壹岐嶋の中心地にほど近い、芦辺町住吉東触に鎮座の「住吉神社」(すみよしじんじゃ)を参拝しました。
1841年(明治4年)に国弊中社に列格し、壱岐で唯一の官社となった神社です。
当社は大阪の住吉大社をはじめ、下関・福岡の住吉神社と並び「日本四大住吉」と称されます。
神功皇后の三韓(二韓)征伐の折、住吉大神が出現し、よって勝利に導びかれたという伝承があります。
この神徳に感謝し、帰途に壹岐嶋(郷ノ浦町大浦触)に立ち寄った神功皇后は石面に足形を残し、そこに住吉大神を祀ったのが当社の創建とされます。
郷ノ浦町大浦触は西側の海に近い場所ですが、のちに神託があり、「波の音の聞こえぬ地」を神が望んだため、当地に遷座したと伝えられます。
境内の神池の奥には「市杵島姫命」と「倉稲魂神」を祀る「竹生島神社」が鎮座しており、社の下には神功皇后三韓出兵の陣鐘があり、そこから鏡を掘り出すと降雨すると言い伝えられます。
また神池からは明治4年に大陸系鏡12面、和系鏡5面が発見されました。
住吉神社の祭神は、「底筒男命」「中筒男命」「表筒男命」のいわゆる住吉三神ですが、相殿に出雲の「八千戈神」を祀ります。
この出雲神を大国主でも大己貴でもなく、「八千戈」(やちほこ)と、西出雲王家・郷戸家の8代大名持の本名で祀られているのが興味深いです。
壱岐を改めて訪ねて見れば、出雲族の痕跡が色濃く存在しており、本来は出雲王家が統括した島だったのではないかと思われてきました。
大和王朝よりも古い時代は出雲王国の時代であり、当然大陸との交流もありました。
その際の中継地として壱岐・対馬は重要な拠点であり、出雲族が移住していた可能性は十分にありうることです。
つまり当地は本来、出雲族が祭祀をしていた聖地であり、そこに住吉神が遷座してきたということになるのではないかと推察します。
ただ神功皇后は家臣の「安部介麿」に壱岐を賜り、住吉大神に仕えさせたとありますので、大彦系の安部氏が八千戈を祀った可能性もあります。
それにしても海神とされる住吉神が「波の音の聞こえぬ地」を望んだという話は何を意味しているのか。
これに似た話が、静岡県熱海市の「来宮神社」(きのみやじんじゃ)にもありました。
それは漁師見つけた神像を海の近くの松の下に祀っていたが、ある夜の夢に五十猛命(イソタケノミコト)が現れ、潮騒が耳障りであるとの神託があったので現在地の内陸部に遷座したというものです。
これはそれぞれの神が海神ではなく、星神であるという本質に戻ったということを示しているのかもしれません。
ところで、境内の御神木におみくじを結びつける風景をよく見かけますが、これはどうなんでしょうね、普通に考えてバチあたりにしか思えないのですが。
住吉神社から北西2kmほどの山中に、「熊野神社」がありました。
熊野社に相応しい、厳かな雰囲気です。
祭神は「伊弉册尊」「素盞嗚尊」「事解男神」「速玉男神」。
一般的な熊野系の神社に見えますが、当社は『延喜式』の「阿多彌神社」(あたみじんじゃ)比定の論社だとのこと。
当地は昔、足海(樽見・垂水/たるみ)に着津したものを、当地の豪族「橘氏」によって奉斎されたと伝えられています。
当地にほど近い「湯本温泉」地は、昔は「あたみ」と呼ばれていました。
橘三喜は、式内社「阿多彌神社」を、当時「アタミ畑」と呼ばれていた、立石東触の石神に比定し、現在もそこに阿多彌神社という名の神社が鎮座します。
しかしこの「アタミ畑」はアザミからの転訛で、温泉とは関係なく、温泉のアタミの地である当社が式内社ではないか、という説が沸き上がっています。
延宝4年(1676年)、式社改めを行った橘三喜は、当時の当社神主だった橘廣貞の次男だったということで、なぜ彼が実家ではなく、わざわざ別の場所を阿多彌神社としたのかは謎が持たれます。
橘氏の先祖は、あの藤原不比等の妻となった県犬養三千代であるとされますが、何か隠された秘密があるように思われてなりません。
奇しくも住吉神社と同じ、潮騒を嫌って遷座した来宮神社の鎮座地が温泉地の熱海です。
また「垂水」(たるみ)という地名が宇佐の豊族に関連している可能性もあります。
垂水=熱海ということでしょうか?
豊族の都・大分も温泉県、何かが繋がりそうでいてなかなか見えない、そんなもどかしさを感じていました。