軽寺:語家~katariga~ 08

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人麿は空を見上げていた。ゆらゆら揺れる雲はつかみどころもなく、彼の心情を表しているかのようだった。
久しく土形娘子と逢っていない。二人の逢引きが彼女の母親に知られ、そして会うことを禁じられた。
まだ彼女が、幼さを残す振り分け髪だった頃のことを、人麿は思い出していた。

「今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「ついてからのお楽しみだよ、ほら手を貸して」

人麿が土形娘子の手を握ると、彼女の指は細くて少し冷たく、やわらかな淡雪のようだった。その手を壊してしまいそうで、人麿はいつもそっと優しく包むように握った。

「手、あたたかい」

くすっと笑って娘子はついていく。
人麿の手は、大きくてゴツゴツとしていたが、不思議なぬくもりがそこにあった。
土形娘子も少し強引な人麿に惹かれ、彼の知識深い話に夢中になっていた。

知り合って8年過ぎて、年頃になった彼女は宮女になった。
四季の移ろいが幼芽を開花させるように、桜が花弁を押し咲かせるように、土形娘子は美しくなっていた。
最初は寂しさを埋める気持ちで付き合っていた人麿であったが、月日が経つにつれ娘子に深い情愛を抱くようになっていた。
しかし彼女は、今では人麿の愛に対しては禁断の宮女である。宮女は一般人との恋愛を禁止されており、二人の恋は絶対に他人に知られてはならないものであった。

『すめろぎの 神の御門(みかど)を かしこみと 侍従(さもら)ふときに 逢へる君かな』(2508)
「私は帝の御所にお仕えしている時に、あなたと恋に堕ちたのよ。人に悟られぬよう、気をつけて」

『まそ鏡 見とも言はめや 玉かぎる 岩垣淵の 隠りたる妻』(2509)
「お前との逢瀬は誰にも言うものか。岩の垣根に囲まれた淵のように隠しておいた妻なのだから」

互いに交わす文だけが、二人の心を繋いだ。人麿は土形娘子から届く歌が待ち遠しく、愛おしかった。

『二つなき 恋をしすれば 常の帯を 三重結ぶべく わが身はなりぬ』(3273)
「あなただけと心に決めて、恋にこがれていますので、私は一重に結ぶ帯も三重にも結べるほどに痩せる身になってしまいました」

人麿は大軽の家に、歌を届けた。
 
『せむ術の たづきを知らに 岩が根の こごしき道を 岩床の 根はへる門(かど)を 朝(あした)には 出で居て嘆き 夕には 入り居て偲ひ 白妙の 我が衣手を 折り返し ひとりし寝れば ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝る 味寐は寝ずて 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 我が寝る夜らを 数みもあへむかも』(3274)
「為す術のない私は、墨坂にある我が家の前で、ごつごつした岩の道や岩根の広がる門を、朝夕に出たり入ったりして嘆いてばかりいる。寝床では、衣の袖を折り返してひとり床につく。折り返した袖にお前の黒髪を敷いて共寝をすることもない。ゆらゆら揺れる大船のように、思いを揺らし寝る夜は数え切れないよ」

当時は綿布団がまだない頃で、衣服を数枚敷いて寝ていた。二人で寝る時は広げて一緒にかぶるが、一人の時は両袖をたたんで寝た。
人麿はしばらく、心の切なさを都の人たちに和歌を教えることで気を紛らわせるしかなかった。

————

「おい、また人麿が面白いことをするそうだな」
「今度の歌会はいつだい、待ち遠しいね」

和歌は貴族の嗜みとして、ますます注目を浴びていた。その中心に人麿がいたのは間違いない。
彼の主人であった忍壁皇子は和歌サロンの主として名声が高くなり、皇子の歌会はいつも人であふれた。

「皇子、このたびの歌会は、支那の国から伝わった七夕の祭りを行いましょう。和歌で人気の恋の歌を詠えば、皆さんも喜ばれます」
「おう、それは良いな。私も人麿の恋の歌が聞きたい」

680年に、人麿は七夕の星祭りを開催することになった。
七月七日の夕べは本来、裁縫の上達を祈る行事であったが、日本では牽牛織女の恋の伝説が取り入れられ、星祭りとなってそれが七夕と呼ばれた。 

『一年(ひととせ)に 七夕(なぬかのよ)のみ 逢ふ人の 恋も過ぎねば 夜は更けゆくも』(2032)
「一年で七夕の一夜だけ逢瀬が叶う恋人よ。更け行く夜の切なさよ」

人麿が作歌を指導をするときに、テキストとして七夕の歌を作って見せた。その歌の連作が1996から2088までの93首と2089,2092の2首の長歌として万葉集に残されている。

『天の川 安の渡りに 舟浮けて 秋立ち待つと 妹に告げこそ』(2000)
「天の川の安の河原に舟を浮かべ、君に逢える七夕の秋を心待ちしているのだと彼女に伝えておくれ」

旧暦では7月初旬は秋の始まりの頃である。人が物寂しさを覚える、ちょうどそんな季節であった。

『天の河 安の河原に とどまりて 神の競(きそ)へば 待つもするなし』(2033)
「天の川の野洲の岸辺を渡って織女のもとに行きたいが、男神たちが我先にと争っているので私は待たされ、彼女を愛する時間がなくなった」

