國崎八幡神社:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 特番

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果たして、これをどう読み解くべきか!
こんなものを見せられたら行くっきゃないでしょ、福岡の東の果ての「國崎八幡神社」(くにさきはちまんじんじゃ)へ!!

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國崎八幡神社は福岡県京都郡苅田町、その稲光(いなみつ)と呼ばれる場所に鎮座しています。

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稲光、その意味ありげな響き。

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辺り一帯はご覧のように、のどかな田園地帯です。

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当地は古くは白川村と呼ばれていたそうです。
神社の周りに小波瀬川につながる小川がいく筋か流れていますが、これが白川の由来か。
いや、僕は「白」と水に関わる名も、豊王国の末裔・土雲族に関連していると感じています。

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白から僕は、月を連想します。
月には生命の大源で不老不死の水「変若水」(おちみず)があるという思想があり、神の禊を介添えすることでその水を地上で受けとることのできる巫女が久留米大善寺の「水沼の巫女」でした。
そのことから僕は、豊族の月神祭祀には水鏡が用いられたと考えるようになりました。
それは時には池や湖であり、時には干潟に残った水溜りであったり。
水に映った月影、そう「白い水」です。
豊族の姫巫女は、その白き水に永遠の変若水を見たのではないでしょうか。

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國崎八幡神社境内の一角に池が拵えてありました。
今はまだ水が張られていませんが、いずれここに美しい水が滔々と湛えられる事でしょう。
この池が古い時代からあったのだとしたら面白いのですが。

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こじんまりとした境内に建つ立派な社殿、のように見えますが、この國崎八幡神社は年々風化が厳しいのだそうで、それを何とか守り、復興させようと頑張っておられるのが権禰宜の「辻󠄀 加奈子」さんです。
シングルマザーながらに様々な企画を立てられて、神社を盛り上げようと奮闘なさっておられます。
そのひとつに御朱印の制作がありました。

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御朱印には古くから家にあったというあの印が押されているのですが、それを僕に教えてくださったのがnakagawaさんでした。

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nakagawaさんには以前も、三養基郡みやき町天建寺にある「葛城神社」のこの飾り物のことを教えていただきました。
僕はこれを蜘蛛のようだと表現しています。なぜなら奈良の葛城地方にもツチグモの伝承があるからです。
しかしnakagawaさんは布と剣に見えたとブログに書いてありました。
いや、確かに剣ですよ、これは。
また布の方はアワビを原料とした「熨斗紋」ではないかと。たしかにたしかに!
つまりこれも宝珠に波と2本の剣を表しているようなのです。

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それを裏付けるような飾り物を宮崎の日向国総社「三宅神社」で見つけました。
改めてみると、宝珠に波と熨斗紋が組み合わされています。

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この宝珠に波が干珠満珠を示しているということを福井の若狭彦・若狭姫神社の神紋から知ることになりました。

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そしてこの若狭彦・若狭姫神社では豊玉姫を祭神としていました。
また九州の先の2社以外の土雲族由来の神社でも干珠満珠の宝珠を見ることができます。

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景行帝の行宮跡とされる宮崎市村角町の「高屋神社」ですが、そこにも干珠満珠の彫り物として宝珠に波が施されており、祭神も物部系に合わせて豊玉姫がしっかり祀られています。
また土雲族伝承がある佐賀の「與止日女神社」も、與止姫神を豊玉姫であると一説に伝え、社の神宝として二つの宝珠が収められています。

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そこで改めて、國崎八幡神社宮司家に古くから伝わるというこの紋を見てみると、とても感慨深いものがあります。
波の上にぽっかり浮かぶ宝珠。
潮の干満を司る玉とは、つまり月のことではないでしょうか。
豊家が特に重要祭祀とした月神の祭祀とは月の暦を読む、月読の秘事だったのだと推察します。

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國崎八幡神社の主祭神は「國崎臣祖莵名手命」(くにさきのおみのおやうなでのみこと)です。
普通、八幡神社といえば主祭神は応神天皇(おうじんてんのう)こと八幡大神となります。
國崎八幡神社でも八幡大神は祀られていますが、あくまで副祭神としてです。

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莵名手命は景行帝の九州征伐に同行した人物とされ、白川の山口地区にある「青龍窟」(せいりゅうくつ)にいた土雲族を平定した人物と伝えられます。
『福岡県神社誌』によると 一条天皇の永延年中(987年~989年)に山が光り、神霊が現われ次のように告げたとあります。
「我ハ國崎大神ナリ。速(スミヤカ)ニ此里ニ斎(イツ)キ祭レ」と。
そして、元社家のご先祖・辻直村と村民とでお祀りしたのが当社創建の由来となっているそうです。

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豊後国風土記によると、菟名手が「仲津郡に白鳥が飛来し、まず餅に化し、次に芋草に化して茂った」と景行帝に報告し芋を献上したので、「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を豊国と名付けたとされています。
が、違います。
風土記は記紀の意向を強く受け書かれていますので、そこを理解しないといけません。
記紀は豊王国の存在を隠したいのです。

