さらさらと風が吹く
一面の稲穂に風が吹く
島根県松江市山代町にある「眞名井神社」(まないじんじゃ)、ここで二人の男が出会うところから、『人麿古事記と安万侶書紀』の物語は始まります。
田園広がるこの場所は、八雲町熊野を源流とし、松江市を流れる意宇川(いうがわ)の下流域にあたり、古くから豊かな実りを出雲の人々に授けてきました。
そこにこんもりと盛り上がる「茶臼山」(ちゃうすやま)があり、『出雲国風土記』に記される「神名樋野」(かんなびの)に比定されています。
古代出雲族は険峻な山を男神の山、なだらかでふくよかな山を女神の山としましたので、この山は女神の神奈備だったことでしょう。
その茶臼山の南東に鎮座する社が眞名井神社となります。
境内入口には勇ましい狛犬が。
眞名井神社は古くから意宇六社と呼ばれていました。
他の六社は次の通り、
松江市八雲町の「熊野大社」、大庭町の「神魂神社」、大草町の「六所神社」、佐草町の「八重垣神社」、八束郡東出雲町の「揖夜神社」です。
これら六社が鎮座する一帯は明治時代まで意宇郡と呼ばれており、それはかつて、王都がここにあったことを伝えています。
つまり意宇とは「王」のことです。
遠い、遠い昔、畿内に大和王国が誕生する以前に、日本のあけぼのを築いた王国は出雲にありました。
3500年以上も昔のこと、西北方から戦闘的民族アーリア人がインドを侵略しました。
インドのドラヴィダ民族は平穏を好む農耕民族でしたが、アーリア人の奴隷にされました。
この時、ドラヴィダのクナ地方を治めていたクナト王は、民を引き連れて移住を決意します。
彼らは敵対民族に出会さないようシベリアを抜け、住民の少ない温暖な島・日本へ、北海道から上陸したのです。
定住に相応しい平地はいくつかありましたが、彼らが行き着いたところは日本海に面し、冬には雪深いところでした。
なぜ彼らは、そこに定住したのか。それは良質な砂鉄が採れる斐伊川があったからでした。
出雲の良質な砂鉄からは、当時貴重であった鉄が、野ダタラで容易に作ることができました。
極寒の冬が過ぎると、その場所にも春が訪れます。故郷のインドは熱帯で、濃緑色の常緑樹が年中繁っていました。
それに対し、ここでは春に芽吹いた森の色が、彼らには目にしみるように美しく感じられました。
それでこの国は、出づ芽の国、「出雲」と呼ばれるようになったのです。
物語の冒頭で眞名井神社にやってきた男は「向家」(むかいけ)または「富家」(とみけ)と呼ばれていました。
彼はかつて出雲に存在した王家の末裔です。
出雲が王国として始まったのは、菅之八耳(すがのやつみみ)が王に就任した時からでした。
出雲国は武力による他国の制圧を好まず、出雲族は各地の豪族を言葉により説得する、いわゆる「言向け」ることによって支配域を広げたと云われています。
出雲王国最盛期には、その支配域は6代臣津野王の国引き神話にあるように、西は北部九州、東は越国、南は四国にまで及びました。
出雲王家は2代目より、西出雲王家の「郷戸家」(ごうどけ)と東出雲王家の「富家(向家)」に分かれ、それぞれ交互に主王と副王を輩出します。
東王家には訪れる者が貢物を山のように積み上げたので、富家と呼ばれるようになり、また言向けた王を尊んで向家とも呼ばれました。
しかし太古より700年続いた麗しき出雲王国は、西暦250年の頃に九州の物部族から激しい侵攻を受け、終焉を迎えたのです。
しかし出雲は、その後は王国ではなくなりましたが、元王家は民から尊重され、大きな影響力を持っていました。
そして元両王家は、以後も出雲の民々を守ってきたのです。
眞名井神社の龍鱗枠に「有」の神紋、これは意宇六社などに見られる紋で、有=十月、つまり神在月を表すのだそうです。
眞名井神社の祭神は「伊弉諾神」(いざなぎのかみ)と「天津彦根命」(あまつひこねのみこと)。
天津彦根は山代直の祖と伝えられます。
『出雲国風土記』には「まない社」として在神祇官社の「眞名井社」と不在神祇官社の「末那爲社」の2社が記載されています。
当社の祭祀は神魂神社の社家である秋上氏が神主と別火を兼ね、社殿も両社を同時期に造営していたといいます。
この秋上家こそ、王家を滅亡に導いた出雲侵攻・物部軍の将軍でした。
この秋上家は出雲を占拠した後、東王家の王宮であった神魂神社に住むことになりましたが、元王家の富家に敬意を払い、王宮の形をそのまま守り、それは今に続いているのだそうです。
本殿の両脇にそれぞれ境内社が鎮座していますが、向かって左は「児守神社」で宍道若宮社、山代神社、荒神社を合祀しています。
向かって右に鎮座するのは「末那為神社」(まないじんじゃ)
この境内社は稲荷社になっていますが、稲荷信仰も真名井信仰も秦族に由来しています。
その真名井の聖域に足を運んでみます。
眞名井神社の東方に「真名井の滝」と呼ばれる場所があります。
