龍蛇神神社

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今回、勢いで壱岐にやって来ましたが、その一番の目的は、龍蛇神神社の参拝でした。
この神社の存在を僕が知ったのは前回の壱岐旅の記事をアップしていた時ですから、実に8年越しのことだったのです。

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福岡からフェリーで往来する場合、壱岐には二つの港が用意されています。東の芦辺港と西の郷ノ浦港です。

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芦辺港のすぐそばは美濃谷と呼ばれ、壱岐国三十三番巡礼の最後の札所「美濃谷観音堂」があります。

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壱岐の人たちは、春の彼岸に先祖の菩提を弔うため、島内にある三十三カ所の札所を巡礼する「美濃の谷参り」を行う風習があります。
特に身内に不幸があった家の人は、最初の春の彼岸には必ずここへお参りし、仏様になった故人を迎えに行くのだそうです。

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「サンヤ袋」と呼ばれる晒(さらし)の袋に弁当やお供え物を入れて肩から掛け、札所に貼るお札を入れた「お札挟み」の袋を胸に吊るし、青い女竹の杖に紅い椿の花を一輪挿して巡礼するのが正式なスタイルですが、近年はその姿も少なくなったとのこと。

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椿を挿した青竹の杖を供養塔に納めたあと、観音堂の傍らにある小さな「涙川」(なみだごう)と呼ばれる井戸に向かいます。

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この井戸は、故人を偲んで覗くと、水面にその面影が浮かんでくるのだと伝えられていました。

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幸いにも偲ぶ故人のいない僕の目には、清らかな水に緑の葉が映り浮かんで見えているのでした。

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美濃谷の東に、竜神崎と呼ばれる岬があります。

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そこに「壱岐神社」がありました。

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創建は昭和22年と比較的新しい神社です。

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壱岐神社は古来より「少弐公」の呼び名親しまれてきました。
祭神は「亀山天皇」「後宇多天皇」、そして「少弐資時」(しょうにすけとき)公、また先の大戦でその尊い命を捧げられた千九百五十四柱の壱岐の護国の御霊となります。

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この祭神に共通するのは、文永11年(1274年)と7年後の弘安4年(1281年)の2度に亘り襲来を受けた元寇です。
時の幕府の執権は「北条時宗」で、天皇は文永の役は亀山天皇、弘安の役は後宇多天皇でした。
ともに我が身を投げ出し、敵国降伏、国家安泰を祈願したと伝えられます。

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高麗を服属させた元(蒙古)は6回にわたって日本の服属を求めましたが、北条時宗を中心とする鎌倉幕府はこれを拒み、文永11年10月、蒙古・高麗の連合元軍(28,000の軍兵と900艘の船艦)は対馬に上陸しました。
その後、非道の限りを尽くして対馬を制圧した元軍はさらに壱岐に至ることになります。
この時、大宰府で九州の守護を担っていた太宰少弐の武藤経資は、わずか12歳の次男資時を戦士の志気を高めるため壱岐の島に派遣しました。
壱岐もまた大変な被害を受け壊滅状態となりました。

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元軍はこの後博多港へと向かい、ついに百道の浜にて日本軍との合戦になります。
しかし11月5日の夜に神風が吹き荒れ元軍の船百余艘が沈み13,500人の死者が出たと云われています。

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壱岐神社鎮座地の一帯は、弘安の役の古戦場跡と伝わります。

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左京鼻の沖で見つかった、元寇の際に沈没した船の碇石(いかりいし)や、

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白村江の戦い以降に作られたのろし台などが丘の上に見られます。

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文永の役で敗退したフビライは日本国をあきらめず、再び同じコースで日本に攻め入りました。
弘安4年のことです。

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このときはなんと4,400艘の船に142,000の兵で進撃したといわれてます。
19歳の若武者へと成長した少弐資時はこれを迎え撃つため、再び壱岐に向いました。

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そして14万を超える兵に対し、資時らはわずか数百人の手勢で立ち向かったのです。

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壱岐神社の裏手を散策していると、小高い丘の上に白い鳥居が見えました。

