天智帝には父親の違う兄がいた。宝姫と高向王・石川臣武蔵との間に生まれた大海人皇子である。
「私は大君となったが、大和はまだ磐石とはいえぬ。兄上の力を私に貸してはもらえぬか。私の次は兄上に位を譲りたいと考えておる」
「大君の仰せのままに、我が身を捧げましょう」
大海人皇子はかしこまって跪いた。
天智は年上で才に長けた大海人の協力を得るため、彼を皇太兄とし、天智の4人の娘を大海人に与えた。これは天智帝の次に、大海人皇子が大君になることを意味していた。
ところが妃が産んだ大友皇子が優秀であったので、天智帝は兄の大海人ではなく、息子の大友皇子に位を譲りたくなった。
「大君、この皇子は人相が並のお方ではない。我が国に行かれても高位に昇られるお方ですぞ」
唐の使節が近江京を訪れた時、そのように奏上され天智は気分が良かった。
669年、中臣鎌子が亡くなる前日に彼を内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
671年、天智は大友皇子を太政大臣とした。これは実質的に、彼を次の大君に指名したようなものだった。
「大友皇子の母親は伊賀の采女だそうだ」
「そのような低い身分の出の皇子が皇太子として選ばれるのか、俺は納得がいかん」
豪族たちの間では不満の声が漏れた。
ある夜、大友皇子は夢を見た。
どこからとなく老翁が現れ、彼に太陽を捧げようとした。すると何者かに脇の下から太
陽を横取りして奪いとられてしまった。
驚いて目が覚めた皇子の体には、冷たい汗がねっとりと絡み付いていた。
千葉県君津市俵田に「白山神社」(はくさんじんじゃ)が鎮座しています。
一般に白山神社といえば石川、福井、岐阜の3県にわたり高くそびえる白山を中心とした白山信仰の神社となります。
しかし当社が「白山」を名乗るのは明治初年の神仏分離の頃。古くは「田原神社」であったと伝えられます。
当地の地名の俵田も元は田原田であり、当社名が由来であると考えられます。
俵田白山神社の祭神は、天智帝の息子「大友皇子」(おおとものおうじ)と「菊理比売神」(くくりひめのかみ)。
本殿には大友皇子像と伝わる、古い軍装木像と、大友皇子の首を入れたと伝わる手桶が安置されているそうです。
菊理比売は白山系の祭神であるので、後に合祀されたものと思われます。
問題はなぜ、「壬申の乱」のあと自害したとされる大友皇子が、近江大津宮から遠く離れた上総国に祀られているのか。
672年6月、天智帝の葬儀が執り行われた翌月のこと、吉野の大海人皇子の宮には、幟旗を掲げる軍勢の姿がありました。
「皆のもの、よくぞこれまで我と共に堪えてくれた。時は満ちたり。各国の軍を召し集め、近江へ進軍する時が来たのだ。勝利の暁には、我が天下をここに打ち立てようぞ」
鎧を纏った兵士たちの鬨の声が響く中、大海人皇子は吉野を出発し、進軍を開始します。
大海人軍は草壁御子や忍壁御子を筆頭に、まずは伊勢に向かうことにしました。伊勢国では近江方面から、高市御子や大津御子が駆け参じました。
大海人皇子は伊勢の内宮と外宮を遥拝し、戦いの勝利を祈願します。
一方その頃、近江の大津宮に伝令が走りました。
「大君、大海人皇子が進軍を開始しました」
「やはりな、この時を狙っておったか。我が軍に伝えよ、軍備を整え次第、吉野に打って出るぞ」
大津宮の大友皇子も大海人皇子の気配を察し、軍備を整えていたのです。
しかし大海人は先手を打ち、美濃国の安八(あんぱち)郡長官・太臣品治に、大津と美濃の間にある関ヶ原の不破関をふさぐよう軍を差し向けさせました。
太臣品治は太安万侶(おおのやすまろ)の父でした。
更に大海人は高市皇子を総指揮者に任命し、不破の狭間に進軍させます。
この時25才の人麿は、高市皇子の軍勢に属していました。
『…天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任したまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでにささげたる…』(199)
