大依羅神社:語家~katariga~ 14

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『夏影の 房(つまや)の下に 衣裁(きぬた)つ吾妹 裏設(ま)けて わがため裁たば やや大に裁て』(1278)
 「夏の木陰がかかった部屋で、妻が衣を織っているよ。もし私のためならば、少し大きめに織ってくれないか」

『君がため 手力疲れ 織りたる衣ぞ 春さらば いかなる色に 摺(す)りてば好けむ』(1281)
「あなたのために一生懸命織ったのよ。この着物、春になってどんな色に染めたら素敵かしら」

––––––––

696年7月、高市皇子が没した。高市皇子は人麿が勤める香具山の宮の主であり、壬申の乱からの親しい付き合いであった。

『ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らず 恋ひ渡るかも』(200)
 「はるか天上の世界にまで御名を知らせなされた大君。月日は知らぬ顔で流れていくが、私たち臣下はずっと皇子様をお慕いしています」

人麿はこの歌で、日と月を女帝と軽皇子として暗喩した。
高市皇子は誣告により刑死となったと噂されていたが、確かに彼は、持統女帝の孫・軽皇子を天皇にする上で邪魔な存在であった。
697年2月、軽皇子が15歳で皇太子となった。そして8月に女帝は退位し、孫が即位して文武帝となった。
人麿はこの頃、近江国高島郡役所の下級職への就任を命じられた。それはつまり左遷であり、彼が作った歌が先の女帝に知られて、不興を買った結果であった。

「近江国は遠いわ。皆は馬で行くのに、あなたは歩いて行くの」
「これは私の歌が咎められたせいなのだから、仕方ないのだよ」
「母の形見の鏡と織物を持って行って、あなた。これを売ってどこかで馬を買ってください」

依羅姫の手には、高価そうな鏡と織物が握られていた。決して若くはない人麿が遠くに赴くことも心配だったが、依羅姫の心配事はそれだけではなかった。

『泉川 渡り瀬深み わが背子が 旅行き衣 濡れにけるかも』(3315)
「泉川の渡り瀬は深いから、あの人の着物が濡れてしまうんじゃないかしら」

男のひとり旅は誘惑が多い。泉川は淀川の支流の一つだが、依羅姫は川の水で夫の着物が濡れるのを心配したのではなく、女のそれで濡れることを心配した。

『衣手の 名木の川辺を 春雨に われ立ち濡ると 家思(も)ふらむか』(1696)
「私は名木川の川辺で春雨に濡れながら佇んでいるだけだよ。私の妻はそんなことを心配しているのかい」

『あぶり干す 人もあれやも 家人の 春雨すらを 間使(まづかひ)にする』(1698)
「私の濡れた着物を干してくれる人などそばにいるはずもない。この春雨すらも妻からの使いだと思っているよ」

人麿は旅路の中で妻を想い詠った。

『そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山背の 筒木の原 ちはやぶる 宇治の渡り 岡の屋の あごねの原を 千歳に 欠くることなく 万代(よろずよ)に あり通はむと 山科の 石田の社の すめ神に 幣(ぬさ)取り向けて 我は越え行く 逢坂山を』(3236)

「あごねの原」は「依羅原の妻家」の意味である。彼は依羅姫の許に、千年も万年も通いたい、と詠った。
人麿は奈良山を過ぎて宇治川を渡り、逢坂山を越えて琵琶湖までやってきた。
結局人麿は、依羅姫から受け取った母の形見を売ることをしなかった。彼はずっと一人で歩いてきた。
人麿は文学好みの依羅姫に次の歌を送った。

『近江の海 泊り八十(やそ)あり やそ島の 島の崎々 あり立てる 花橘を ほつ枝に もち引き掛け 中つ枝に いかるが掛け 下枝(しずえ)に ひめを掛け 汝が母を 取らくを知らに 汝が父を 取らくを知らに いそばひ居るよ いかるがとひめと』(3239)

近江の海にはたくさんの港があり、そこの木の枝に鳥餅を使った罠がしかけてあった。
その様子を人麿は歌ったのだが、近江の港には棚なし小舟の女らが八十(たくさん)いることを依羅姫は知っていた。その小舟には、寝るのに邪魔な棚は付いていない。
女の感はいつの世でも鋭いものである。

