伊奈波神社

投稿日:

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「なるほど、これは確かに・・・」
僕は軽く戸惑いつつ、その石をしばらく見つめていました。

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伊奈波神社(いなばじんじゃ)は、岐阜県岐阜市にある神社です。

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境内入口には岐阜善光寺がありました。
善光寺の本尊は甲州征伐後、織田信長の手で天正10年(1582年)3月に、岐阜城下の伊奈波神社の近くに移されたと伝えられます。
しかしこの本尊は同年6月2日の本能寺の変により織田信長が亡くなると、織田信雄により尾張国甚目寺へ移され、後に徳川家康の手に渡り遠江国の鴨長寺へ、さらに慶長2年(1597年)豊臣秀吉の手に渡り方広寺の本尊にされます。そして翌慶長3年(1598年)、信濃国に無事戻ることとなりました。

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緩やかな坂道の参道を登っていくと、

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石の橋が見えてきました。

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神社で時折見かけるこうした石の橋は、神が渡る橋とされていることが多いです。

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石橋のそばには大黒社が鎮座しています。

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奥には朽ちかけた大黒と恵比須の像。
伊奈波神社内で黒龍社と並びパワースポットと紹介される大黒社ですが、そのどちらも出雲系であることは容易に想像できます。

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伊奈波とは因幡のことか、因幡国といえば確かに出雲王国と関連の深い国です。
それがなぜ岐阜・美濃国(みののくに)にあるのでしょうか。

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さらに当社は出雲系の神社に分類されるのだろうかと思えば、そうとも言えない祭神で混乱してしまいます。

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伊奈波神社の祭神は「五十瓊敷入彦命」(いにしきいりひこのみこと)。
それに配祭神として「淳熨斗媛命」(ぬのしひめのみこと/主神の妃君)、「日葉酢媛命」(ひばすひめのみこと/主神の母君)、「彦多都彦命」(ひこたつひこのみこと/主神の外祖父)、 「物部十千根命」(もののべのとちねのみこと/主神の功臣)となり、がっつり物部系です。

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主祭神の五十瓊敷入彦は第二次物部東征のリーダーであった物部イクメ・ 垂仁大君の第一皇子で、第12代景行大君の兄にあたります。
『古事記』『日本書紀』によると、父・垂仁帝から弓矢を賜り武事をおさめ、勅命によって開拓した池溝の数は800に及び、茅渟の川上宮にて劔1千口を作り、これを石上神宮に納めて管理したと伝えられます。

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当社の社伝によると、「五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれた。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えた」とあります。

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この社伝に登場する陸奥守「豊益」とは誰か。調べてみてもその正体ははっきりしませんが、名前からして豊家の末裔ではないでしょうか。

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第二次物部東征を振り返ると、豊家の豊彦・豊姫とともに大和を制圧した物部イクメ(垂仁帝)は大君位を独り占めしたかったのか、豊兄妹を欺き東方へ追いやります。
豊姫は椿大神社の地で暗殺され、東国に追いやられた豊彦は上毛国(群馬方面)に王国を築きました。豊彦の一族らはエミシの民らと習合していったと思われますので、陸奥国に彼の子孫がいたとしても不思議ではありません。

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陸奥守「豊益」は一族の恨みを晴らすべく、一矢報いて五十瓊敷入彦を当地で討ったのかもしれません。

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とまあそれはさておき、当社で最も重要な祭神は、主神の外祖父・彦多都彦その人だったと僕は考えます。
彼こそは記紀によって隠された磯城大和王朝幻の11代「彦道主」大君なのですから。

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彦道主は日本書紀によると、崇神天皇(物部イニエ王)によって丹波に派遣された四道将軍の1人という設定ですが、実際は出雲族と海部族によって築かれた磯城大和王朝の最後の大君でした。彼は攻めてきた物部イクメによって丹波に追いやられ、その後、彦多都彦と名を改め因幡国造となりました。

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この伊奈波神社の鎮座地は、海部家と同族の尾張家が支配した地域に隣接しています。
つまり海部族が彼らの大君・彦多都彦を因幡神社として祀ったものが当社の始まりであったと考えられるのです。

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参道を登って楼門を潜った先の右手に「和歌三神社」(住吉神/玉津嶋神/柿本人丸)と「天満神社」(菅原道眞)が鎮座しています。
まさかここで人麿さんに出会うとは思いませんでした。

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そしてその先にある「黒龍神社」こそが当社参拝の1番の目的地でした。

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ここの存在を教えてくださったのが、ブロガーの「mame58」さんとFacebook友の「Ayako」さんです。

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なるほど、なかなかのご神気を放っておられます。
祭神は黒龍大神として高靇神を祀ります。

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ところでこの近辺に磐座があると聞いてきましたが、どこかな?

