島根県松江市大草町に「六所神社」(ろくしょじんじゃ)は鎮座しています。
その参道は「王の川」を意味する意宇川から伸びており、当社が出雲の古い王家に縁があることを忍ばせます。
古代出雲王国では、西王家の郷戸家と東王家の富家(向家)が互いに王と副王を擁立し、統治していました。
意宇という地名は「王」に由来し、そこに東出雲王国・富家の王都があったことに由来します。
当社祭神は、「伊弊諾尊」「伊弉冉尊」「天照大神」「月夜見尊」「素盞鳴尊」「大己貴尊」の六柱。
六所神社という社名の神社は日本各地にあり、一般的には六柱の神を祭神と、また、都合により六つの神社を合祀した「総社」という意味合いのものがあると考えられています。
歴史学者「吉田東伍」氏は、この意味のほか、管内の神社を登録・管理し統括する「録所」の意味でもあると主張しており、当社の場合はこの説も有力であろうと考えられます。
それは当社の境内の北側では、1968年に出雲国府の遺跡が発掘されており、境内の東側の隣接地に国庁の正殿の遺構の一部があるからです。
六所神社鎮座地が国庁と重なることから、元は別の場所にあったものが移転したと考えられていますが、あるいは録所があった場所に社を建てたのかもしれません。
境内社の一つに丁明神社があります。
祭神は佐久佐彦命。
六所神社は、八重垣神社とともに『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に記載された「佐久佐神社」の論社とされていましたが、明治5年に八重垣神社が認定され、当社は6柱の神を祀る六所神社として結論付けられた経緯があります。
この論争は今も続いているそうですが、そもそも佐久佐神社とは何か。
出雲国風土記に「大草の郷 郡家の南西二里百二十歩 須佐乎命(スサノヲ)の御子・青幡佐久佐丁壮命(アオハタサクサヒコ)坐す。故、大草と云ふ」とあることに由来するようです。
風土記は記紀編纂の後に書かれており、藤原氏の意向などが強く反映され、正確な歴史を伝えているとは言い難い部分があるので解釈に注意が必要です。
まして出雲国風土記は当時の国造家が編纂したものであり、出雲王家の存在を隠すために書かれた部分も多いのです。
つまり佐久佐神社の論社かどうかは、あまり重要なことではないように、僕には思えます。
さて、境内に、異様な雰囲気を醸す一角があります。
御神木に巻き付けられた藁の蛇。
これは出雲に古くから伝わる龍神祭祀の痕跡と言えます。
出雲ではこの藁の蛇を荒神と呼び、出雲の古い言葉で蛇を「ハハ」と呼んでいました。
「荒」神「ハハ」を巻き付けた御神「木」、
これが東日本に伝わる「アラハバキ」の原型であると考えられます。
六所神社の裏手に回ると、国府の跡地が広がっています。
国府(こくふ、こう)とは、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた地域を言います。
国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であったと考えられています。
その国府がここに置かれていたのも、東出雲の王都がここにあったからに他なりません。
向家の当主に、太家屋敷に住んでいるという山辺赤人と名乗る人物が訪ねてきた後、向家の当主は出雲国庁に出向きました。
そこで役人に太家屋敷の主の名前を確認します。
すると不思議な言葉が返ってきました。
「あの屋敷には太安万侶という人がいたが、もう住んでいないよ」
不思議に思った向家の当主は、そこに山辺赤人という人が住んでいなかったか尋ねました。
すると、
「ああ、その安万侶って主人がそんな名前で和歌を作っていたらしいな」
という返答を受けたといいます。
太家屋敷跡と伝わる「意宇の杜」は、この国府跡からも見えています。
向家の当主は国府から出て太家屋敷の方を見つめたことでしょう。
そして視線を左にずらせば、そこには眞名井神社が鎮座する神奈備、茶臼山が聳えているのでした。
意宇6社巡り、私もしました~。
御朱印頂いた時間が遅かったので次の年に、松本のブランドスイカ、ハイランドスイカをお礼に持って行きました。
その時もお盆だったので忙しそうでしたが。神主さん、すごく良い方です。
おそらくですが、謎の出雲帝国の時代で吉田さんも取材してて、記述があったと思います。
思った以上に秘密と権威のある神社のはずです。
確か、今の八重垣神社って、千家寄りの「影の上官家」じゃなかったでしたっけ?千家と北島家が分かれた時の。
あまり宜しい評判の神社じゃないんですよね。確か学校の先生だかをやられてた代がある筈です。
その時の様子を書かれている書き込みを見たことがあります。
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八重垣神社のほうは、うまく時流・観光ベースに乗っかった感じですね。しかし六所神社の方が圧倒的に歴史的には重要な何かがあると感じています。
佐久佐ももっと深掘りすると面白そうです。
時流に乗るというのは、その時の権力者に媚びるということ、それは今も昔も変わりませんね。
八重垣もあれはあれでちゃんとした正しい由緒があるのでしょうに、残念です。
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