『近江の海 港(みと)は八十あり いづくにか 君が舟泊(は)て 草結びけむ』(1169)
「そういえば琵琶湖にはあちこちに船着き場がございましたわね。あなた様はいったいどこに舟を泊め、お泊まりになったのでしょうね」

ぎくり、として慌てて人麿は弁解した。

『高島の 安曇川波は 騒ぐとも 我れは家思ふ 宿り悲しみ』(1690)
「いやお前、高島の安曇川(遊女)は波立って確かに騒がしいけれども、妻の家が恋しくて、私は悲しくひとり寝しているのだよ」

『敷妙の 枕に人は 言問ふや その枕には 苔むしにたり』(2516)
「枕は愛の言葉を交すことができませんのよ。こちらのあなたの枕にはとっくに苔が生えておりましてよ」

『敷妙の 枕動きて 夜も寝ず 思ふ人には 後も逢はむかも』(2515)
「枕が動いて夜も眠れないよ。そんなに焦らなくともやがて逢えるだろうに」

その後、妻からは長い間、返事がなかった。
心配になった人麿は、妻に歌を送った。

『雪こそは 春日消ゆらめ 心さへ 消え失せたれや 言も通はぬ』(1782)
「雪ならば春の日差しに消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのかい。何の便りもないから寂しいよ」

人麿の元へ妻の歌が届いた。

『松反り 痺ひてあれやは 三栗の 中上り来ぬ 麿(まろ)といふ奴(やっこ)』(1783)
「長く離れてボケちゃったのかしら。ちょっと都へ帰ろうとは思えないの、人麿とかいう名のおバカさんは」

中上りは帰省を意味する言葉であるが、依羅姫はイガの中の3つの栗をかけて、人麿の精力が衰えたのかと、巧みに皮肉った。
しかも人麿を奴と呼んでいるあたり、かなり怒っている。人麿はあわてて返事を書き、中上りすることにした。

『近江の海 沖つ白波 知らねども 妹許(いもがり)と言はば 七日越え来む』(2435)
 「琵琶湖のある近江から、七日かかる山を越え、お前の許へ帰るから待ってておくれ」

「まあ、そんなことになっているのかい」
「こんなに若くてピチピチの美人妻が都で待っているというのに、あの唐変木は何を考えているのかしら」

依羅姫は宮女だった時に親切にしてくれた新田部皇女に愚痴っていた。
彼女は天智帝の皇女で、天武帝の妃だったが、人の良い皇女を依羅姫は祖母のように慕っていた。

「あの男は確かに素晴らしい和歌の才能を持っているわ。けども歌人の男なんて、みんな変わり者よ。あなたもよくあの男の妻になったわね」

そう言いつつも新田部皇女は同情して、息子の宮の舎人として人麿を雇うよう手配してくれた。
しばらくして薄汚れた、少し照れ臭そうにした夫が都に帰ってきた。

「やあ、久しぶりだね、姫」

頭を掻く夫の髪には、白いものが増えた気がする。

「まったく、おバカさんなんだから」

図体の大きな男が小さく背を丸めるのを見て、依羅姫はすこし可笑しくなった。

「まるで悪戯の言い訳をする子供みたいじゃないの」

手を伸ばして夫の髪を撫でると、この男のことがことさら愛しく思えたのだった。

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大阪市住吉区庭井に、「大依羅神社」(おおよさみじんじゃ)が鎮座しています。
そこは柿本人麿の二番目の妻、「依羅姫」(よさみひめ)の実家であったと云うことです。

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境内を一旦通り過ぎて、反対側の大和川沿いに出ると、「依羅池址」と彫られた石碑が建っていました。

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『日本書紀』の崇神天皇紀と推古天皇紀には「依網池」を造るという一文が見え、この依網池とは、王権により農地開拓のため築造された大規模なため池であったことが知れます。

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振り返って阪南高校の校庭横をつき抜ける参道を歩きます。
大依羅神社は、本来こちらが表参道でしたが、今は表裏が逆転しています。

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大依羅神社の「よさみ」は地名を指します。『和名抄』では摂津国住吉郡に大羅郷(おおよさみごう)と記され、この一帯は依網池の築造に伴って屯倉(みやけ)も設置されるような重要地でした。
そこに鎮座する大依羅神も朝廷から重要視され、幾度も奉幣を受けたと云われています。

