墨坂:語家~katariga~ 12

投稿日:

3020313-2021-12-13-17-50.jpg

土形娘子は妊娠したので、お産のために実家に帰っていた。だがそろそろ産まれる頃なのに、何故か知らせが遅い。

ある夜、墨坂の家で人麿は夢を見た。
夢の中で妻・土形娘子の声を聞いた気がした。
ひんやりと柔らかい、細い指の感触を額に感じた。
朝になって目が覚めると、人麿は唇に、柔らかな感触が残っている気がした。微かに花のような香りも残っている。
不思議に思って人麿は、窓から外の景色を眺めた。

その日の昼下がりに、土形娘子の年老いた母親が墨坂の家にやってきた。

c1d-2021-12-13-17-50.jpg

3020376-2021-12-13-17-50.jpg

墨坂と呼ばれていた場所は三輪山の南の谷間を通り、長谷寺などを横目に東に向かった宇陀市榛原(はいばら)にあります。

3020380-2021-12-13-17-50.jpg

宇陀市は四方を山に囲まれた高原都市。
平地の中心部に宇陀川が流れており、その対岸の小高い場所に「墨坂神社」(すみさかじんじゃ)が鎮座しています。

3020378-2021-12-13-17-50.jpg

レトロな赤い橋を渡ると境内があります。

3020382-2021-12-13-17-50.jpg

柿本人麿の住まいが墨坂にあったということですが、奈良で墨坂の地名は残っていません。
唯一と言って良い痕跡が当社となります。

3020385-2021-12-13-17-50.jpg

「墨坂」の名は、神武東征の際に、天皇軍がこの地にやってきた時、敵軍のヤソタケルが防戦のために山を焼く「いこり墨」(熾し炭)を置いて妨害したという話に由来すると伝えられます。天皇軍は苦戦を強いられますが、川を堰き止めて消火し、勝利したのだそうです。
しかしこの逸話は、墨坂という地名から、想像して作られた話のようです。

3020387-2021-12-13-17-50.jpg

『日本書紀』によれば、神武4年春、鳥見山中に霊畤(まつりのにわ)を築き、天皇自ら皇祖天神を祭祀したと記されています。

3020318-2021-12-13-17-50.jpg

さらに祟神天皇9年3月「天皇の夢に神人有して、誨(おし)へて曰はく、「赤盾八枚・赤矛八竿を以て、墨坂神を祠れ。亦黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神を祠れ」とのたまふ」とあり、奈良盆地の東の峠に墨坂神、西の峠に大坂神を祀ったところ、疫病がなくなったと綴られています。
当社は、元は西峠の「天ノ森」にあったそうですが、文安6年(1449年)に現地に遷座していました。

3020321-2021-12-13-17-50.jpg

『出雲と大和のあけぼの』の中で、斎木氏は墨坂神社に立ち寄り、「三輪山の南の鳥見山にあった霊時がイニエ大君時代にこちらに移り、この墨坂神社になったと伝えられる」と記しています。

3020319-2021-12-13-17-50.jpg

イニエ時代に移された鳥見山霊時の場所は正確には当地ではなく、元宮の天ノ森ということになるのでしょうか。
当地から北西の方向1km先に天ノ森はあり、更にその方向に1km進んだところに鳥見山公園があります。

3020327-2021-12-13-17-50.jpg

斎木氏は更に同書の中で、境内にある石碑の文により、ここの社家が登美家の大田田根子の子孫である大田氏であることを知ったと記してあります。

3020333-2021-12-13-17-50.jpg

大田田根子は三輪山の神を祭った人として知られていますが、果たして当社とどのような関連があるのか。
祭神は「天御中主神」、「高皇産霊神」、「神皇産霊神」の造化の三神と、「伊邪那岐神」「伊邪那美神」の国産み神、それに「大物主神」となっています。
この六神を総称して墨坂大神(すみさかのおおかみ)としています。

