「今は国は引き訖(を)へつ」と詔りたまひて、意宇の杜に、御杖衝き立てて、「意恵」(オウェ)と詔りたまひき、故、意宇と云ふ。
– 『出雲国風土記』
出雲・六所神社にある出雲国府跡と、意宇の神奈備・茶臼山の中間の田園にポツンと鎮座する『意宇の杜』(おうのもり)。
それは、太安万侶が晩年に住んだ屋敷跡であると、富家に伝承されていました。
古事記は、聞けば全てを暗記するという「稗田阿礼」(ひえだのあれ)が天武帝に命じられ『帝皇日継』(ていおうのひつぎ / 帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ / 旧辞)を誦習したものを、「太安万侶」(おおのやすまろ)が編纂したとされています。
また、日本書紀はその成立の経緯の記載が一切なく、後に成立した『続日本紀』の記述に舎人親王らの撰によって完成したと記されています。
しかし真実は717年頃に、太安万侶本人によって富家に伝えられました。
彼は自分と柿本人麿が、国の正史を記す書として古事記と日本書紀を書いた、と告白しています。
ただその書の内容は、正史と呼ぶにはあまりに真実とかけ離れた内容であったと告げられました。
太安万侶はこの時、自分の名を「山辺赤人」(やまべのあかひと)と名乗ったそうです。
古事記を書き上げた柿本人麿を嵌めるため、右大臣・藤原不比等の計画した讒言に加担した太安万侶は、日本書紀を書き上げた後、自分も同じ目に遭ったことを悟ります。
安万侶は日本書紀の執筆者として名を残せず、出雲に左遷されてしまうのです。
716年、出雲大社の完成を機に、向家(富家)は熊野大社から大社町に移転して筆頭上官になりました。
それ以前に出雲国司「忌部子人」の指図により、国庁の近くに、太家屋敷と呼ばれる建物ができていたと云います。
その屋敷は、周りが生け垣で囲まれていて、太安万侶が生活を送ったというより、監禁されたと呼ぶ方が相応しい場所でした。
やがて安万侶は、古事記・日本書紀のことは一切口外しない、名を山辺赤人と改めることを条件に故郷の上総に帰ることを赦されました。
その直前、安万侶は向家の当主に秘密裏に会い、その全てを打ち明けていたのです。
私たちは、古事記・日本書紀を国史として教育を受け、現代に生きています。
日本の創世神話から万世一系を経るその歴史は、これまでの日本を守ってきた私たちの歴史であることに間違いはありません。
藤原不比等の思惑に、父・鎌足の所業を正当化する旨は当然あったのでしょうが、国の右大臣として、対外的に盤石な国家を作りたかったという思いがそこには感じられ、それが見事に実を結んできました。
しかしながらその裏には、消されていった者たちの歴史があったことを忘れてはならない、とも僕は感じるのです。
まことの歴史を語り蘇らせる現代の語家たらんとする、それは古い怨念、終わらぬ恩讐に囚われるということではなく、失われつつある日本人の誇りを取り戻すために為されるべきです。
私たちのDNAには間違いなく、和をもって尊しとする、出づ芽の心が受け継がれているのですから。
Beautiful images 💚🤍💚
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This is a sacred place!
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That’s cool
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