京都ぉ~よいとこ一度はおいで~アぁドッコイショ~♪
こんにちは、桐彦です。ここ最近悲しいことがあったり、嫌な思いをしたり、切羽詰まったりでけっこう煮詰まってます。人生とは冒険である。
やはりこんな時はさぱ~っと出かけるに限るよね!
てなことで京都行ってきましたチョイナチョイナ。
「お、舞妓はんや」
路地裏からやせいの舞子はんがとびだしてきた!そう思ってシャッターチャンスの呼吸を全集中していたら、見ず知らずの京都おっちゃんに「アレ偽物や」と即座に突っ込まれました。
身もふたもないご忠告、ほんまおおきに。
映えスポットで人気の「八坂庚申堂」(やさかこうしんどう)に来てみました。
着物をきた兄さん姉さんも映え撮に夢中。
でもお隣の「おびんずる」さんは苦笑いしてはります。
おびんずるさんはお釈迦様のお弟子・十六羅漢の一人。神通力に優れていましたが、その力をみだりに使用したためお釈迦様にぎょうさん叱られたといいます。
ところでばえ~ばえ~いうて皆写真撮ってはりますけど、庚申はんのこと知ってるんでっしゃろか。
庚申信仰では、人間は頭に「上尸」(じょうし)、腹に「中尸」(ちゅうし)、足に「下尸」(げし)という「三尸」(はんし)の虫が住んでいるとされます。
上尸は道士、中尸は獣、下尸は牛の頭から人間の足が一本生えた生き物で、こやつらが病気を起こす原因とされています。
この三尸は、1年に6回訪れる「庚申の日」の夜に眠ると、宿主の体内から抜け出し、閻魔さんに宿主の罪を告げて寿命を縮めてしまいます。
眠らなければ三尸は外に出ることができないので、庚申の日は眠らないで過ごす「庚申待ち」の風習が生まれました。
三尸の虫を屈服させるのが青面金剛であるといわれ、その従者が猿といわれています。
そのため庚申信仰では青面金剛が本尊とされ、また見ざる・言わざる・聞かざるの三猿の像や猿田彦大神も信仰されています。
八坂庚申堂では境内にたくさん吊り下げられたカラフルな「くくり猿」が若人のばえ心を掴んでおりますが、これは名前の通り、お猿さんが手足をくくられて動けなくなった姿をあらわしています。
走り回る猿を人間の欲望に例え、手足をくくられて動けない猿をもって「欲望を抑える」という信仰になってはります。
このくくり猿に願い事を書いて吊るすことで「一つ欲を我慢することで願い事が一つ叶う」ということですが、この亀甲縛り状態のお猿さんたちを前に巷の姉さんたちはばえばえ言うてるのです。
「安井金比羅宮」(やすいこんぴらぐう)、通称「縁切り神社」にも行ってきました。
ここにも若い人らがぎょうさん並んではります。
この方たちは暑っつい中並んで何をしていらっしゃるのかといいますと、「縁切り縁結び碑」の小さな穴を衆目に晒される中、出たり入ったり、出たり入ったり、あらまあ何やら卑猥な行為を繰り返してはります。
これは穴をくぐって向こう側に行くことで悪い縁を切る、そして戻ってくるときによい縁を結ぶという意味があるのだそうです。
でもこの人の願望に溢れたお札の数々、よく見ると中には不倫相手や嫌いな人を呪うような札もちらほらあって、こわ~。。
まあお願い事は自由ですけど、人を呪わば穴二つ、くわばらくわばら。
ところで縁切り縁結び碑にはたくさん人が並んでいるのに、肝心の本殿さんがスカスカですわ。
ちゃんとお参りしとき。
なんてったてここの主祭神は、あの崇徳天皇はんですよ。
皆さん日本三大怨霊の一柱に縁切り頼んではるいうこと、ゆめゆめお忘れなく。
真正極楽寺、通称「真如堂」に足を伸ばしました。
入口にダキニさんいらっしゃるあたりで、妖しさぱんぱんです。
ダキニさんは『我に尽くせば願いは思うまま、だが裏切り者には罰を』というこわ~いお姉さんです。だがそこがイイ!嫌いじゃない!