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あ、あったー。

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これが磐座「龍頭岩」。
思ったよりも小さく、しかも拝殿の脇に無造作に置かれています。
重そうではありますが、盗まれたりしないのかな。

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確かに爬虫類の頭に見えます。
伊奈波神社は天文8年(1539年)に、近くの丸山の地から遷座されましたが、黒龍神社はそれより以前から当地に鎮座していたと伝えられます。
この龍頭岩は古くからここに鎮座していたというよりも、この扱いからして後年に奉納されたものと見た方が良いのでしょう。

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海部族は出雲族が信奉する龍神と、道教の蓬莱信仰を習合させ、龍宮信仰を生み出しました。
丹後の籠神社やその一帯で龍宮信仰が見られるのはそのためです。

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また海部族は宇佐に移住し、宇佐族と集合して豊王国を築きます。
親魏和王の女王・豊玉姫が、古事記に龍宮の乙姫として描かれるのはそのためであり、また豊王家の分家である志賀海神社の安曇氏が龍宮にこだわる理由もそこにあると見ます。

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豊族は月神信仰と共に、出雲龍神信仰をひときわ高めていったと考えることができるのです。

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さて、当地は元来、海部族の聖地であったと思われるのですが、何故今は物部系の神社となっているのか。

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社伝によれば、景行天皇14年、武内宿禰が稲葉山北西の椿原(丸山)に五十瓊敷入彦命を祀ったのに始まるとされています。
しかし武内家の祖・大田根は物部家に裏切られ、命まで狙われていますので、彼らが五十瓊敷入彦を祀るとは思えません。

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一説に応神天皇の御代、物部印葉連公が、五十瓊敷入彦命を奉祀したとありますので、こちらの方が真実に近いかも。

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物部王朝は3代のみで終焉を迎えますが、以後も物部の名は歴史に濃く残っていきます。
彼らが美濃方面に勢力を持ち続けていたとしても、不思議はない話でしょう。

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天文8年(1539年)、斎藤道三が稲葉山に稲葉山城を築城するにあたり、伊奈波神社は現在地に遷座しましたが、この際、その地にあった物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守としたとも伝えられます。
当地はいつの頃からか、物部神社であったというのです。

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物部十千根はイクメ王の臣下で出雲国制圧軍のリーダーでしたが、王宮跡であった神魂神社をそのままの形で保存し続けたことから、出雲王家に敬意をもっていたことが窺える人物です。
僕が唯一、好意を感じる物部人です。

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岐阜市では、伊奈波神社に加え、五十瓊敷入彦の妻を祀る「金神社」と、子を祀る「橿森神社」の三社参りの風習があるといいます。

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金神社(こがねじんじゃ)では淳熨斗媛命を祭神とします。

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ビル街に鎮座する当社。

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淳熨斗媛は景行天皇の第六皇女とされますが、讒言により夫が討たれたことを知った渟熨斗姫は深い悲しみを抱き、この地で夫の霊を慰めつつ生涯を終えたと伝えられます。
その際、私財を使い町を開拓。産業・農業の発展に寄与したことから商売繁盛の神として金大神として祀られたと云われていました。

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橿森神社(かしもりじんじゃ)の祭神は市隼雄命。

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こちらも街中の一角にぽつんと鎮座していました。

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境内には、京都の建勲神社から明治時代に勧請された「岐阜信長神社」が鎮座。

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社伝によれば、景行天皇の御代にこの地に鎮座したといい、また織田信長は楽市・楽座を開いた際、市神をこの橿森神社の神木の元に祀ったと伝えられます。

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古くから当社は、安産祈願、夫婦和合、子供の守り神として厚く信仰されているといわれています。

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それは祭神が五十瓊敷入彦と淳熨斗媛の愛の結晶として世に生まれたからでしょうか。

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いやどうも違うようです。

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拝殿の裏に、御神体と思われる「駒爪岩」なる磐座がありました。

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それはなんともそそり立つ、立派なサイノカミ。

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神人が駒に乗り、この地に降り立ったという伝説があるのだそうですが、ここにも出雲祭祀の匂いを感じ取ったのでした。

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16件のコメント 追加

  1. narisawa110 より:

    最近思い始めた事なんですが

    辰韓という国は、元は秦国系の韓の国で、かつては秦韓と言ったともあります。

    ふーんと読み流していましたが
    つまりはですね、徐福は日本と同じ様に朝鮮半島にも血筋を残したのではないかと。
    大陸から逃げるのではなく、大陸とのつながりを残し、日本攻略の橋頭堡だけでなく大陸からの窓口を独占する仕組みを作ろうとしたのではないかと思う様になりました

