以前、古代史大好き出雲の高校生さんとやりとりした中で「海童神社」について盛り上がり、その際に有明海沿岸に海童神社が集中して鎮座していることに気がつきました。
そこでぼちぼち参拝してみることにしてみました。
最初に訪れたのは、柳川市大和町の皿垣開地区にある「海童神社」。
ここには雲龍型の土俵入りの元祖である第10代横綱「雲竜久吉」の逸話が残り、同型を受け継ぐ力士たちや相撲ファンのメッカとなっているそうです。
狛犬もどことなく逞しい様相。
二つの雲龍力石は横綱が少年時代にかついだとされ、重さは120斤と180斤(約72kgと約108kg)もあるそうで、これをてんびん棒でかついで3里(約12km)も運んだとの逸話があります。
その抜群の力強さを見込まれ相撲に精進した久吉は、新入幕で初優勝し、その後もめきめきと頭角をあらわして、ついには柳川藩の抱え力士になりました。
故郷へ戻り華々しく土俵入りを披露した折には、地元の海童神社(同町内に7ヶ所)に石灯籠や鳥居を寄贈し、それが今も受け継がれていると伝えられます。
同町内に7ヶ所!
Googleマップで検索すると、このように海童神社がヒットします。
右下のごちゃっと鳥居が立っているあたりが当地になりますが、実際にはもっと多くの同名社が近辺に鎮座しているということになります。
当社創建の由来について、詳しく知ることはできませんでしたが、おそらく秦族の童男童女に関わるものだと推察できます。
ただまあ、千木は出雲系の縦削ぎではありますが。
柳川市佃町に鎮座の海童神社です。
扁額にそうあるので間違いありませんが、
社殿はまさかの公民館一体型、新しい!
福岡県柳川市有明町に鎮座の海童神社。
周りが養鶏場になっており、鶏糞の香ばしさに包まれています。
このあたりの海童神社は「かいどう」と呼ぶようです。
しかし海童は「わだつみ」と呼ぶこともあり、海神・海祇、そして綿津見へと書き換えられます。
つまり安曇族が奉祀する綿津見大神とは、この海童を指しているのです。
かつて海を渡って、秦国から日本をめざした5000人の童男童女がいました。
彼らは始皇帝の命で不老不死の妙薬を探すため、徐福が連れ出した子供達です。
徐福は最初の航海で2000人の童男童女を連れて出雲へ上陸し、二度目の航海で3000人の童男童女を連れて、この有明海沿岸の佐賀平野に上陸を果たします。
しかし荒波の玄界灘を越えるのは命懸けの旅。全ての子供達が無事上陸できたわけではなく、海の泡へと消えていった命も多数あったのです。
移動中、予定になかった海童神社もありました。
どこも似たような造りですが、このような神社が有明海沿岸には本当にたくさんあるようです。
空を見上げるとサギの巣になっていました。
なんだかちょっと不気味な雰囲気を感じ取り、早々に退散します。
有明町の住宅街に鎮座の海童神社です。
こちらは随身門もあり、少し立派な雰囲気です。
門内に安置される随身像と狛犬。
随身(ずいじん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことで、日本の神道においては神を守る者として安置される随身姿の像のことを指します。
門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言います。
真っ直ぐに伸びた参道の先に
威厳ある社殿が建っていました。
横にあるのは天神社でしょうか。
気になったのはこの社紋。
最初に訪れた柳川市大和町の皿垣開地区の海童神社にもありましたが、そちらは不明瞭でした。
これは銀杏なのでしょうか、不思議な紋です。
ちなみにここの本殿も縦削ぎでした。
佐賀市川副町の海童神社にやってきました。
公園のような広い敷地に八大龍王の像が置かれています。
社殿といえば、このような小屋があるばかり。
ずいぶん殺風景だなと小屋の中を覗くと、石の祠がありました。
なるほど、本来この石祠だけがあって、これを守るために後に小屋が建てられたようです。
しかしその祠を見てみると、「八大龍王宮」の線刻が。
海童神とは八大龍王のことである、と告げているのでしょうか。
この石祠は海童神社の下の宮とされており、700mほど北に本宮がありました。
雅な石橋を渡ると、
えっぐ!
エグいカラーリングの大黒さんと恵比須さんがいらっしゃいました。
社殿前では狛犬群が睨みを効かせています。
おや、仲間外れはだーれだ。
当社の祭神は「上津綿津見神」「中津綿津見神」「底津綿津見神」です。
やはり海童とは綿津見神であるという認識なのです。
他、相殿に「天照皇大神」と「菅原道真」を祀っていました。
創設年代は天文22年(1533年)。龍造寺隆信が一時、筑後に難をさけた後、天文22年佐賀城奪還のために海を渡り、漁夫園田次郎兵衛、犬井道新兵衛の水先案内で、鹿江崎に上陸、旗揚げして大いに勢いを奮った。このとき、この地の状況を視察した隆信は、代官成富甲斐守大蔵信種に命じて、潮水防堤を増築し、鎮護の神として海童神社を創建した、とあります。
創建はさほど古いものではなさそうですが、当社では綿津見神を龍神として捉えてあるようです。
八大龍王といえば、出雲の龍神信仰を彷彿とさせますが、当地は徐福が上陸した浮杯の近く、海童は物部系であって出雲系と関連するとは思えません。
しかしここから15km圏に櫛田宮があり、そこに八岐大蛇伝承があること、さらに同じ県内に葛城神社(一言主神社)があることから、あながち否定もできないのです。
櫛田宮の八岐大蛇伝承は、原住出雲族と渡来系物部族との抗争を彷彿とさせます。
九州北部にはアタカタスの宗像家だけでなく、別系統の出雲族が古くから広く定住していた可能性が高いのです。
このモニュメント面白いな。
境内には楠の巨木が生えた池があり、
池の森稲荷神社が鎮座します。
稲荷社と
弁財天社。
補修された狛犬は何故か舌を出しています。遊び心?