3020334-2021-12-13-17-50.jpg

また気になるのが長野との関係です。
長野には墨坂神社の分社が2社鎮座しており、地名にも墨坂が残っています。

3020322-2021-12-13-17-50.jpg

更に墨坂神社の神紋は「立葵」(たちあおい)であり、長野の善光寺を創建したとされる本田善光の家紋と同じです。

3020336-2021-12-13-17-50.jpg

本田氏と本多氏は同族であり、一族には有名な「本多忠勝」(ほんだただかつ)もいます。

3020338-2021-12-13-17-50.jpg

立葵の家紋の起源は京都の賀茂神社にあるとされ、京都三大祭りの1つ「葵祭」(あおいまつり)にその由来があると云われます。
葵紋はもともと賀茂神社の社家が使用しており、本多氏はその子孫になるそうです。

3020346-2021-12-13-17-50.jpg

葵の御紋で有名なのが徳川家康の「三つ葉葵」、水戸黄門などでもおなじみです。
これは徳川家の前身である松平氏も京都賀茂神社社家の一族であると云われており、家康が新田源氏の流れを汲む加茂神社の氏子として武家源流の威厳を証したかったため用いられたとされています。

3020343-2021-12-13-17-50.jpg

この葵を用いた紋は、家康が使用するようになってからは厳格な紋として厳重に使用が制限されました。
本多家が形状を変え、立葵としたのは、徳川家と同じ家紋では畏れ多いとのことで、あえてデザインを変えたためのようです。
それでも「葵紋=将軍家の紋所」として一般の使用は厳禁でしたので、本多家が使用を許されたのはかなり特別なことでした。

3020345-2021-12-13-17-50.jpg

本多氏のルーツを辿ると、藤原北家の子孫、藤原助秀が、豊後日高郡本多郷を所領として移り住んだ時、「本多姓」を名乗り始めたことに始まります。

3020347-2021-12-13-17-50.jpg

しかし本多氏のルーツは謎が多く、渡来民族・秦氏の子孫であるとか、信濃に来た安曇族の子孫であるとも考えられています。

3020350-2021-12-13-17-50.jpg

兎にも角にも、三輪山の社家・大田田根子の子孫が、そのような立葵の神紋を掲げて当社の社家として今に至るのはどういうことか。
墨坂神社の社家には、果たして何か伝わっているのでしょうか。

3020353-2021-12-13-17-50.jpg

墨坂神社境内の東側には、特別に水の神として「龍王宮」が鎮座していました。

3020352-2021-12-13-17-50.jpg

参道を進むと

3020354-2021-12-13-17-50.jpg

人工の池があり、そこに拝所が設けられています。
ここの印象を、僕は出雲的のようにも、豊のようにも感じました。

3020358-2021-12-13-17-50.jpg

この龍王宮に祀られているのは、「罔象女神」(みずはめのかみ)。
ここに湧き出る水は「名水・やまとの水」にも認定され、波動水とも呼ばれています。

3020359-2021-12-13-17-50.jpg

案内板によると、波動水は水道水の100倍の5万パワーがあり、心身を清める霊験があると云うことです。

3020367-2021-12-13-17-50.jpg

一口含んでみましたが、パワーの程はよく分かりませんが、程よいまろやかさで飲みやすく感じました。

3020356-2021-12-13-17-50.jpg

c1d-2021-12-13-17-50.jpg

3020316-2021-12-13-17-50.jpg

墨坂神社の境内から三輪山方面を見下ろすと、かつて墨坂と呼ばれていたであろう町並みが見えていました。
どこか郷愁を感じさせる風景です。
人麿が眺めていた景色の片鱗が窺えるようです。
なるほどここは、伊勢・志摩の海岸で関係の出来た高官から妻を隠すのにぴったりの場所だと言えます。
ふと僕は次の歌が脳裏に浮かびました。

『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』
「幾重にも重なって雲が立ち昇る出雲、私の妻を籠らせるために幾重もの雲で垣根を作ろう。その八重垣を」

