海童神社(龍王社):筑秦ノ饒速日 番外

投稿日:

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前回の海童神社群巡りの際、もう一社訪ねた海童社がありました。
佐賀県武雄市北方町志久焼米に鎮座の同名社です。

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34号線沿いに建つ一の鳥居から北に向かって参道を登ります。

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右手には滔々と水を湛えた焼米溜池(やきごめためいけ)がありました。

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比較的新しめの三の鳥居の先に、

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古びた社殿が見えます。

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祭神は「豊玉彦神」「豊玉姫神」。
他「天照大神」「大地主神」「保食神」「市杵島姫神」「菅原道真公」を合祀します。

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祭神は龍宮伝承によるものでしょうか、それでも綿津見神の名ではなく、豊族の名前で祭神が祀られているのが気になります。

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当地はかつて、焼米宿(やきごめしゅく)と呼ばれる宿場町だったそうです。
むかし武内宿禰がこの村を通った時、村人たちが米を煎って宿禰をもてなしたので「焼米」の地名が生れたと云います。
船運にも恵まれた船津で、旅籠(はたご)、船宿などがあり、酒屋、茶屋、味噌・醤油などの日用雑貨店が十数軒連なる庶民の宿場であったとのこと。

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宿の中程には、観音堂、東には玉垂宮、海童神社(海津社)、龍王社が祀ってあったそうですが、寛政12年(1800年)、鍋島治茂公が白石地方の新田を開発するにあたり、灌漑用水、干害防止を兼ねた焼米溜池を築造させ、その折、海童神社は龍王社の境内に遷座されたということです。

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つまり当社は、今は海童神社となっていますが、本来は龍王社であったということになります。
そして本来の海童神社鎮座地は、今は池の底ということなのでしょうか。

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さらに近くに鎮座するという玉垂宮、そう玉垂宮なのです。
僕は有明海沿岸の海童社=物部系と思い込んでいましたが、ここにきて豊王家の関わりをどうしても否定することができません。

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そういえば、徐福の伝承が残る有明町竜王埼の海童神社祭神も豊玉姫です。
しかも境内には立派な楠の御神木が聳えていました。

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有明海沿岸の海童神社群は、もともとは物部系海童神(童男童女の御霊)を祀ったものだと思われますが、後年、邪馬台国である豊王家の女王・豊玉姫の威光のもと、祭神や信仰に影響を及ぼしたのかもしれません。

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帰り際、境内の奥が気にかかりました。

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これはなんと書いてあるのか分かりません。

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しかしこちらの石塔には「天照大神宮」と彫られています。

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そして見上げれば、んっ?!

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つ、月形の石が!

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何か彫ってあるようです。
千田聖母八幡宮の例を見れば、猿田彦大神と彫ってあったのかもしれません。
しかし何故こんなところに置かれているのか。

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そしてさらに上にあるお社。

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稲荷大明神と刻んであります。

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手前の石祠には風天・雷天の文字。

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そしてそしてさらに丘の頂部を見上げると、磐座がある。。。

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亀甲のように巨大な石を積み上げた祭祀の場。

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全ての磐座が苔むして、長い時の流れを物語っています。

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そしてこれは楠か。
岩々を包み込むように根を伸ばし、鎌首を持ち上げています。

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下を見れば海童神社の屋根が見えます。

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これなんかは女神岩を彷彿とさせ、

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その臀部には渦の線刻のようなものが見受けられます。

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この角度から全体を見ると、巨大な亀のようにも見えます。

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これが頭。
亀の磐座は松浦市の淀姫神社にもありました。

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思いがけない磐座との出会いに興奮しつつ、深海のような杜から下界へ降りてきました。

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一の鳥居の元にある案内板、

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気になるのはそう、玉垂宮です。
ここ海童神社はもともとは龍王社であり、焼米溜池の対面にそれは鎮座しているとあります。
気になる。

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あの先端あたりかぁ。
薮こぎか?

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焼米という地名も気になっています。
大野城遺跡に「焼米ヶ原」と呼ばれる場所があり、今でも炭化した米が拾えるそうです。
かつて大きな倉があったとのこと。
玉垂宮、行ってみるか。

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車で焼米溜池を半周すると、水辺広場という場所がありました。
無料駐車場もあって助かります。

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見れば道が続いており、どうやら薮こぎせずともすみそう。

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対岸には海童神社、

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そして反対側は、、、ん?

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鬼ノ鼻山か!

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鬼ノ鼻山は八十女人(やそをみな)がいたという、土雲族の伝承地。

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僕の考えでは土雲族も豊族の分家、末裔です。
彼らの伝承地には豊玉姫信仰や月神信仰の痕跡があり、かつ多くの集落で女巫女が戸畔を司っています。

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と、意外とあっさり鳥居にだどり着きました。

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鳥居の手前は池の水面に続いています。
急坂を踏み外したら、イケボチャ必至です。
押すなよ、絶対に押すなよ、うっうわぁ~ポチャン!