高市皇子が鳴らす鼓の音は、雷の音のように打ち響きます。軍事用のツノ笛の音も虎の咆哮のようで、敵の人々は恐れおののきました。
兵士たちが捧げ持つ旗はなびいて、春の野を焼き尽くす炎のようであります。
「矢を放て!」
兵士らが引き放つ矢のおびただしさたるや、大雪が乱れ降るようで、敵の命は露霜のように消えて無くなっていきました。
「かつて偉大な神が瑞穂の国を平定したように、この世は我が大君が統治なさるであろう」
高市皇子は天に向かって申し奉ります。
大海人軍が総攻撃を開始すると、大津軍は安ノ川原で敗れ、瀬田川まで後退しました。そのとき大友皇子が行方不明となったと云います。
大友皇子と妃の藤原耳面刀自は夜陰にまぎれて琵琶湖を渡り、妃の父・鎌足の出身地である上総へ逃げ延びようとしましたが、途中で多勢に囲まれ大津からさほど遠くない山前(やまさき)で自害したと伝えられています。
この争いが壬申の乱と呼ばれ、大海人皇子の勝利に終りました。
太臣品治は壬申の乱の功績を認められ、房総に領地を授けられます。
そして大海人は明日香に都を遷し、浄御原宮で天武帝として即位したのでした。
白山神社の社伝によれば、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文帝)が自刃したのは、滋賀の大津ではなく、東国のこの地であると伝えられていました。
社伝が正しければ、彼は目的通り、藤原鎌足の出身地まで逃げおおせたということになります。
さらに、落ち延びた皇子はしばし平穏に暮らし、ここがその「小川宮」の跡であるとの伝説も残されています。
そのようなことから、当社・田原神社の祭神は大友皇子となっているのです。
白山神社社殿をぐるりと周回して裏に回ると、
千葉県指定史跡の「白山神社古墳」が鎮座しています。
全長約88m、後円部の高さ約10mの前方後円墳で、横から見るとひょうたんの形をしており、「瓢箪塚」と呼ばれています。
この古墳は大友皇子の墓と言い伝えられますが、後円部に比べ前方部が低く、幅も前方に向かってさほど広がらない形態を示していることから、対岸の飯籠塚古墳と相前後して作られた古墳時代前期の古墳と推定されており、大友皇子の時代より古いものと推定されます。
明治期に古鏡、直刀、鉄鏃等が出土しました。
『日本書紀』では、大友皇子の首は将軍・村国連男依らによって大海人皇子のもとへ運ばれ、首実検された後、自害峰と呼ばれる3本杉の下に埋められたとされています。
やはり大友皇子は千葉にやってきていなかったのか。
この古墳の後ろに、意味ありげに石灯籠が並べ置かれていました。
実は大友皇子の古墳は、この先の奥にあるのだと言い伝えられます。
調べてみると、首実検されたものは身代わり者の首で、大友皇子は蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに一旦難波まで出て、船で上総国までたどり着いたという伝承がありました。
ことの真相は不明ではあります。
当地には大友皇子の屯倉(みやけ)があったとされており、その関係で当地が皇子終焉の地と騙られているに過ぎないのかもしれません。
願わくは彼の魂が、一時の生を得て当地に鎮まっているものと思いたいのでした。
今紅葉シーズンの大多喜の養老渓谷に弘文帝と十市姫の伝承がありました。関わりのある高塚や筒森神社があります。弘文帝って誰じゃろな、と思ってそのままにしてたのですが大友皇子と同一なんですね。
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養老渓谷は白山神社と10kmほどの距離ですね。
大友皇子が果たして千葉に流れ着いたのか確証はありませんが、伝承が点在しているところを見ると可能性はありそうですね。
十市姫は天武の娘ですので、流石に来ていないでしょうが、父と夫が争う中で彼女の立場は苦しいものだったでしょう。
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