葛木倭文座天羽雷命神社:語家~katariga~ 10

投稿日:

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「どうしたのですか、こんな時分に」
「いや、姉さんと少し話をしたかったから来ました」

大津皇子は姉で伊勢神宮の斎宮である大来皇女に会いに来た。それは表向きは今後の政権についての相談だったが、死の予感から一目会いたいとの思いがあった。
大津皇子は天武天皇の第一皇子で鵜野皇太后の姉の子である。天武天皇が皇太子に指名したのは鵜野皇太后の子・草壁皇子であったが、彼女は息子よりも優秀で人気のある大津皇子の存在が疎ましかった。大津皇子は、身の危険を感じていた。

686年10月2日、大津皇子は謀反の嫌疑ありとの理由で唐突に逮捕された。大舎人ら34人も逮捕されたが、彼らは後に釈放された。
が、大津皇子だけは死を命じられ、訳語田の舎で引き出され、庭で自害させられた。
その後で髪を乱した妃の山辺皇女が裸足で走り寄り、皇子の遺体を見て、自らの喉元に刃を突き刺した。
姉の大来皇女が大和まで来たが、すでに弟は死んだ後であった。

『神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらまくに』(163) 
「神風の吹く伊勢の国にいてもよかったのに、どうして私はここにやってきたのでしょう。あなたはもうこの世にいないのに」

大津皇子の葬儀が済み、彼の遺体は都の西方、二上山の頂に葬られた。

『うつそみの 人にある吾や 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む』(165)
 「この世の人である私は、明日からは二上山を世を去った弟と思い仰ぎ見ることしかできないのですね」
 
後日、大津皇子が愛した吉備津出身の采女(うねめ)が入水した。彼女は皇子の死後、失業する恐れがあった。帰る家がなかったのかも知れない。

「なんということだ、未来ある者や罪なき者が命を失わなければならないとは。大和の国はそんなにも生き苦しい国であったか」

人麿の出生を知り、親しく付き合ってくれた大津皇子の、この采女のことを人麿は同情し、詠まずにはいられなかった。

『秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄の 長き命を 露こそば 朝(あした)に置きて 夕(ゆふべ)は 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失すといへ 梓弓 音聞く我れも おぼに見し こと悔しきを 敷妙(しきたへ)の 手枕まきて 剣太刀 身に添へ寝けむ 若草の その夫(つま)の子は 寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと』(217)
「秋山のように色づき、竹のようにしなやかな乙女よ。どのような思いでその長い命を、夕には消える朝露のように、朝には消える夕霧のように、はかなく絶ってしまったのか。弓を引くように皇子が引き寄せたとの噂の乙女よ、あなたの顔さえ知らない私が悔しい。白い手を皇子の枕にして、共に寝ただろう若い乙女は、寝床で淋しく悔み不意にこの世から消えてしまった。それは露のように、霧のように」

人麿のこの長歌には2首の反歌(短歌)が添えられた。

『ささ波の 滋賀津の子らが 罷道(まかりぢ)の 川瀬の道を 見れば寂しも』(218)
『天数(そらかぞ)ふ 凡津(おほしづ)の子が 逢ひし日におぼに見しかば 今ぞ悔しき』(219)

この歌で人麿は、大津皇子を「凡津の子」、皇子の愛人・吉備津の采女を「滋賀津の子」とぼかして表現した。
しかし当時の人は、大津皇子らのことと気付いただろう。「罷道の川」は三途の川を意味し、采女は入水したことを意味していた。
人麿の歌は書き写され、宮廷の人々に読まれることが多かった。それは皇太后の耳にも達したと思われた。
 
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「葛木倭文座天羽雷命神社」(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)は、奈良県葛城市の二上山山麓にある神社です。
単に倭文神社(しずりじんじゃ)と呼ばれることもあります。
入口の石碑にあるように、葛木倭文座天羽雷命神社の他、「葛木二上神社」「加守神社」の計三社が相殿となって鎮座しています。

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入ってすぐ脇には稲荷社。

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薄暗くってちょっと怖い。

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境内入口に鳥居はなく、代わりにしめ縄が掛けられています。

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当社の創建・由緒は不明。社名及び祭神から、倭文氏が祖神の「天羽雷命」を祀ったものと思われます。

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当社主祭神は「天羽雷命」(あまはいかづちのみこと)で、右殿に摂社・掃守神社(天忍人命)、左殿に摂社・二上神社(大国魂命)を配祀します。

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天羽雷命とはつまり、「建葉槌命」のこと。
天香香背男(あめのかがせお/天津甕星 あまつみかぼし)を討ったとされる神です。

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当地の地名を「加守」と称するように古くから掃守氏はこの一帯を統治していた祭祀氏族であったことが窺えます。
天忍人命は忌部系の史書である『古語拾遺』に、豊玉姫命が彦瀲尊(ヒコナギサノミコト:ウガヤフキアエズ)を生む際に仕えて侍り、箒を作って蟹を掃ったことにより「蟹守」(かにもり)と呼ばれるようになったと記されます。

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このような逸話により掃守氏は古代より出産に関わること全般、さらには宮中の清掃に関わることを職掌としたとされます。
しかしそうであれば、掃守氏は豊族なのか?

