いよいよイツセひきいる大船団が、東に進む日がきた。
すべての軍勢が笠沙の湾に集結したあと、東へ向かった。佐多岬(鹿児島県)と足櫂岬(高知県)を過ぎ、土佐国の南岸ヘ進んだ。
高知県高岡郡窪川町の高岡神社には、モノノベ王国のシンボルの銅矛が5本残されており、今でもそれらを高く担いで村々を回る祭りがある。
この祭りは、この付近にモノノベ勢の一部が住んだことを示しているのかもしれない。
モノノベ勢の大船団は、土佐湾で一体みすることになった。大波を避けるため大船団は川を逆上り、川岸で数日を過ごした。
その地には「物部」の地名がつき、川の名前も「物部川」となった。
物部川の上流にも物部村という地名があり、ここにモノノベ勢の一部が移住した可能性がある。
かれらは、兵士として強制的に連れて来られたが、戦いを好まず逃げ出した人々であった可能性がある。かれらはその土地に住むイズモ族と混血し、平和に暮らすようになったものと考えられる。
モノノベ王国のシンボルは大型銅矛であったが、移住に際してシンボルを銅鏡に変えることが決定された。モノノベ勢の中には、その鏡を持ってそのまま土佐に住み着いた人々がいたらしく、香美や香我美の地名が残っている。
- 富士林雅樹 著『出雲王国とヤマト政権』
高知県の西部を流れる日本最後の清流「四万十川」。
その川沿い、高岡郡四万十町に鎮座する「高岡神社」(たかおかじんじゃ)を訪ねました。
高岡郡窪川町は2006年3月20日に大正町・十和村と合併し、四万十町となっていました。
高岡神社は別名を仁井田五社・仁井田大明神といい、県道322号線沿いに「東大宮」(一の宮)、「今大神宮」(二の宮)、「中ノ宮」(三の宮)、「今宮」(四の宮)、「森ノ宮」(五の宮)が単独の神社として並び建っています。
伝承によれば大和時代の6世紀頃、伊予の豪族・河野氏の一派が一族の争いから当地に逃れ、この地の土豪と共に土地を開墾し安住の地と定めたのが創建の由来であるとしています。
当初は1社であったものを平安時代初期の天長3年(826年)に四国を巡錫していた空海(弘法大師)が境内に福円満寺を創建し、このとき空海は神社を5社に分社し五社大明神とし、神仏習合の神宮寺としたと伝えられています。
伊予の豪族・河野氏、キタコレ!
先の「大山祇神社」を調べていたときに、「三島大祝家は伊予小市国造の越智氏の後裔であり、さきの河野氏とは先祖を同じくする同族である」とありました。
その河野一族が祀った崇敬神とはどのような神か。
高岡神社は5社それぞれに独立した神が祀られています。
東大宮は「大日本根子彦太迩尊」、今大神宮は「磯城細姫命」、中ノ宮は「大山祇命」「吉備彦狭嶋命」、今宮は「伊予二名洲小千命」、森ノ宮は「伊予天狭貫尊」です。
大日本根子彦太迩尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)は第7代孝霊帝のことで、第一次出雲戦争で出雲を攻めた張本人です。
磯城細姫命(しきくわしひめのみこと)は孝霊帝の后で、『日本書紀』には8代孝元帝の生母と記されていますが、斎木雲州氏は著書で出雲戦争実行部隊の大吉備津彦・若吉備津彦の母であると記しています。
吉備彦狭嶋命(きびひこさしまのみこと)は『日本書紀』では孝霊天皇の皇子とされています。
伊予二名洲小千命(いよのふたなしまのおちのみこと)、伊予天狭貫尊(いよのあまさぬきのみこと)は孝霊帝の孫と曾孫、吉備彦狭嶋命の子と孫という関係になり、この家系が大三島の大山祇神社の神職家の家系につながっていく、と云う話です。
伊予二名洲小千命の小千は、大山祇神社の御神木を植えたという「乎千命」(おちのみこと)のことか、伊予天狭貫尊の狭貫は讃岐の語源か。
というか、三島大祝って吉備系なの??