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さて、玉垂宮にも立派な鳥居が置かれ、

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神侘びた拝殿も建てられています。

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拝殿から覗くと石祠が。

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大きな岩の横をすり抜けてみます。

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祭壇の石のようなものが置かれていますが、

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なんと、その先にあるのはこれまた凄い磐座です。

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オウマイゴッド!そこにいたのは森の王ではないですか。
対馬某社の石の神殿を彷彿とさせ、

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また、脊振山中で発見した石上の磐座に非常によく似ています。

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圧倒的質量。

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石祠の中には石が収められていますが、

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杷木神社の月形の石に少し似ているような。

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森の王がちまちまうろつく僕を睨みつけます。こわい。

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ここは貢物を置く場所か。

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巨大磐座を半周まわると、背中に二つの大きな石蓋が乗っかっています。

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これはどうみても人為的。
つまりこの磐座は、全てではないにしろ、人の手で積み上げられたものである可能性が高いのです。

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僕の考えでは玉垂神は月神のことだと結論付けています。
当地は土雲族の支配域であり、龍神信仰も片鱗を見せます。

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これはどういうことか。
海童社は豊族の信仰に習合していったということでしょうか。

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僕はレイラインという発想はスピリチュアルが過ぎる気がしてあまり多用したくはないのですが、海童神社と玉垂宮、そして鬼の鼻山山頂は一つの線で結びつけることができます。
これは海童神社や玉垂宮の磐座が、鬼の鼻山の祭りの庭、霊畤であったということではないでしょうか。

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またこのラインは、敵が侵攻してきた際の、狼煙場の役割も果たしたかもしれません。

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それにしても、なんとなく出かけてきた海童神社群散策でしたが、旅は大小に限らず手ぶらで帰ることはありませんね。
いつもこの世界は、僕を驚かせるサプライズに満ちています。
往古から続くリアルって本当に素晴らしい。メタバースなんてくそっくらえ。

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おっとあらまあ、ついお下品な言葉を漏らしてしまいました。
ところでこの磐座、まるでスフィンクスのようだな。

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5件のコメント 追加

  1. Narisawa110 より:

    さて(突然)、先日のなか郡と鹿の神の件からですがもう一つ興味深いのものとして三角縁神獣鏡を上げたいと思います。

    出雲伝承だと、東軍側、つまり大和側の象徴として各号族に配られた国産鏡ということになっており、「後漢鏡のように破鏡などで東征してない」鏡ということになっています。
    こちらをご覧ください
    http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html

    過去の三角縁神獣鏡の出土分布です。特異的なのは九州。
    福岡のみ、突出していますが、加茂氏のお墓とも出雲伝承で言われる黒塚古墳の同箔鏡の分布が、先出の那珂郡、海部のあの画像とかなり重なってくるということです。

    上州にもあることから、阿部、もしくは豊家の領域でも発掘されるので、叢雲王朝の人間も最終的にあの鏡を受け入れた可能性が伺えます。
    ここからは想像です。
    物部の象徴としての道鏡でしたが、資源的にも優位性があり、背に腹は替えれず、青銅器の作れない地域では小型の青銅器でも依然珍重されたと思われます。
    そして、裏面ではなく、表面には当時最新の技術、呉の三角縁仏獣鏡の技術が使われ、大型化しましたが、これには秘密がありました。
    そう、魔境です。
    あれは、太陽の光を反射して初めて浮かび上がってくるものです。つまり、あの鏡だけは太陽の鏡だったわけです。
    東軍側の象徴として受け入れる下地があったように思えます。
    鏡には月の鏡と、太陽の鏡があったのではないでしょうか?

    物部景行の九州親征以降、朝鮮出兵で衰亡に向かった物部氏の後釜に、三角縁神獣鏡を持った一族が、我々が思った以上にはやく移住してきた可能性があります
    恐らくですが、全ての豪族の血が入った武内ソツヒコの縁故で、過去の敵味方が関係なく、物部以外の一族がこぞって九州に征伐協力
    で向かったのではないでしょうか?

    鹿の神と三角縁神獣鏡の九州への移動はリンクしているように思えるのです。
    物部の播磨タケルの親征では、三角縁神獣鏡は九州には向かえないと考えられます。
    三輪大君なら可能性はなくはないですが、藤林先生の本によれば、八咫烏と加茂氏は今では基本的に別と考えなければなりません。

    阿部、中津臣は、九州に向かって移動をしたと考えられます。
    それが、恐らくですが、竹葉瀬君に関する大彦と南方一族の協力から縁ができた事により繋がっているような推測をしているわけでございます。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      月の鏡と太陽の鏡の発想、三角縁神獣鏡の出土分布は確かに面白いですね。武内大田根は大和で三角縁神獣鏡を制作し各豪族に配ったあと、出雲に逃れています。彼は豊家とは敵対していたわけですから、それを受け取ったのは阿部家ということになるでしょうか。それにしても日向でも出土しているのが面白いです。おっしゃるように竹葉瀬君の影響ですかね、謎が増えました。

      いいね

      1. narisawa110 より:

        実際には、月や太陽は無関係という考え方が一般的です。

        考古学的には
        日本列島での天体観測による測地は縄文時代の6000年前頃には、ほぼ完成しているのに対し、銅鏡は中国大陸の3900年前頃に出現し、日本へは弥生時代から持ち込まれ、古墳時代頃から国内で作るようになった。

        しかし、我が国には物部嫌いの大彦さんがいます。
        基本的に銅鏡を嫌う一族の領域でも例外的に出土し、なんらかの事情を感じます
        更には本来なら九州には出土しないはずの三角縁神獣鏡に関しては、民族移動説は外せないような気がしています

        いいね: 1人

  2. pflkwy より:

    Pasagem muito linda, faz bem aos nossos olhares.

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      No Japão antigo, grandes rochas eram consideradas deuses.

      いいね

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