    丹後におけるヒボコ族とスサ族の習合には、理由があったのかもしれないと思うようになりました。

    ヒボコ族がタダで朝鮮の磁鉄鉱と、後漢が滅んだことによる、流出した鍛造可能な鋳鉄の技術の提供を物部氏にしたとは思えませんし、物部氏のせいで倭国大乱期の単独解散になり海部や尾張にやられて分断されたという認識なら、景初の前の協力関係は少し結びつきが弱いイメージになります。
    吉備国は早くから倒した播磨ヒボコ族を囲い込んだと思われ、まがね吹く国と呼ばれるまで鉄器が作られましたが、これは物部方に入れた鉄と近いものだったとわたしは考えます。

    亡骸=黒不浄に対する考え方の違いは、正にイソタケルにあると思います。
    彼は徐福に置いて行かれた後、大年教に入り、出雲の宗教観の下で育っていますから、両家で違いが出たのではないかと思います。

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    1. CHIRICO より:

      う〜ん徐福が朝鮮半島に、ヒボコには徐福の血が入っていたと言うことでしょうか?それはちょっと飛躍している気もしますが、可能性がないとも言い切れない。
      海部と物部の違いは出雲成分の濃度でしょうね。明らかに祭祀形態も海部の方が出雲的です。
      ただ関係のない話ですが、佐賀の金立山には蓬莱信仰的な徐福の磐座があります。そこに隠されたようにサイノカミ的磐座もあるのです。徐福自身は最初に出雲に触れたことによって、何かが変わったのではないかと思っています。

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      1. narisawa110 より:

        つい最近、古事記の編纂室を手に入れまして、あの本と先生の本の内容を見比べ、新しい本の位置付けをなんとなく理解した次第です。

        最初、編集長の本では中臣家の出自はよくわからないとしていますが、最新版では、中臣家は卜部氏の分家だよとなっていて
        児屋根が祖神になっています。
        更に、徐福時代の諸氏も児屋根になってる一族がいます。
        更には本来のホヒ家の祖神がコヤネとの話(吉田本)

        そして、天日槍という、天の字。

        当時、藤原氏が息長家と組んで三国国造家(蘇我家)と対立していたため、タジマノモリが、忠臣として書かれたと王家本には出ていますが、それにしても天をつけるのは盛りすぎな気がしないでもありません。
        また、桓武期には守屋の政変のあとに安倍家に接近した可能性があり(先日の新しい諏方伝承)
        藤原は中臣家と物部家を配下に置き、関東と日本海の勢力図の牽制のため、太平洋側を、支配下に置き、北陸蘇我氏の力を削ごうとした事が伺えます

        忌部氏が大陸出自を称した際に主張した系図が母系の系図と思われ、そこでもコヤネが出てきます。
        コヤネは須佐男か父親の徐猛と考えられていますから、秦国系の領域の(辰韓)の本質が窺えるような気がするのです。

        魏書にも出ている朝鮮半島の倭国領域は、秦国系(徐福系?)との協力関係のような気がしてきています。

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        1. CHIRICO より:

          児屋根と中臣のあたりの話は、例のヤタガラス同様なかなかクリアな理解に及びません。
          おそらく父系母系入り混じって、系図的にも複雑になっているのでしょう。このあたりは各家の思惑も深そうなので、正確な系図もなかなか出てこなさそうです。

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  2. narisawa110 より:

    岐阜は謎のエリアと言えます。
    それは正に物部氏の扱いです。

    伯耆国の隣の因幡国は、丹波とも国境を接します。
    つまり、邪馬台国事件以降の籠神社に近い位置な訳です

    前政権の王家であるヒコイマス系は、丹後古事記にも出てくる人気の人で、まあ、大彦と同じ立ち位置でしょうか?
    丹波でも、物部の投影が強い人物として描かれます

    岐阜でも物部の血が入った開化系の直系が稲葉神社に祀られるのは筋が通るとして、謎なのが物部十千根

    実は岐阜は長野と同じく物部守屋伝説があり、さらには稀有なことに直撃で物部十千根を祀る地域なんです。

    母系尊重の影響か、草薙の剣の疎開先になった水無神社は、御神体山近くに鳥船と高天原天孫降臨伝承を持ちます

    つまり、海部と同じ大彦系と思ったら、開化系の疎開先なのではと思いつきました。
    十千根は、守屋の直接の先祖で、物部と中臣家の騒乱に、ダイレクトで関わる物部の一派の先祖です

    第一次物部東征の代でヤマト政権にに嫁入りした熊野系物部勢は十千根の近い親族だったのではないでしょうかね

    王家本にも、十千根はヤマトから西都原に戻った組を窺わせる記述だった記憶があります

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      なんと十千根は守屋のご先祖でしたか、知りませんでした。十千根さんは出雲でしっぽり余生を暮らしたと思っていましたので、そこから壮大な物語が始まるとは予想外でした。出雲の岩坂陵墓がお墓でしたよね。

      そういえば出雲の物部神社が西の佐太神社にあたるのではないかという説、ちょっと立ち寄って確認してみましたが然もありなんって感じでしたよ。レポートはまたそのうちに!

