福岡県みやま市瀬高町太神に伝わる「宇津良姫」(うずらひめ)の痕跡を訪ねてきました。
この辺りは田園が広がっており、小川や水路が網の目のように流れています。
車を走らせていると、ぽつんと森を発見。
田んぼの中を参道が伸び、
思った通り、神社がありました。
扁額を見れば天満宮とあります。
要塞のような社殿。
雪除けでしょうか、さほど豪雪地帯でもないのですが。
再び車を走らせると、すぐにお目当ての場所がありました。
それは左側の森にあるのですが、
右側の森も気になります。
こちらも天満神社でした。
天満宮といえば、祭神は菅原道真ですが、本来天満社とは事代主を手間天神として祀っていたそうです。
道真ブームが来て、祭神が書き換えられたのでしょう。
さてお目当ての方の森の中にあったのは「宇津良姫塚」。
これは土雲・宇津良姫の墳墓と伝えられています。
宇津良姫はこの一帯を領有した大地主神(おおとこぬしのかみ)の娘で、景行帝が黒崎より宇津に至る時、その航路を守護したと伝えられます。
宇津良姫塚の隣にある地蔵堂に祀られているのが父の大地主神だそうです。
大地主神は大国主のことであるという説もあるようですが、近辺に天満宮が複数鎮座していることから、おおとこぬしのかみ=事代主だったのではないでしょうか。
宇津良姫塚の案内板の裏手には木製の案内板がありますが、前半はほとんど読むことができません。
後半はよく見ると「神人カッパ」の文字が読めます。罔象女神の名前もうっすらと。
宇津良姫塚の裏手にも水路があり、この塚のある場所は浮島と呼ばれているそうです。
事代主信仰を持つ部族の水の巫女、それが宇津良姫だったのでしょうか、少ない情報からそのような姿が思い浮かびます。
宇津良姫塚から少し離れた長島東地区に鎮座の「釣殿宮」(つってんさん)です。
杜に飲み込まれそうな神社ですが、愛嬌たっぷりの狛犬さんが迎えてくれました。
釣殿宮は昔、腹赤宮(はらあかみや)と呼ばれていたそうです。
天智天皇が皇子の頃、当地に修行に出て船で小佐島(長嶋)に着いた時、里人が網を引き赤い腹の魚を食事に出しました。
天智はこれを気に召して名を尋ねたところ、里人は「にべ」(鰚はらか)だと答えました。
天智が天皇に即位した後は毎年、大宰府にこの魚を献上し、また祝いの魚としたそうです。
後年に天皇の行在所の地に釣殿を建立し、付近に旗を立てた所を御幟(みはた)といい、鉾をたてた所を鉾立の宮森(ひろたけさん)と称して今に残っているそうです。
珍樹と書かれた案内板が気になりますが、その由来はいまひとつわかりません。
社殿は生憎の修理中。
しかし西の宮というところに気になるものがありました。
物部阿志賀野神が祀られているらしく、因幡一族が「こうやの宮」の祭事の後、祭祀を司ったとあります。
こうやの宮は後に行きますが、物部色を感じさせる物がある場所です。それを因幡族、おそらく宇佐族が祭祀していたということでしょうか。
中には石が祀られており、この物部阿志野神は大黒さんとも呼ばれているそうで、ちょっと混乱します。
長島東の「太神宮」(だいじんぐう)です。
杜のトンネルを抜けます。
一見寂れた感じですが、立派な社殿が建っています。
祭神は天照大神。
天智天皇が行幸の時、仮の御室(むろ)として神籬木を建て、毎朝東方の朝日を拝まれた地と伝わります。
海津地区に「水天神社」がありました。
この一帯は昔は港として栄えており、奈良時代には、官道の狩路駅の水駅とされたところだそうです。
しかし、故に常に水害に悩まされた場所でもありました。
明治15年大洪水の後、水天宮を勧請し守護神として祀ったのだそうです。
海津地区に「筑後乃国阿蘇神社」が鎮座していました。
ローカルでありながら、荘厳な雰囲気です。
こちらの神社に関しては、ウィキ先生に伝承が書かれていました。
以下抜粋。
1 延元 元年(1336年)南北朝時代のこと、南朝方についた阿蘇の大宮司・阿蘇惟直と義弟の恵良惟澄たちは、多々良浜(今の福岡市東区)で大敗します。当時の大宮司阿蘇惟直は義弟の恵良惟澄に刀を託し自刃します。「お前は生き残ってくれ」
2 惟澄は辿り辿って杣の里より矢部川を下り、川のほとりでこんこんと深い眠りに落ちていた。傍らには鋸のように欠けた刃。そこへ無数の蛍がやってきて強い光を明滅させている。翌朝、惟澄が目を覚ますと太刀は元の如く青白い光を放つ、こぼれの全くない銘刀にかえっていた。惟澄は阿蘇の神霊が蛍となって太刀を元どおりに帰し給うた事に唯々感に打たれしばし呆然としていたが、やがて威儀を正して遥か南阿蘇神社の方を伏し拝んで感涙にむせぶのであった。
3 近くの宮園城の城主・大木貞久は、惟澄の傷が癒えるまで城内に留まらせます。貞久の「貴方の郷里、阿蘇の大明神を分霊して、ここ海津古川の丘陵に祀られよ」との勧めもあり、惟澄は海津古川の地に阿蘇の神様を奉祀します。(延元二年・1337年)早鷹宮、これが筑後乃国阿蘇神社の前身です。