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資時は最後はこの丘で奮戦し、部下とともに壮烈な最期をとげたと云います。

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丘の奥に小さな石積みが置かれており、

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これが少弐資時の墓であると伝えられます。
元軍はこの島で暴虐の限りを尽くし、多くの島民が犠牲となりました。
壱岐には千人塚という15cmくらいの石を積んだ塚が残されており、この時の犠牲者を葬った場所となっています。

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竜神崎の海は荒々しくも美しい。

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その海岸へ降りていくと小さい出島があり、そこに「龍蛇神神社」(りゅうじゃじんじんじゃ)は鎮座しています。

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この龍蛇神神社は、明治28年(1895年)に出雲大社の末社・龍蛇神社より勧請されたそうで、社は出雲大社の方向を向いています。

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この辺りは以前はうっそうとした薮で、古老の話では兎の顔ぐらいの大きさの蛇を見たとか、対岸の八幡半島(左京鼻)に青島という島があり、そこへ大蛇が泳ぎ渡っていたのが目撃されたなどの話がこの瀬戸浦にはありました。

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龍蛇神神社の磯周辺の岩は、すべて薄いスレート状になっています。

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板状節理によってこのような石になりますが、この一帯は不思議とこのスレート状の石が溢れんばかりに流れつき、龍のウロコと呼ばれています。

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なぜ壱岐のこの地に、出雲から龍蛇神が勧請されたのか。
それは一帯に伝わる大蛇伝承に因るものかもしれません。
しかし本当の理由は、文永と弘安の時にこの海に消えた、無数の命を供養するためだったのではないでしょうか。

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弘安の役の際は九州本土戦も水城にまで迫る勢いの元軍でしたが、鎌倉武士らが奮戦により防衛を果たし、海に追い返したところを再び神風によって異敵を壊滅せしめたと学校では教育します。

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しかしこれは正しい歴史ではなく、近世に生まれた、国難に際しては神が奇跡を起こして国を守るという「神風思想」によるもので、誤った歴史は神風特攻隊に見えるように、悲劇を生み出す例となっています。

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実際の元寇においてそれを退けたのは、多少の風雨はあったものの実際は少弐資時らのような日本のサムライ達であり、母国と民を、まさに命懸けで守った結果なのです。

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また旧出雲王家の富家には、大彦の子孫である安東水軍が秋田の石油を松明につけ蒙古船を焼いたと伝えられていました。

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4,400艘の船に142,000の兵で日本に押し寄せた蒙古兵のうち、母国に逃げ帰れたものはわずか16,000人であったと云われています。
しかし日本も果てしなく多くの兵が命を落とし、痛手を負ったのでした。

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この青い空と海の中、潮の香り漂う龍蛇神神社に立ち、僕は思います。
過去の国難に際して、勇敢にも母国を思い、散らした命の数々を。
今まさに国難を目の前にする私たちは、彼らの守ったこの国をどのように受け継ぎ、再び守り抜くべきか。

隣人が凶器を手に自分や愛する者の首元にその刃を突きつける時、どうするのか。
我々の平和は現行の法律によって守られているのだ、と叫ぶのか。
銃を手にし、銃口を相手に向けるのか。
はたまた大金を払い、怪しげで信用の置けない用心棒を雇うのか。

今一度熟考すべきことではありますが、果たしてその時間はどこまで許されているのでしょうか。

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今の日本で、かつての武士に位置する人は議員や官僚といった人たちでしょう。
しかし彼らを見ていると、もはや日本にサムライはいないのだと思わざるを得ない。

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神仏に祈っても神風は吹きません。
愛する者の命は、自分自身で守らねばならないことを、知るのです。

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18歳の若さで鎌倉幕府執権に主任した北条時宗は文永、弘安の役を戦い抜き、戦後処理の手も付かぬうちに弘安7年(1284年)、病のため34歳で亡くな
りました。
少弐資時と北条時宗、その両者の生涯はまさに異国との合戦に捧げ尽くされたものでした。
僕の残りの人生は果たして、どこへ向かうべきなのか。
青い海の果てにある、我が国の古き祖先が眠る地を望みながら、僕は思い耽るのです。

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