『雲陽誌』ではこの滝の近くに「真名井荒神」があると記され、この滝壺で汲まれた水は古来より出雲国造の神火相続式や新嘗祭の際に用いられたとされています。
出雲国造家は古い出雲の一族ではありません。
彼らの先祖は後に秦国から渡来した一族でした。
真名井のマナの語源はイスラエルにあると云います。
旧約聖書にある「脱エジプト」によると、太古、エジプトの奴隷となっていたイスラエル人たちをモーゼが救い、率いてイスラエルに帰ることになりました。
しかしアラビア半島を通るとき、かれらは飢えの危機に遭います。
その時、彼らは植物が分泌した樹脂性の液体を摂ることで生き長らえました。
彼らはそれを神の恵みだと信じ、それを「マナ」と呼びました。
紀元前3世紀頃、徐福とともに出雲に来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫でした。
そして斉の王族は、「消えたユダヤ十支族」といわれる人々の一族だ、との言い伝えがあったそうです。
彼らの信奉した「道教」には、ユダヤ教の影響が見受けられるとも云います。
出雲に渡来した秦族は「海家」(あまけ)と呼ばれ、後に海部氏(あまべし)となっていきます。
海家の一部の人間は出雲の王と副王を同時に孤島に拉致し、枯死至らしめるという大事件を起こしました。
出雲は深い悲しみに覆われましたが、長い年月の中で彼らの罪を許し、海家の一部は出雲族と習合していったものと思われます。
その彼らが神奈備から注がれる清水を、マナと呼び、ここを聖地としたのだと思われます。
滝の注ぎ口からは管が通され、この真名の聖水を手軽に口に含むことができるようになっていました。
この水は地元の銘酒「真名井」にも生かされています。
古い時代の出雲では、春と秋に祭りが行われていました。それは豊作の祈りと収穫の感謝を神に捧げたものでした。
大穀倉地帯の当地においても祭りは行われ、その祭祀の中心はこの眞名井社であったと思われます。
その秋の祭りに、向家の当主に秘密裏に会いたいと言ってきた男がいました。彼は名を「山辺赤人」(やまべのあかひと)と告げたと云います。
彼は大和で、右大臣が進める、とある歴史書の制作に携わっていたと向家の当主に伝えました。
そしてその中で何者かが、出雲王国の歴史を抹殺しようとしていると告発したのです。
そして失われつつある真の日本史を守るため、命をかけて暗号を残した人物、それが山辺赤人ともう一人、万葉歌の天才「柿本人麿」(かきもとのひとまろ)その人だったと、最後に向家の当主に言い残したのです。
ここから『人麿古事記と安万侶書紀』の話は語られていくことになるのでした。
唐突ですが
ヤタガラスという集団がるとも、色々言われていますが、出雲伝承でも八咫烏はちょっと謎がある様に思います。
私の中では、八咫烏に加え、フツヌシです。
藤原(ミカヅチ)とともに国譲りに登場したフツヌシの動向はまだ書かれていない気がするのです。
先代の登場した謎の出雲帝国ですが、八咫烏は朝鮮系とも言われ、ヒボコは別に登場させながら、実に陰険で仲間のようにふるまいながら出雲人を殺していったとあります。
現在の出雲王家本には八咫烏に比定されている人物が曖昧になっており、発表する段階を考えているというより、何か迷走や(書かせることに)躊躇いの様なものを感じます。
しかし、出雲散家がそんなことをするはずもなく(乗っ取られてたら話は違ってきますが)
歴史の勝者であるかのように書かれる藤原家も、弓前文書の様に、核心の委細心得は、平成になってから藤原家に戻されています。
全ての旧家が日本書紀に縛られ、暗黙のルールの主体・黒幕が不明になり、いつしか全てを飲み込んでいった呪いの様なものに、実は特定可能な存在として黒幕的実態があるとしたら、戦慄を覚えずにはいられませんwww
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フツヌシについては、斎木氏がおっしゃるにはヤマトタケルのモデルである小碓が、関東に進軍し、香取の地で祀ったものだという話です。
徐福は徐市(じよふつ)とも呼ばれていたので、フツの御霊として後に祀られるようになったとか。
ヤタガラスは私にもよくわからないところです。
ただ第一次物部東征後、大田田根子が三輪大君として台頭していることを考えると、彼である可能性が高いように思います。
今に聞こえるヤタガラス、というものは、その名を利用した別物ではないでしょうか。秘密結社的なものを語るに、ヤタガラスの名は相応しかったのではないかと。
記紀がやたら物部尊重な内容であることも、私には未だ謎です。何かあると、思わざるを得ませんね。
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