なお、吉備彦狭嶋命に似た名前の人物に、景行天皇55年(125年)に東山道15カ国の都督となるも任地に行く途中で死んだという「彦狭島王」がいます。
彦狭島は豊城入彦の孫で、上毛野氏の祖といわれる御諸別の父とされる人物です。
「両者は系譜と地域の異なる別人のように記されるが、時代がほぼ同じで同じ名前を持ち、三輪氏と同じ龍蛇信仰を持ったことや、毛野氏の畿内から東国への移動経路などから、彦狭島命と彦狭島王は同人であるとする説がある」とウィキ先生はおっしゃってます。
う~む、どういうことか?こんがらがってきました。。
ちなみに孝霊帝の子と豊城入彦の孫は時代が一致しません。
高岡神社の五社のうち、最も規模が大きく社務所が構えられているのが「中ノ宮」です。
ここの祭神が吉備彦狭嶋命。
もともと一社だった高岡神社は、四国巡錫中の空海によって5社に分社されたと云います。
まあ空海は、讃岐の出身ですが、四国巡錫はしていません。唐から帰国後、しばらく福岡大宰府の観世音寺に滞在したのち、京に入って高野山に行っていますから。
が、しかし、何某かが高岡神社を5社に分社したのは事実でしょう。
であれば、高岡神社の本来の祭神は吉備彦狭嶋命であったのでは。いや豊城入彦の孫の彦狭島王だったのではないでしょうか。
越智家の分家である河野氏一派が、越智宿禰の娘「常世織姫」(とこよおりひめ)と夫・豊彦の孫を崇敬神として祭祀したとて違和感はありません。
記紀編纂後に豊系の祭神を隠すため、彦狭島王を吉備彦狭嶋命に変え、5社に分けてそれに関係する神を据えたのでは。
少し気になったのは、このちょっと変わった狛犬です。
明治34年頃に造られたもののようですが、5社のうち狛犬が鎮座しているのは一の宮の「東大宮」とこの三の宮「中ノ宮」だけになります。
そして東大宮の狛犬は割と普通のデザインでした。
もう一対、社殿にも置かれている木彫りの狛犬、
そんなに古いものではないでしょうが、このユニークなデザインは
宇佐家の伝承に常世織姫の墳墓と伝えられる貴船神社の狛犬や、
豊家と深いつながりがあると思われる由布院の大杵社(おおごしゃ)のものと共通しているような気がします。
だからどうというわけでもありませんが、さらにちょっと気になったのが
この高岡神社を挟むように、三島神社と大三嶋神社が鎮座しています。
三島家と河野家は同族だと言っているので、不思議はないのですが、三島=越智=河野と繋がるとなると、やはり祭神は彦狭島王説に説得力が増すように思われるのです。
高岡神社の社宝に、戦国時代、仁井田五人衆と呼ばれる地侍の一人で豪勇の中西権七が所持した長さ1.6m、重さ30kgの大太刀が伝えられています。
また、代々社宝として伝えられている四国最古の古瀬戸瓶子も収められています。
さらに江戸時代に付近で発見された五本の銅矛も社宝として伝えられ、これは秋祭りの御神幸の際に、今でも高く担いで村々を回るのだそうです。
現代の祭りに弥生時代の青銅器が使われ続けているのはとても珍しいことですが、富士林雅樹氏は著書の中で、「この祭りは、この付近にモノノベ勢の一部が住んだことを示しているのかもしれない」と記してあります。
四国には、かなり古い時代から出雲族が移住していましたが、彼らの中から越智家が生まれたのかもしれません。
大山祇神の正体は伯耆国の大山の神「クナト大神」であり、大山祇神社の三島家が祭祀しており、当社の中ノ宮にも吉備彦狭嶋命と並んで大山祇命が祀られています。
そこに戦いを好まず逃げ出した物部族をも受け入れ、平和に暮らすようになった出雲系村人たちの姿が見えるような気がします。
さらに後年、一族の争いから当地に逃れた河野族も一緒に暮らすようになり、クナト神(大山祗神)のそばに彦狭島王を祀ったのではないでしょうか。
高岡神社最後の社「森ノ宮」は、小高い丘の上にありました。
段数はそれほどではありませんが、勾配が急で、登るのはそれなりにきついです。
これって古墳かな。
高岡神社の正式名称は「仁井田明神」と言うそうです。
地元では「五社さん」と親しみを込めて呼ばれています。
残り続けるためには、本来の姿を変えなければならない場合もあります。
しかしどこかに隠された麗しき本来の姿を見出したとき、古代人の平穏な日常が目にみえるような気がするのです。
磯城細姫命ってどう思われますか?
豊彦がいるのなら、ウズメもいてもおかしくはありません。
さらにクニクルのお母さんで、記紀の得意技、お父さん、お母さんにして繋げちゃおう作戦の匂いがするんです。
あと、太田に関してですが、野見(能見)太田彦に加え、当時の武内宿禰も、武内臣太田根でしたよね。
富家伝承って、覚えやすいように歴史の帳尻があるように何らかの工夫があるように思えてきました。
記紀を紐解く暗号のような形で一定の伝承の整理があるような気がするんです。
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『出雲と大和のあけぼの』には、フトニ王についてきた后として細姫と福姫の名をあげてあります。
フトニ王が伯者地方で右い美人を見つけて、屋形にむかえ熱愛したので、かえり見られなくなった細姫は、息子オオキビツ彦がまだ住んでいた日野の楽楽福の西宮に移り住み、そこの北方300mのところにある崩御山に葬られたようだと。
また同じくフト二王に返りられなくなった福姫は、息子の彦狭島が住んでいた上菅の菅福の宮に移り住んだと書いてあります。
高岡神社の祭神としての磯城細姫は、彦狭島ベースで記紀に沿って祭神を加えた結果だろうと思いますが、あるいは元は豊姫だったのかもしれませんね。
豊姫はイクメの時代になりますので、クニクルの母親にするのは、少々乱暴な気がしますが、海部家の健諸隅の娘に、大和姫、またの名を天豊姫ってのがいて、ちょっとこの辺も気にはなります。
太田はそうでしたね、武内太田根がいましたね。
大田田根彦、野見太田彦、武内太田根、やばい混乱してきました😅
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キタコレの文章の前に、大興奮の私www
古代豪族集覧にも三島、越智、河野が出ていますが、二田物部にも、新田のゆかりがあります。つまり、母系か父系かは不明ですが仁井田もキーワードになりうると思います。
越智は、豊家の親戚で、いつも通り近い親戚で争い、のちに物部と婚姻。そういうストーリーのような気がしてきましたね。
もう一度家に帰ったら見てみますが、三島には物部系と、国押人系があった気がしています。
国押人の次の代が、大彦とフトニと、富士林先生の本で修正
恐ろしく確度が鋭さを増してきている様に思えるのです。さすが富編集長。
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二田は新田で仁井田なのかもしれないですね。
確かに三島氏は2系統以上あるのではないかと思われます。とても1系統では説明がつきません。
二田物部から始まってなんとなく話していた越智と三島が、すんごく広がってきましたね😁
偲フ花の記事も、狙ってあげているのではなく、たまたま溜め込んでいたネタを気晴らしに調べていたら、あれあれ?ってことになっています。
四国の細かいところを調べていくと、もっと面白いネタが出てくるのかもしれませんね。
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