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景行帝の時代のさらに昔、イニエ王(崇神帝)の時代、宇佐に豊玉女王がいた頃には、すでに大分は豊の国だったのです。
さらに菟名手はどう見ても宇佐家の人間です。つまり豊王家側の人間なのです。
イクメ(垂仁帝)の大和東征に宇佐家の「菟上王」は出雲を占拠し、焼けた郷戸家の宮殿跡に九州式の建物を建てて、占領軍として滞在したと云います。そこに建つのが智伊神社
菟名手は彼の子孫なのかもしれません。

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菟名手が平定したという青龍窟の土雲族。
土雲族は豊家の末裔ですし、そもそもこの時代に彼らが洞窟に棲んでいたなどとは流石に時代錯誤かと思われます。
青龍窟は豊玉姫伝承が残る、祭祀跡でした。
あるいは風葬地だったのかもしれません。
青龍窟そばにある神社は、なんと白山多賀神社です。
白山で多賀ですよ。越智と出雲ですよ。
そんなところからも、土雲族は出雲的な豊族(越智家)との関連を知ることができます。
菟名手は実は土雲側の人間であったか、もしくは景行帝に従軍はしていたが、青龍窟などの土雲聖域に赴き、彼らを説得させたか、密かに逃すかの行動を取ったのではないでしょうか。

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菟名手を主祭神とする國崎八幡神社の境内にはこんもりとした丘があり、

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そこに何とも気になる石を見つけます。

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これはいわゆる佐田京石のような立石の磐座であり、また月型の石なのではないでしょうか。
やはり菟名手は、豊側の人だったのだと感じ得ます。

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それにしてもこの丘の何と心地よいことでしょう。
決して広くはありませんが、濃密な空気に満たされています。
調査の結果、古墳ではなかったそうですが、月読の神が降り立った祭祀の森なのかもしれません。

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権禰宜の辻󠄀加奈子さんは、この神社が「人に集まって楽しんでもらう場」になってほしいと願っておられました。
イベントの時は賑やかに、普段は好きなだけゆったり過ごしてもらえるような場所になって欲しい、そうお話を聞かせていただきました。

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國崎八幡神社の境内の先には田園が広がっています。

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さらにその先にはこんもりとした御所ヶ岳と馬ヶ岳が見えます。
御所ヶ岳には土雲族の聖域によく見られる神籠石もあります。

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さらにさらにその先に見える特徴的な山、僕は最初、これは香春山かと思いました。
が、方角が違います。

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これは多分、横に伸びる高い山が英彦山で、こんもり台形に突き出た峰は豊日別命(とよひわけのみこと)が降臨したという鷹ノ巣山でしょう。
ということはあの辺があの望雲台でしょうか。

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境内の入り口に鎮座する少し年季の入った狛犬は、通常2体が向き合うように置かれるのが常ですが、1体がそっぽを向いたようになっています。

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「これは英彦山を遥拝しているのではないかと云われています」と権禰宜の辻さんは話してくださいました。

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実は國崎八幡神社には、この時僕は2日続けて参拝したのですが、辻さんとお会いしたのは2日目でした。
1日目の帰り、境内を歩いていると、とある男性に声をかけられました。
「こちらの方ですか?」
社家の人と間違われるとは思いもしなかった僕は、その出会いが何となく気になり、その方としばしお話をさせていただきました。
男性の方は「光畑 浩治」さんとおっしゃり、行橋市を中心とした郷土の研究家さんでした。
光畑さんは、翌日に國崎八幡神社で行われる「てまりまもり」のイベントの確認に訪れられていました。
「今日はどうして國崎八幡神社に来られたのですか」と光畑さんに尋ねられたので、「この社紋を知人に教えてもらい、いてもたってもいられず伺いました」とお答えしました。
すると光畑さんはとても興味を示され、そこから十数分の間でしたが古代史の話で盛り上がりました。
帰り際、失礼かと思いましたが、ご縁の記念に『人麿古事記と安万侶書紀』を1冊差し上げると、光畑さんは「ちょっとまって」と声をかけていただき、

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なんとこのすごい、分厚い3冊を僕に下さいました。
うわぁ、なんかエビで鯛を釣ってしまい、恐縮です。
本の中身はこれまで光畑さんが収集された情報や思いを綴った郷土日記でした。
一面見開きで完結するお話は、まるでブログを本という形にしたようです。
なるほど、確かにブログとは日記のようなものだから、と納得しました。
僕はnakagawaさんから教えていただいた國崎八幡神社の社紋から、光畑浩治さんに繋がる不思議なご縁に感謝し、辻さんと光畑さんにお会いできるのではないかという期待で翌日も、早朝に高千穂に行ったあと京都郡苅田町の國崎八幡神社まで車を走らせたのでした。