4 惟澄は後に筑後守に任命され、晩年は肥後国阿蘇神社の大宮司にまで昇り詰めます。蛍が修復したとされる旧国宝(現在では重要文化財相当)「蛍丸」は、肥後国阿蘇神社大宮司家の宝刀として秘蔵されてきましたが、戦後行方不明になっています。
5 かたや、海津の地では惟澄の子孫とされる江良家が代々宮司を務めており「蛍丸」と伝わる太刀が先祖より受け継がれています。GHQによる戦後の刀狩りの際には、神社の裏に5~6年埋めて難を逃れました。その為保存状態は悪く、銘の保証もありません。
6 時代は移り、筑後国は立花家(藩)の支配を受けるようになります。宗茂公と共に朝鮮の役に出兵する際に必勝祈願をした家老小野和泉守(日本槍柱七本の一人)はめでたく凱旋され、早鷹宮(阿蘇神社)にお礼言上参拝されました。
7 元和八年(1622年)小野和泉守の命により社殿並びに神殿が寄進、現在の場所に早鷹宮より阿蘇神社として分霊されました。(海津郷土史より)またその後も小野和泉守・小野若狭守、そして海津の氏子の方々より神殿再建、楼門再建に多大なるご尽力をいただきました。
8 毎年三月第一日曜日には御田植祭(市指定無形民俗文化財)が行われます。この神事には早乙女役に学童が参加する他、田打男、馬草刈り、種蒔、其々の役が面白可笑しく演じられ、五穀豊穣が祈られます。
9 初代宮司の恵良惟澄より、大木貞久、小野和泉守、海津の氏子の方々を始め、多くの方々のお陰・守られてきた筑後で、共に長い間守国阿蘇神社毎年三月第一日曜日には御田植祭(市指定無形民俗文化財)が行われます。この神事には早乙女役に学童が参加する他、田打男、馬草刈り、種蒔、其々の役が面白可笑しく演じられ、五穀豊穣が祈られます。令和四年2022年)には御鎮座400年、そして令和十九年(2037年)には創建700年を迎えます。
以上。
さて、いろいろと寄り道してきましたが、謎の社「こうやの宮」へやってきました。
太神鬼木(おおがおにき)部落の人達が先祖代々氏神として祀り続けている小さな社です。
中に五体の御神体の人形が安置されており、異国風の「七支刀」を持った男神像や鏡を持った女神像、カッパ像などがあります。
七支刀は、奈良の石上神宮(いそのかみじんぐう)の御神体ともされる国宝の刀で、刀身の銘文から泰和4年(369年)百済の太子貴須から大和軍派兵によって高句麗を討った御礼に大和国王旨に献上されたものと分かっています。
「日本書紀」には、神功皇后が三韓征伐の折、百済から献上されたと記されており、七支刀はいったん「こうやの宮」(磯上物部神社)に安置され、大和朝廷が安定後、物部一族により天理市の石上神社に奉納されたとも推定されています。
七支刀を持った男神像の横には皿を頭に乗せた、神人カッパの像もあります。
当地では旧暦の5月が「水の神」を祀る月で、現在は春の彼岸に「河童まつり」が行われています。
秋彼岸が過ぎると、河童は山に行って山童(やまわっぱ)となり、春になると川へ帰って来て河童になるのだそうです。
これらの像がいつ頃、誰によって作られたよく分かりませんが、当地に土雲の水の巫女・宇津良姫がいたこと、山の祭祀とも関係があること、また物部の勢力があったことを誰かが伝えようとしたのではないかと思われるのでした。
こんにちは。CHIRICOさん。CHIRICOさんの本をネットで検索かけたんですがヒットせず、うにゅーってなってます。
今週末の講演会と本の告知を是非。
こちらはコロナの影響で他社の仕事が来年までブっ込まれ、土曜、祝日なしのブラックジョブ体制に・・・ただでさえ忙しかったのに上澄みしてくるとは・・・。最近は寝て起きて飯食べて仕事してのルーティーンに心が荒んでます。たぶん、講演会に行けそうにないので、ネット購入しようかと思って検索したんですが見つかりません。
でなもんで出版社、著作、邦題、値段をコメント欄でなく、告知でやって頂けると助かります。
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8まんさん、こんにちは😃
告知のことはもちろん考えているのですが、発売日など、僕も良くわからんのです。
今日の江ノ電新聞に広告が載ると聞いていますが、一応それを送っていただけるようです。
講演会の時に数部、僕から直接販売させていただけないか伺ってみるつもりです。
『人麿古事記と安万侶書紀』で検索すると、いくつかの流通サイトでは購入できるようですが。
詳細告知は、もう少しお待ちくださいm(_ _)m
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8まんさん、遅くなりました😅
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