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大依羅神社の創建は不詳ですが、当地には「依網吾彦男垂見」(よさみのあびこおたるみ)以降、古代氏族・依羅氏(依網氏)が居住したことが知られています。
依網屯倉の経営にはこの依羅氏一族が関与したとみられ、同氏は大依羅神社の奉斎氏族であったと考えられます。

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祭神は複雑であり、延喜式神名帳に「摂津国住吉郡 大依羅神社4座」とありますが、その4座をめぐって2つの説があり、それぞれ
「大己貴命、月読命、垂仁天皇、五十猛命」と「建豊波豆羅和氣王、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命」となっています。

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先の4神は出雲・豊・物部・海部の代表的な神となっており、古代日本の黎明期における主要氏族に配慮した形になっているのが面白いです。

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後の「建豊波豆羅和氣王」(たけとよはずらわけのきみ)は依羅氏の祖とされる人です。
「健」は尊称のようなものですが、次の「豊」が気になります。豊家の人ではないのか。
建豊波豆羅和氣は9代大日々・開化帝の皇子であるとされますが、母・鸇比売(わしひめ)のその父が葛城の垂見宿禰だといいます。
垂見の宿禰、「垂水」ですか。
垂水は豊族に関連ある名称だと僕は考えています。

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ちなみに筒之男の住吉三神は、神功皇后が建豊波豆羅和氣の子孫、依網吾彦男垂見に命じて、これを祀る神主としたことに由来するようです。
そう、垂見の名が受け継がれているのです。

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本殿の隣にある神楽殿には、天鈿売命(あめのうずめのみこと)を祀っていまが、この神も豊玉姫の娘・豊姫のことであると伝えられます。

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更に神楽殿の奥には、阪南高校のグランドにはみ出るようにして、龍神社が鎮座しています。

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依網池には竜蛇神が住んでいて、ある時、その神が農夫に対して池に沈む鉄を除いてくれるよう頼み、その礼として井戸の水を供えて祈れば降雨を約束したという伝承がありました。
実際に旱魃の際には、ここで祈雨祈願が行われていたと云います。

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大依羅神社境内にはいくつかの独立した摂社が鎮座していますが、

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その中で気になる社がこちら、道祖神社。

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祭神が「八衢比古神」(やちまたひこのかみ)、「八衢比売神」、それに「久那斗神」(くなどのかみ)となっています。
そう、これは福岡の熊野道祖神社の祭神と同じで、出雲初期の祭祀神であるサイノカミ三神を表しています。

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他にも菅原道真を祀る天神社や白龍社、天照大神と豊受大神を祀る神明社などが鎮座しており、大依羅神社は豊系・出雲系の色が濃いことが感じられます。

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境内の隅には「庭井の趾」という石碑が建っていますが、ここは水量が豊かで水質の良い「齋庭井の清水」が溢れる泉であったようです。

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豊家の月神祭祀には清水の水鏡が用いられたと僕は推察していますが、依羅氏は出雲寄りの豊家の末裔であったのではないかと思われてなりません。
柿本人麿も豊姫にゆかりのある稗田系の語りを伝承していました。
そんなこともあり、才ある人麿に依羅姫は共感を覚え、恋に落ちていったのかもしれません。

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依羅姫自身もまた、歌の才に溢れる女性でした。
彼女の残した歌からは情に深く、感性豊かな性格であったことが窺えます。

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この追加のエピソードは、そんな彼女の情深さをよく表したものでしたが、僕の力量不足で本稿に載せることができませんでした。

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依羅姫は天真爛漫な乙女から、人麿の妻となって成熟した女性へと変化していきます。
そこには男の性に苦労する様も読み取れますが、それでも人麿への愛を貫き通した彼女の芯の強さを感じました。

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「君が代は 依羅の杜の とことはに 松と杉とや 千とせ栄えむ」
藤原定家も大依羅神社でそんな空気を感じ取ったのかどうか、「依網の祠官の求子に歌ふべき歌をこふによりてよみてつかはしける」として『拾遺愚草』にこの歌を残したのでした。

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