この和歌は『古事記』において、ヤマタノオロチから救ったクシナダ姫を娶ったスサノオが詠った歌とされ、日本最古の歌だとされています。
しかし古事記に記されている歌のほとんどは、実は柿本人麿の作でした。人麿はこの八雲立つの歌を、妻を隠した墨坂の家を思い浮かべて詠ったのかもしれません。

3020389-2021-12-13-17-50.jpg

墨坂神社が元々あった場所という「天ノ森」のあたりに、「墨坂伝承地」と彫られた石碑がポツンと建っています。
大宇陀は城下町としても栄えましたが、墨坂は宿場町としても近世に栄えていたそうです。

3020390-2021-12-13-17-50.jpg

ここが日本書紀に書かれた「坂道に熾し炭を置いた」場所だと考えると、この辺りの地形では熾し炭を道に置いても、横をいくらでも通れそうな感じです。

3020391-2021-12-13-17-50.jpg

昔、金属精錬の職人に「炭坂」と呼ばれる役があったと斎木氏は著書に記してあります。
それは、木炭を作ってタタラにくべる役だということです。
その炭坂の字が、墨坂の字に変わったというのが真実のようで、この近辺で銅鐸でも造ったのかも知れない、と斎木氏は思ったそうです。

3020392-2021-12-13-17-50.jpg

人麿の妻・土形娘子は宮女を辞して、人麿の住む墨坂の家にやってきました。
当時は妻問婚が主流でしたが、人麿のたっての願いで墨坂に嫁入りしたのです。
彼らの暮らしは、「倉なし」と呼ばれたように、豊かなものではありませんでしたが、貧しいながらに至福のひと時を二人は紡いだのです。
しかしそのささやかな幸せさえ、そう長くは続きませんでした。

3020393-2021-12-13-17-50.jpg

人麿は最愛の妻・土形娘子を失ってしまいます。
人麿が妻を失った時に歌った210番の長歌の後に、反歌(短歌)「212」が添えられいます。

『衾道(ふすまぢ)を 引手(ひきで)の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし』
「引手の山に愛しい妻を置いたまま帰る山辺の衾道は、生きた心地などしようはずもない」

土形娘子が葬られた引出山は、天理市の東方、初瀬山の北にある竜王山だと言われています。人麿は寂しい山辺の道を歩いて帰路についたのでしょう。

『隠口(こもりく)の 初瀬の山の 山の際に いさよふ雲は 妹にかもあらむ』(428)
「隠口の泊瀬の山のあたりをただよっている雲は、愛しい妻のものであろうか」

初瀬山と引出山は離れていますが、妻が身を投げた川がある山にかかる雲に、人麿は妻の面影を感じたようです。
またある時、初瀬川に現れては消える泡を見て、人麿は詠みました。

『巻向の 山辺とよみて 行く水の 水泡(みなわ)のごとし 世の人われは』(1269)
「巻向の山辺を流れゆく川の水の泡のようだ、今の私は」

3020383-2021-12-13-17-50.jpg

僕は墨坂を後にして、桜井方面に来た道を戻ることにしました。
そこに花の咲く小道を見つけ、柿本人麿と土形娘子が逢瀬のために歩く姿を見たような気がしました。
土形娘子の実家・軽の里から、人麿の家があった墨坂までの距離はざっと15キロほど、昔の人は健脚だとは言いますが、人麿はよくぞこの距離を歩いて愛しい妻に会いに行ったものです。
そして墨坂から戻ること6キロほど車を走らせたところに初瀬川が流れていました。
土形娘子がその深みに身を投げたと言う川は、思っていたよりも小さな川でした。下流は大和川に合流しており、そのあたりで身を投げたのかもしれません。
愛しい墨坂の家まで6キロ。死を決意した土形娘子は、その前に夫の姿をひと目見たいと思ったのではないでしょうか。
そして最後に彼の唇に優しい口づけを重ねてからこの世を去ったのではないか、そう僕には思えてならなかったのです。

p3020396-2021-12-13-17-50.jpg

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください