竹鹿奥・小竹鹿臣が宇奈岐比売・宇奈岐比古であったのか。
はたまた宇奈岐比売・宇奈岐比古とは土雲の青と白のことなのか。

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当社はその後、天武天皇,順徳天皇が社殿を再建し、さらに建保6年(1218年)に初代当主の大友直能(よしなお)が祠を再建して田地を寄進したとあります。
なぜこのような辺境の神社が、それほどに大切に敬われたのか。
それは当地の豪族が土雲と呼ばれていたとはいえ、彼らは偉大なる宇奈岐日女の子孫であったからではないでしょうか。

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俵積神社の本殿裏には、この社名の由来にもなっていると思われる、少し変わった磐座がありました。

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高台の上に石垣を積み、その上に3つの石が乗せられています。

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由緒書によるとこの磐座は、古代の邑人が草綿の俵を積んで、それが石と化したものであるとか、また沈没した船に積んであった米俵であったと伝えられているとのことです。

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まあ本当に米俵が化石化したわけでもないでしょうから、これは明らかに祭祀のための磐座です。
そしてこの三位一体の磐座が指し示すものは、サイノカミ的な信仰があったということではないでしょうか。

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また当地は祖母山系の宇田姫神社にも程近く、豊族の重要な拠点の一つであったことが想像できます。
日本書紀と風土記の両方に記されるほど、強大な勢力を有していた土雲族の青と白、彼らの根城こそ、この俵積神社だったのではないでしょうか。

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青と白率いる土雲軍は抵抗も激しく簡単に滅ぼせるものではなかったようです。

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景行軍はは海石榴の木を切って椎を作り、それを使って山を穿ち、草をなぎ払って進軍しました。
道を切り開き、戦いに有利な条件を作り出したのかもしれません。

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景行軍は稲葉の川上において青・白らを打ち破り、その軍勢をことごとく殺害しました。
この戦いで大量の血が流れて池のように溜まり、くるぶしが埋まるほどに達したと云います。
その血が流れた場所は、「血田」(ちだ)という地名になったいい、今の「知田」の場所であると伝えられていました。

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3件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    CHIRICO様
    ハイ! 金刀比羅宮、できるだけ早いうちに頑張ってお参りすることにします!
                                                       asamoyosi 

    いいね: 1人

  2. asamoyosi より:

    CHIRICO様
    おはようございます。いつもありがとうございます。

    海石榴市って、大分県にもあるのですね。読み方が特殊なので、海石榴市は万葉集などに出てくる奈良県の海石榴市だけと思っていました。万葉集「海石榴市の八十の街(ちまた)に立ち平し 結びし紐を解かまく惜しも」 海石榴市での歌垣・・・男女の出会い、一寸艶なるものがありますが・・・。海石榴市と血田、大和・海石榴市の「ちまた」 関係はないでしょうが、ふと心に浮かんだことでした。

    岩肌に穿たれた、まるでマンションのような古墳群、CHIRICO様が書かれていた埼玉県の吉見百穴古墳群に一度は行ってみたいと思っていました。今のように交通の便が良くなかった大昔でも、いろいろな面で繋がりというか共通性があるものですね。埼玉県は車では行きにくいのですが、大分県ならもしかしたら行けるかも知れないとチョッピリ楽しみです。

    いずれもCHIRICO様のブログの本筋から外れたコメントでごめんなさい。

    それと、この間のCHIRICO様のブログ「金刀比羅宮」で「いいね」を付けさせて頂いたのは、「いいね~」という羨望からなのです。足腰の大丈夫な内に是非行ってみたいと思っているところですので・・・。普段ならCHIRICO様のブログ、拝見させて頂いていても「いいね」を付けるなんて、格調が高すぎて恐れ多いように思ってしまうのです。もっと気軽にと思うのですが、なかなか出来ずにいます。
                                                        asamoyosi

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      奈良の海石榴市は有名ですね。石碑があるそうなので、いつか訪ねてみたいと思っています。

      あのマンション古墳群は一体何でしょうね。集合墓地のようなものなのでしょうか。どこにでもあるわけではないのに、遠く離れた場所に点在しているのはどういうことでしょうかね。

      私のブログは、老後に空想旅行を楽しむために作っているようなもので、完全趣味の範疇をでないものですから、お気軽にどうぞ。
      でも金刀比羅宮は本当に、足が元気なうちにぜひ参拝されてください😊

      いいね

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