人麿はここに「安の河原」という名称を用いている。これは人麿も参戦した壬申の乱のとき、東西両軍が対峙した琵琶湖の東岸・野洲川の河原を引用した。
今ではその名は天の岩戸神話において語られる。
乱れた世に心を痛めた天照大神は天の岩戸に隠れてしまうと、世界は光を失い闇となった。
そこで八百万の神々は天照大神を再び世に誘き出すために話し合いを行なった。
その場所が天安河原(あまのやすかわら)と呼ばれ、宮崎の高千穂が舞台であるといわれている。

『たらちねの 母が飼う蚕(こ)の 繭こもり 隠れる妹を 見むよしもがも』(2495)
「母親が飼う蚕のように繭にこもっている、あの子に逢う手段はないものだろうか」

許しがもらえない母親から隠され、なかなか逢うことができない土形娘子への恋慕が、多くの名作を人麿に生み出させた。

「ああ、好きにするといい。でもお前たち、私が許しても人に知られてはならないことに、変わりはないんだよ」

久しくして土形娘子の母は、やむなく人麿との逢引を許すことにした。その知らせを受けた人麿は、心に光が差し込んだように思えた。
当時は妻問婚であり、夫婦の営みは夫が妻の屋敷を訪ねる別居生活であったので、二人が母親に逢引きを許されたということは人麿と土形娘子の結婚生活が始まったことを意味した。
しかし二人の関係は依然、公には秘密のことであった。

『百足らず 山田の道を 波雲の 愛し妻と 語らはず 別れし来れば 早川の 行きも知らず 衣手の 帰りも知らず 馬じもの 立ちてつまづき 為むすべの たづきを知らに もののふの 八十の心を 天地に 思ひ足らはし
 魂合はば 君来ますやと 我が嘆く 八尺の嘆き 玉桙の 道来る人の 立ち留まり いかにと問はば 答へ遣る たづきを知らに さ丹つらふ 君が名言はば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 君待つ我れを』(3276)

この長歌は前半を人麿が詠い、後半を土形娘子が詠っている。

「はるばると山田の道の家路を行く。波雲(靡く藻)のような愛しい妻と別れてきたが、もっと彼女と語らっていたかったよ。早瀬のように行くにも足は重く、ひるがえる袖のように引き返すわけにもいかず、私は馬のように立ちすくんでつまづき、なすすべも知らない。千々に乱れる私の思いが、まるでこの広い天地に満ちて広がっているようだ」

「お互いの魂が通じ合えば、あなたはいらして下さるのだろうかと、私は深い深いため息をもらすのです。もし道を来た人が立ち止まって、どうかされましたか、と問われたら、私は頬を赤く染め、どうしていいかも分からずに、さりとてあなたの名を言えば顔に出てこの恋が人に知られてしまうわ。だから、あの山から差し出でる月を私は待ってるの、とその人には言って、本当はあなたのお越しをお待ちしているのです」

山田の道は、土形娘子の住む大軽から桜井に行く途中の石村(いわれ)の道で、むかし山田寺があった。そこからさらに東に進むと、墨坂の人麿の家があった。
 
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国道169号線の東側、奈良県橿原市大軽町の住宅が密集した細い路地の一角に「法輪寺」がありました。
そこは「軽寺」の跡であると伝えられます。

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法輪寺は寺、というよりも無人の集会所のような様相で、狭い敷地の横に墓石が並んでなければ、およそ寺とは思えません。

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玄関口の小さな案内板に記されている「軽寺跡」の文字だけが、その唯一の痕跡と言えます。
そこには「かの藤原道長も、吉野詣りの時に他の大寺を差し置いて当院に泊まられた」と記されており、当時は規模もかなり大きかったことが偲ばれます。

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また裏手には春日神社があり、応神天皇軽島豊明宮伝承地ではないかと云われているそうです。

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高向(たかむこ)氏は東漢(やまとのあや)氏の一族でした。
高向氏の中で有名な人に、高向玄理(くろまろ)がいますが、彼は飛鳥時代の学者で大化の改新に際し、新政府の政治顧問を務めたといいます。
玄理は橿原市の南にある大軽の地に軽寺を建て、その寺を支えていたのが親族の土形家だったとのこと。
つまり柿本人麿の最初の妻「土形娘子」(ひじかたのおとめ)が暮らしていたのがこの辺りということになります。

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人麿が上京したばかりの頃は土形の家に世話になり、土形家の振分髪の娘子をたびたびデートに誘っていました。

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美しく成長し、宮女となった土形娘子と人麿は、互いに深い情愛を抱くようになります。
しかし当時、宮女と一般人の恋は禁じられており、犯せば重い罰を受けたのです。

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土形娘子が暮らした景色を見てみようと、辺りを少し歩いてみました。すると少し南に離れたところに丸山古墳がありました。
人麿はもちろん、土形家も決して裕福な暮らしではありませんでした。しかも人目を忍ぶ恋、その触れれば壊れてしまいそうな愛を歌うことで、二人は心をしっかり紡ぎ合わせていたのでした。

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