『やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山(あおかぐやま)は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面(そとも)の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水』(52)
「日の御子たる大君が、藤原の地に大宮を造築された。大君が埴安の堤の上からご覧になると、大和の香具山は東門に春の山らしく青々と木々を茂らせる。畝傍山は西門に、瑞々しく山さびてそこにある。耳成山は北門に、青く清々と神々しくそびえ立つ。その名も”佳し”の吉野山、南門から雲の彼方遠くにそびえる宮殿の、水は豊かに永遠に、湧くよ御井の清水なり」
694年12月、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から、都が「藤原京」(ふじわらきょう)に遷されました。
藤原京は大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)の内側にあり、その規模は飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる5.3km(10里)四方と、飛鳥時代の巨大都市でした。
藤原宮から北・南方向にはメインストリートとなる朱雀大路があり、これを境に東側に左京、西側に右京が置かれました。
日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城であった藤原京は、平城京に遷都されるまでの日本の首都とされました。
それまでは天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われるのが慣例でしたが、藤原京には持統・文武・元明の3代の天皇が続けて居住しています。
このようにまことに華々しい都ではあったのですが、強い光には強い影ができるように、藤原京は光と闇によって出来上がっていました。
藤原京建設にあたっては、全国各地から人民が集められ労役に従事しましたが、過労や病気のため野垂れ死にする者が続出します。
道端には身寄りのない死体も転がっていました。
また新京の造営には莫大な費用がかかり、持統女帝の時代には経費削減のため宮女の数が減らされました。
そのため失業して藤原京に移れない采女たちには、明日香京の古い建物での貧困の生活を送らざるを得ず、中には失望のあまり命を捨てる者もいたと云います。
息子の草壁皇子を失った持統女帝は、孫の軽皇子を帝位に就けるための陰謀を巡らします。
その時、女帝の右腕として活躍したのが「藤原不比等」でした。彼は天孫降臨神話を世に残しました。
また不比等の悲願は、父・鎌足の悪行を隠し、英雄として世に知らしめることでした。
更に忌部子人(いんべのおびと)と出雲国造・果安(はたやす)によって、出雲王国の歴史を抹消する陰謀が図られます。
これらの思惑が絡む中で世に生み出されたのが『古事記』と『日本書紀』でした。
藤原京が完成した頃のこと、最愛の妻・土形娘子(ひじかたのおとめ)を失った悲しみから人麿を救ったのは、和泉国の大依羅神社社家の娘、「依羅姫」(よさみひめ)でした。
依羅姫は実家で巫女をする傍ら、宮仕えをしており、以前人麿から和歌の講義を受けたことがありました。
彼女は文学少女だったので、人麿の和歌の才能に憧れ、それがいつしか、恋心に変わっていったのです。
依羅姫は妻を失った人麿の支えになりたいと、積極的に迫ります。
最初は戸惑っていた人麿でしたが、気がつけば彼女の笑顔に魅了されており、心にあたたかな血が再び流れ出すのを感じるようになりました。
そして48歳の初老となった人麿は、第二の結婚生活を始める決意をしたのです。