真如堂は一条天皇の生母である藤原詮子(藤原道長の姉)によって興された寺院であり、安倍晴明とも非常にゆかりのある寺院だそうです。
衆生済度、特に女人救済として名高いお寺です。
境内で一際目を引くのが美しい三重塔。
その脇にひっそりと建つ地蔵堂があります。
この中にいらっしゃる鎌倉地蔵、なんとあの「殺生石」でできていると云う話です。
殺生石といえば、九尾の狐「玉藻前」の成れの果て。本家、那須の殺生石の破片は全国各地に飛び散り、玄翁和尚がその残った破片の一部で、殺生石によって亡くなった者を供養するために作った一体の地蔵がこれだということです。
本家の殺生石は最近ぱっかーんしてましたね。
「南禅寺」に来ました。
湯豆腐食べに来たんとちゃいます。
南禅寺のばえ~スポット「水路閣」です。
ここでもばえリストの皆さんがおさかんです、さかっております。
このばえ~なローマ風レンガ造りのアーチ橋は、琵琶湖の水路が通っています。
この水のおかげで京都の人たちは暮らしが成り立っています。
というか滋賀県民に命握られてます。
「琵琶湖の水、止めたろか!」今にも滋賀県民の雄叫びが聞こえてきそうです。
しかし実際は120年前に京都市が止めたという事件があったとか。
1896年(明治29年)の琵琶湖大水害で、水害を危惧した京都市は大津閘門を封鎖。その結果大津町(現大津市)は激しく浸水量が増したとして滋賀県民は激怒したといいます。
ひょっとすると「止めたろか」は、京都市民が滋賀県民を脅す文言なのかもしれません。
まあお隣同士、仲良くしたってやー。
さてさて、京都のいぶし銀ちゃん、銀閣寺にやってきました。
銀閣寺は正式には「慈照寺」(じしょうじ)と呼ばれる臨済宗相国寺派の寺院。
シンボルマークの観音殿が銀閣の通称で知られることから、銀閣寺と呼ばれるようになりました。
室町幕府第八代「足利義政」は、祖父「足利義満」の北山殿(現在の金閣寺)を参考に隠居所の建設をすすめ、文明14年(1482年)に東山山荘を造営しました。
これが銀閣寺のはじまりとなります。
銀閣前の向月台(こうげつだい)や
本堂前の銀沙灘(ぎんしゃだん)などは江戸時代以降に作庭されたものになります。
現存する当時の建物は、銀閣・観音殿と東求堂(とうぐどう)のみ。
観音殿は銀閣と呼ばれるものの、金閣のように銀箔で覆われておらずかつて銀箔が貼ってあった痕跡なども見つかっていません。
義政は銀閣の完成を見ることなく死去しており、銀箔で覆う予定があったのかも未だ不明のまま。
しかしギンギンギラギラな銀閣よりも、今の姿の方がよほど「いぶし銀」だと思うのです。
銀閣は二層からなり、下層の心空殿は書院造りの住居、上層の潮音閣は唐様仏殿で観音像を安置します。
毎年8月16日に行われる五山の送り火の「大文字」の形は、義政が早逝した息子「義尚」の菩提を弔うためにつくらせたのが起源と云われています。
その際、義政の側近「横川景三」は、東求堂から如意ヶ岳を眺めて大文字を型どったということです。
ところで、ブサイク王さんから「鹿ヶ谷の地」の情報をいただいておりましたが、いまいち場所が分からず辿り着けませんでした。
「後白河院が鹿ヶ谷で平家の悪口を側近という一説ですが、すんごく上り坂なんです」とのこと。
牛車や御輿では到底行けるとも思えないような場所だそうで、ちょっと興味がありました。
銀閣寺で銀閣のガチャを引き当てました、ムフフ。
だいぶ歩き回って小腹が空いたので、ニシン丼とそばをいただいたのでした。
『終着点は重要ちゃう。旅の途中でどれだけ楽しいことやり遂げてるかが大事なんや』byスティーブ・ジョブズ
亀甲縛りの猿😨昔に良からぬプレイでもあったのでしょうか。崇徳天皇は誰かに暗殺されたんですか?社はとても綺麗に見えますが。私はそこら辺の事情をよく知らないので。それにしても、銀閣寺はやはりとても美しいですね。私は京都の名所の中では銀閣寺が1番美しい場所だと思ってます。椿の咲く季節に来ると壮麗な美観を実感できる場所があるのが印象的でした🐥
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崇徳天皇は保元の乱で讃岐に島流しになって憤死したとされます。平将門・菅原道真に並ぶ三大怨霊ですね。讃岐の聖地も訪ねてきましたので、いずれ記事で紹介します。
雪の銀閣を見てみたいと思っていますが、なるほど椿の共演もあればなお美しいでしょうね😌
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