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      1. 匿名 より:

        narisawa110
        美濃にヒコイマス王、居ましたね。
        伊波乃西神社です。結構大きめの神社であの辺りの三社詣でに入る規模です。
        また、一応は、宮内庁所管のヒコイマス王の陵墓なるものがあって、また先生が好きそ~うな長めの階段があります。
        丹波の粟鹿神社も陵墓伝承がありますね
        ttps://www.youtube.com/watch?v=seyqovMOrF8

        やっぱり飛騨王朝は、ヒコイマス系の物部氏の色彩を帯びた磯城家と思われます。
        滋賀県の関連神社にはサホ姫とサホ彦までいるようです。
        ヒコイマスの奥方の一人には、息長水依姫が居るので、こっちは亀岡に後退してからの奥方でしょうかね。
        系図上は彼女が一番最初の息長姓名という事になっている様です。

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 より:

          「飛騨王朝は、ヒコイマス系の物部氏の色彩を帯びた磯城家」なるほど、そうですか。
          息長水依姫の名前も今知りましたが、興味深い内容ですね。”亀”岡、少し調べてみましょう。

          粟鹿神社も、今後の参拝予定候補地です。たくさんの情報、ありがとうございます😊

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  3. 8まん より:

    こんちは~ご無沙汰でした~。
    いや~やっと休み。CHIRICOさんのブログ見て、やっと休みになった認識。(笑)
    岐阜三社、私も行きました。コロナ禍騒ぎになって二年以上、その前に行ったのだから月日は経ってます。
    やっとGW。掃除に洗濯、部屋の片付け、ボロボロになった体に美味しいご飯とスーパー銭湯(笑)
    ブログから伺うCHIRICOさんも大変だったようですね。まあ、人生万事塞翁が馬なんて言葉があるように、人生なんて、ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラ~ラ♪
    良い時も悪い時も楽しんで行きましょう♪

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    1. CHIRICO より:

      8まんさん、おはようございます😊
      8まんさんはGW突入のようですね、僕らには大型連休が存在しないので羨ましい!
      とはいえ、かなりお忙しかった様子、どうぞごゆっくり一息おつきください。

      本当に人生とはいかなるものか、ここにきて大きな岐路に立ち会うことになろうとは。生かされているなぁと、つくづく実感いたします。
      ともあれ絶望的だった旅も、またしばらく続けられそうです。いつか関東方面でオフ会したいですね♪

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  4. 匿名 より:

    黒龍社へも行かれたんですね^ ^
    置いてあった
    祝詞は唱えられましたか?

    私もまた行かねば〜✨

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    1. CHIRICO より:

      ふらりと立ち寄ってきました😊
      祝詞には気がつきませんでした。不思議な龍の岩にただただ見惚れていました😅
      丸山の磐座もちょっと気になりますので、僕もまた行きたいです。

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  5. Nekonekoneko より:

    物部氏とは何なんでしょうか?出雲族を目の敵にして殺戮しまくり、仏教を目の敵にして( ゚д゚)…その挙句歴史改竄ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•

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    1. CHIRICO より:

      何でしょうね、徐福を同じ祖神としながら、海部氏とは対照的に感じます。
      一つは日本の西の外れ、佐賀地方を拠点としていたので中央に対する強い憧れを抱いていたのはあると思います。あと不老不死の考えがありましたので、敵の遺体は蘇らぬよう切り刻む習慣が残酷に見えたことも。大陸的な奴隷制もあったようで、そのようなことから出雲系大和族には嫌われていたと聞いています。その僻みでしょうかね。

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  6. mame58 より:

    伊奈派神社に来て下さったのですね😊
    感激です♬♪🎵
    私なんて毎月ぐらい行っているのに、omouhanaさんのおっしゃっていることすらわからなく、当然疑問も持ちませんでした😓(私って、いい加減なんだなぁ、、、と再確認しました)

    もう、このブログは保存版です!!
    おっしゃってみえることがわかるよう、もう少し勉強したいと思います。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      mame58さん、素晴らしい神社をご紹介いただき、ありがとうございました😊
      mame58さんに教えていただいてなかったら、僕が訪れることはなかったかもしれません。
      記事に書いてある内容は、僕の独りよがり的な部分も多いので、今まで通り気軽にご参拝されると良いかと思います。
      個人的には、出雲系、ひいては龍宮と謳われる邪馬台国系の古代人が祭祀を始めた場所でなかろうかと思いました。
      龍の頭の岩、本当に面白いですね。心残りは松尾社の写真を撮り損ねてしまったことです。またいつか尋ねてみたいと思います。

      いいね: 1人

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