他には八幡社と
寄せ宮社などがありました。
池の方に降りてみると、ほのかに漂う潮の香りに、龍神が棲まう雰囲気もあるのでした。
佐賀県神埼郡吉野ヶ里にも2社の海童神社を見つけました。
一つは物部王国の本拠地、「吉野ヶ里遺跡」にほど近い場所にあります。
民家の隙間に隠れるように置かれた社殿。
御神体を祀る石祠には「龍王社」とあるそうで、こちらも八大龍王が祀られているようです。
境内社は山神社。
大山祗神が祀られています。う~んクナト神だろうか。
当社は昭和10年(1770年)に遷座されたそうで、もともとは少し下った龍宮苑と呼ばれる場所にあったそうです。
ここが龍宮苑。
中学生カップルが微笑ましい。
龍宮といえば豊家か海部家か。
記紀では龍宮の王・豊玉彦を綿津見神としているので、これら海童神社群では綿津見神=八大龍王となっているのかもしれません。
同じく吉野ヶ里地区の脊振山麓にも海童神社がありました。
徐福と共に海を渡った海童、その御霊と出雲系龍神を結ぶものとは何か。
それはやはり豊族の成り立ちにあるように思えます。
そして豊の末裔の一氏族として安曇族が生まれ、彼らが龍宮の王として綿津見=豊玉彦を祭祀した。
その裏付けとなるような有明海沿岸の海童神社群の存在。
そこに今回、僕に足を向けさせるきっかけとなったのは、出雲の高校に通うという一人の古代史大好き少年との出会いでした。
こんなおっさんとうら若き少年が、一つのことで対等の話ができるというのも面白いものです。
大人たちは頭が凝り固まって、情けないことに自分の主張を否定する意見をなかなか受け入れきれないでいます。
邪馬台国論争がその良い例。
少年らのような柔軟な考察ができる人たちが、この凝り固まった古代史研究界に神風のような新風を起こすのではないかという予感がしてきます。
しかしそうか、『偲フ花』は無垢な高校生らも見てくれているのでした。
あぶないあぶない、うっかり下品なオヤジエロネタなんか書いていたら、彼らの五条桐彦の崇高なイメージを壊してしまうところでしたよ。
いやぁあぶなかった、ギリギリセーフでした、ね♪
えぐい色の大黒さまと恵比寿さまですねぇ😓
なんだか戸惑いますねぇ
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なぜあの色にしたのか・・・😅
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有明海沿岸の「海童」表記は気になっていました。
玄界灘沿岸と有明海沿岸の違いは北ルートと南ルートなのだろうかとも。
おかげで大分様子がわかりました。
〝開〟地名は干拓地ですね。なるほど。
フィールドワーク大事。絶対。
銀杏のような紋というのは祇園守紋のことでしょうか。柳川藩の。
滴水瓦の梶の葉紋みたいなのも面白いです。
余談ながら葛城一言主を祀る神社は背振山寄りにもう一社(鹿路神社)あります。
『脊振山信仰の源流』(吉田扶希子)によれば、紀氏が入っていたのではないかということでした。
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おお、ありがとうございます!
祇園守紋、柳川藩のものでしたか、すっきりしました。
鹿路神社にも行ってみます。そう、フィールドワークは大事、そして行けば必ず何か得るものがあるものです。
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よくわからない。なんか青紺の恵比寿を一瞬殴り倒したくなった…
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いけないいけない!
恵比寿を殴り倒したりしたら、器物損壊罪でNekoさんがアウトだよ!
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存在自体アウトな青紺恵比寿には言われたく無い台詞ですが、その通りです😭
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諫早と島原との間に、吾妻という場所があって、そこの出の友人に何故吾妻と東国の意味の意味の地名なのか?と問うたことがあります。島原は特に人の入れ替わりが激しい土地だと聞きました。特に原城のあたりは例のバテレン追放でごっそりホロコーストされて、松倉とかいう大名も切腹が許されず打首になったとか。空き地に後から入ったのが農家の次男坊とか不法移民とか肥後や大村藩やらから入ってきて。諫早家はもとは龍造寺で、のちには鍋島の領地だそうで。
神代の痕跡を人々から問うのは、他地域よりより難しいような気がします。
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なるほど、おっしゃる通りです。
島原はもう原住の人はいないんじゃないかって話ですね。恐ろしいことです。
微かに残る地名や由来に望みをかける他なしですかね。天草や島原も面白いところなんですけども。
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