九十九里浜から少し内地に向かい、山辺赤人が晩年を過ごしたという場所を探します。
赤人を祀った薬師堂がのちに真行寺となったというので僕は探し訪ねてみましたが、
その場所は山奥にあり、個人の田畑が広がるばかりで、それらしきは何もありません。
驚いた僕は、そこにいた初老の女性に真行寺について話を伺ってみました。
するとこの田畑の一帯が寺の跡地だと教えていただきました。
その女性は真行寺の発掘作業を手伝ったそうで、確かに礎石のようなものがここから出てきたらしいです。
しかしすぐに再び埋め戻され、今の田畑となったのだそうです。
その女性はとても親切に、穏やかな物腰で僕に語ってくださいました。その感じの良さから、彼女にも太家の血が流れているのではなかろうか、と僕には思えました。
実際に真行寺の付近には山辺赤人のご子孫が今も住んでおり、富氏はその方から手紙をいただいたのだと僕に教えてくださいました。
先祖の山辺赤人は、予定より早く政府高官により退職させられたことを生涯恨んでいた、と手紙には書かれていたそうです。
真行寺跡の田園下に神社がありました。
これが薬師堂に赤人の霊が合祀された山辺明神かと思いましたが、よく分かりません。
たぶん違います。Googleマップには日吉神社と表記されていました。
山辺赤人と名乗る太安万侶が久し振りに都に帰ってみれば、かつて過ごした太臣家の土地はかなり荒んでいました。
人麿の歌をすべて集めようと考えていた赤人は、人麿の妻が今も住んでいるという大依羅神社を訪ね、依羅姫に声をかけます。
当初は赤人を訝しんでいた依羅姫でしたが、夫と関係のある赤人に、次第に心を許すようになっていきました。
一度、人麿を嫌った依羅姫でしたが、過ぎゆく時が、彼女に再び夫への敬愛の心を芽生えさせていたのです。
『息の緒に わが息継ぎし 妹すらを 人妻なりと 聞けば悲しも』(3115)
「命の綱と頼る私の愛しい人が、いつまでも人妻の気持でいるのなら、悲しい限りです」
赤人が送ってきた歌に、依羅姫は歌を返しました。
『紫草を 草と別く別く 伏す鹿の 野は異にして 心は同じ』(3099)
「人妻だとて、気にしないで下さい。あなたをあの人と同じように愛することはできますわ」
それは彼女が、人麿の才能を愛した時と同じように、赤人の才能を愛し、彼の歌のために残りの半生を捧げようと決意した歌でした。
依羅姫は豪族出身ながら安楽な生活を選ばず、位の低い貧乏貴族の人麿を夫に選びました。彼女は敢えて困難な道が待つ結婚を選んだのです。
そして、悲劇を味わった。しかもまた、人麿に似た男に人生を賭けようとしている。
このような気質だから、気迫のある作品が彼女から生まれたのでした。
真行寺からさらに南西に向かうと、「赤人塚」が田んぼの中にぽつんと立っています。そこが山辺赤人の墓だと言い伝えられています。
赤人は人麿の歌を集め写した『柿本人麿和歌集』と、自分の『赤人和歌集』を作りました。
その他の歌人の歌や東歌を集めた冊子も作り、それらをあわせたものは、「原万葉集」と呼ぶべきものでした。
赤人は集めた歌集を歌人が多く住む丹比家に渡します。そこには依羅姫を通じて知り合った三宅麻呂がいました。
それはやがて大伴家持の手に渡ったようです。
為すべきことを成し終えた赤人は、依羅姫と別れ、上総の故郷へ帰ってきました。
741年、赤人は上総国武射郡南郷村に薬師堂を建て、そして近くに住み、薬草を栽培して暮らしたと云います。
その後、歌人・山辺赤人は762年6月8日に亡くなりました。
山辺赤人こと太安万侶は、人麿を罪人に仕立て上げる讒言に加担し、人麿が秘密裏に書き写した古事記にあたかも自分が執筆したかのような序文を書き加えました。
それは誠に許されざる罪ではあるのですが、そのおかげで人麿が命をかけて書いた古事記を世に残すことができ、また、消されつつあった人麿の人生を、和歌で残すことができたのです。
つまり今になってみれば、安万侶もまた、人麿の恩人であり、まことの歴史の恩人であったのです。
『人麿古事記と安万侶書紀』、このタイトルは富氏が授けてくださったものですが、二人の男が残したこの歴史書は偽書でありながらも、裏側に我々の宝物となりうる真実の歴史が秘められていたのでした。