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僕は加守と加茂の関連が気になります。
弥生時代の出雲では「神」を「カモ」と発音したことから、葛城へ移住した東出雲王家「富家」は「神家」(かもけ)とも呼ばれ、後に「鴨」や「加茂」の字があてられました。

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豊彦らは大和入りしたのち、物部イクメの策略で東国に追いやられます。
その時、大和に残った豊族の一部を、葛城の加茂家が匿ったのではないでしょうか。
その一族が加守と呼ばれたのでは。

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ところで参道の入口手前に「産婆大西氏」と「産婆梅塚氏」の石碑がありましたが、掃守氏と関係があるのでしょうね。

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左殿の葛木二上神社(かつらぎふたかみじんじゃ)には「豊布都霊神」と「大国御魂神」が祀られ、。二上山の雄岳の山頂付近に鎮座する「葛木二上神社」の里宮、もしくは遥拝所的な神社として鎮座します。
今回の参拝の目的は、どちらかというとここ。

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神社の裏手の方へ歩いていくと、

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石灯籠のある建物があります。

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そこは「加守廃寺跡」と呼ばれ、非業の死を遂げた天武天皇の第1皇子「大津皇子」の霊を慰めるために建立した、「掃守寺」(かもりでら)とされます。

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姉の大来皇女は悲しみに暮れ、弟を二上山の頂に葬ったと伝えられますが、初めはここに埋葬されたのではないでしょうか。

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側には池があり、その畔には悪霊となった大津皇子が馬に乗って飛び降りた時の蹄跡と伝わる「ひずめ石」があるそうです。

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大津皇子は謀反の嫌疑をかけられ、死を命じられます。
これは、天智帝の皇子・川島皇子が密告したと『懐風藻』に記されており、川島皇子は優遇されることを条件に、皇太后側に付いたことを表していました。

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乙巳の変から壬申の乱、それから以降も、帝位をめぐって血生臭い思惑・争いは続きました。
それを見ていた柿本人麿はどのように感じ取ったか。

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心を痛めた人麿は、悲しみを歌にします。しかしそこには実直な彼らしい、無慈悲な世への批判の気持ちが滲み出ていました。
しかそれは和歌の天才であるが故に、彼に黒い影を落としていくのでした。

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18件のコメント 追加

  1. narisawa110 より:

    そうそう、天羽雷命ですが、八坂トメのこの前の系図だと、三兄弟で、一人が忌部連の祖、一人が八坂彦、八坂トメの祖、そして天羽雷命が倭文連の祖になっていたかと。
    倭文が木俣姫、下照姫系なら、忌部氏もグッと出雲に近づきますね。
    おりょ?そうするとやはり八坂姫も出雲系?

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      伯耆国の倭文神社では、健葉槌よりも下照姫の方が慕われている印象だったんですよね。
      母親の八上姫が伯耆国出身だからかもしれませんが、そこに拠点を持った倭文系の人たちは出雲寄りだったのだと思います。
      忌部が富家の親戚であることは間違いないと富氏はおっしゃってありました。
      八坂姫、八の字もありますし出雲系ですかね。

      いいね

  2. 高市 より:

    大津皇子には愛知県豊橋市の牟呂に生存伝承が伝わっています。

    大津がこの地でなぜ「開元親王」と呼ばれたのか。
    http://toyohashi-minwa.seesaa.net/article/35519160.html

    「開元」とは唐の元号で、この開元元年に高句麗の後継国家の渤海が唐の冊封を受けています。

    それを記念して旅順の地に建てられたのが鴻臚井。その鴻臚井を日本軍が日露戦争の戦利品として持ち帰り、現在も皇居で”秘匿”し続ける意味は?