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二日目の帰り道、昨日も気になっていた田園にこんもり盛り上がる杜に立ち寄りました。

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「所吉神社」(ところよしじんじゃ)と鳥居の扁額にあります。

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由緒も何もわかりませんが、拝殿に「卯」だと思われる文字が見えます。
うさぎの卯でしょうか?
宇佐族に繋がるものだったら嬉しいです。

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國崎八幡神社は八幡社でありながら、古くから莵名手命を祀っていました。
八幡神は宇佐神宮からではなく、京都の石清水八幡宮から勧請されたものらしいと辻さんはおっしゃってました。

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石清水八幡宮は宇佐神宮から勧請されたと伝わっていましたが、境内には仁和寺の法師が八幡宮本社と勘違いしたという高良神社が鎮座しています。
高良神社、そう久留米の高良玉垂神です。
石清水八幡宮は東征した、豊玉女王の息子・豊彦の一派が創建したと思われ、本来の拝所は境内の高良神社ではなかったかと僕は推察します。
上毛野国に王国を築いた豊彦の子孫「竹葉瀬ノ君」が秘密裏に神功皇后の養子となり、応神帝として大和大君に就任、その記念として宇佐神宮に祭神として母子が祀られるようになります。
つまり親魏和王の女王・卑弥呼とは宇佐の豊玉姫のことであり、龍宮・邪馬台国の末裔が、ついには大和大君となるのです。

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しかしその前に、豊玉姫の息子・豊彦は東国に追いやられ、娘の豊姫(台与)は刺客によって暗殺されました。この物部族の裏切りを、故郷九州の豊族が許すはずはありません。
彼らは物部大和王朝に対し叛逆し、まつろわぬ民となります。彼らが土雲族。それを物部大君・景行帝が制圧したというのが景行天皇九州行幸の真実であるとは、僕の考えになります。

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ツチグモとはまつろわぬ民に用いられた蔑称です。
しかし彼らは土穴に棲まう蛮族などではなく、華麗で威厳ある龍宮の末裔なのです。

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彼らの歴史は時の権力者に消されてしまいましたが、地方の伝承などを掘り起こせば、その痕跡がひっそりと、しかし力強く息づいています。
それは例えば、月神祭祀の象徴である「宝珠に波」の干珠満珠の神紋であったりするのです。
素晴らしき古代への旅、その思わぬ収穫とご縁に今日も感動が止まぬのです。

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しかし剣の交差紋、なぜあれが宝珠に波に組み合わされているのかの謎は解らぬじまいでした。
剣の交差紋を使えたのは東出雲王国・富家の本家だけだったと思われるのですが、富家と親族関係にある豊家が当地にいて、辻家はその末裔だということでしょうか、謎は深まります。

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4件のコメント 追加

  1. narisawa110 より:

    神社の社殿のテラスにつく据玉
    他でもみられますが、一応、公式に据玉を許されているとされると説明してるのが宗像神社です。
    稲荷の社紋の玉はひとつ

    母系文化の国に、父系文化が入ったときに、両方を掲げる様になったのかも知れませんね
    陰と陽、仏教なら妙法、月と太陽の様な気がします。

    いいね: 2人

    1. CHIRICO より:

      実はこの社紋は大中小の三つがあるそうで、朱印に押されているものは小のものだそうです。
      画像で大と中を確認しましたが、それらでは宝珠の一つが八つの突起のある輪になっています。
      nakagawaさんによる考察では、宝珠に対置するなら輪宝ではないかとのことです。
      僕は宝珠を月と見立てるなら輪の方は太陽を示していて、あるいは鏡ではないかとも考えました。
      いつか実物を拝見に伺いたいと思っています。

      いいね: 1人

  2. nakagawa より:

    私も莵名手命はこの地の人だったのではないかと思いました。〝莵〟がつきますしね。
    また、先に莵名手命を祀っているところへ八幡社が被ったのかなぁと。

    〝果たしてこれをどう読み解くべきか〟
    ホントその一語に尽きると思います。
    剣の形が違うので一緒に考えて良いものか、今も迷っています。
    (富家は弥生時代?の剣。こちらは中世以降?の剣。案外修験道関係かも?)
    もし可能なら、お父様や郷土史に詳しい方にもお話を聞きたいところです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      國崎八幡神社と関連の深い青龍窟は修験の影響がありますね。近くに鎮座の白山多賀神社ですが、由緒などほぼ情報がありません。
      しかし社名から、白山信仰と滋賀の多賀大社を連想させます。白山は豊系の越智家や摂津の三島家とつながりますし、多賀大社の本来の祭神は出雲のクナトと幸姫だそうです。出雲散家と豊系修験の習合した神社ではないかと推察します。
      また日程を調整して、お話を伺いに國崎八幡神社を訪ねたいですね。

      いいね: 1人

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