    ここに1300年前からの東アジア(大陸・朝鮮半島・日本)にまたがる歴史の秘密があります。
    https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E8%87%9A%E4%BA%95

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      秘匿しているとは、何か不都合な事実が刻まれている、と言うことでしょうか。それが大津皇子につながると?
      しかし鵜野皇太后の殺意を感じとって大津皇子があらかじめ逃げ多せていたというのはあり得る話ですね。公式ではそう記せず、自害させられたと。
      ただこの伝承でも自害する結果になってしまうとは、世は儚いものです。

      いいね

      1. 匿名 より:

        大津は(少なくとも国内においては)死んだ事にしておかなければならなかったのでしょう。

        大津事件で連座して流された行心の配流先が飛騨國というのもカギになっています。

        いいね: 1人

  3. toshiyu03site より:

    chirico様、今晩は、いつも色々な神社の写真や、歴史の話をありがとうございます、勉強になり
    ますし、楽しみにしています。今後ともよろしくお願いいたします。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      toshiyuさん、コメントありがとうございます!
      神社関連はだんだんマニアックになってしまっています。なるだけわかりやすく書こうとはしているのですが😅
      こちらこそ、よろしくお願いします!

      いいね: 1人

  4. narisawa110 より:

    古今和歌集には、古今伝授ってありますよね。

    万葉集や、記紀にそういう極意なるものがあるのかないのか、そう思う事があります。
    万葉集や記紀って繋がってますよね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      あるのかもしれませんね。
      富家がそうであるように、最も重要なことは秘密裏に口伝などで伝授されてそうです。
      公になれば、結局は時の権力者に利用されて改変されていくでしょうから。
      ただ、長い時の中で多くの貴重な伝承が失われていっていると思います。今の時代にどれほど残されているか。
      歴史を失うことは、日本人としての魂の誇りを失うことになりかねないのですが、それを今の我々がどのくらい意識しているのでしょうね。

      いいね: 1人

  5. Yopioid より:

    和歌や古事記がどうして曖昧模糊として回りくどい表現を多用するのかそこが苦手で逃げていました。はっきり言っちゃうと拙いからなんですね、あらぬ嫌疑をかけられたり。百人一首やらも苦手でした。はっきり言わなくても分かる人にはわかる、ちょっと暗号めいてますね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      良くも悪くも、回りくどさというのは日本の文化なのでしょうね。西洋語はシンプルですから。
      遠回しに隠喩しておき、それを読み解かせる大人の遊びなのでしょう。
      Yopioidさんは暗号遊びがお得意かと思っていましたが、意外でした😊
      和歌は歌われた情景がわかってくると、じゅんって来ますよ☺️

      いいね: 2人

      1. Yopioid より:

        舌足らずでした。ちりこさんの本を読むと高校の時苦手だった和歌がスッと頭に入ってくる、と言いたかったです。対訳を読まなくても先にわかり、苦手だったのにな、と。背景がわかってる人にはああ、あのこと言ってるんだ、となるんですね。続編を期待してます。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          それは嬉しい!
          背景が見えると、和歌という文化がとても日本的で素晴らしいのだと、僕も執筆を通じて知りました。
          それをYopioidさんにも感じていただけたのなら、これほど嬉しいことはありません。

          いいね

  6. mame58 より:

    訳を読まないと短歌の意味がわからない私ですが、一瞬いい時間の中にいました。
    ありがとうございます😊

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      私も不勉強ではありますが、執筆をする上で、和歌はまことに素晴らしい文化であると認識しました。
      和歌は、歌われた背景を知れば、なんと色鮮やかに歌われたものであろうかと感じ入るのです。

      いいね

  7. asamoyosi より:

    CHIRICO様、こんにちは。
    大和に行くと必ず目にする二上山。私の日常に溶け込んでいる山だと思います。
    大津皇子と大伯皇女の歌は万葉集と言うよりは物語として私の心に焼き付いています。
    二上山山頂にある大津皇子の墓は知っていましたが、麓にこんな神社があることは知りませんでした。
    多分伴侶も知らないと思いますので、是非行ってみたいと思っております。
                         asamoyosi

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      asamoyosi様、ありがとうございます。
      葛城倭文神社は、鬱蒼として神秘的な神社でした。
      本殿の裏手を歩いたところに、隠すように最後の写真の磐座が鎮座していました。何か意味があるのかどうか。
      奈良・飛鳥時代は激動の時代でもあり、多くの悲劇がありましたが、その中でも大津皇子の話は印象深いです。優秀であったがために、彼は命を落としました。
      先日の地震は大丈夫でしたか?随分揺れたみたいですね。

      いいね

      1. asamoyosi より:

        CHIRICO様 おはようございます。
        CHIRICO様のコメントを拝見して、ますます行ってみたくなりました。楽しみです。
        地震のお見舞いありがとうございます。おかげさまでこちらは震度3ですみました。緊急地震速報の音の方にびっくりしたぐらいです。
        それにしても、あの緊急地震速報のメロディーって気味が悪いですね。びっくりして身構えたあと、ガタガタときて終わりました。でも地震に対して一瞬でも身構える時間があることはありがたいですね。
        このところ、各地で多発している地震ですが、何事もなければ良いのですが・・・。
                                          asamoyosi

        いいね: 1人

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