京の出雲、「出雲大神宮」(いずもだいじんぐう)にやって来ました。
出雲大神宮は、京都府亀岡市に鎮座する丹波国一宮となっています。
近年はパワースポットとして注目を浴び、「元出雲」や「千年宮」とも呼ばれています。
しかし元々は「出雲神社」と称していた当社、いつの頃からか大神宮を名乗るようになった様子。
はて大神宮とはいったい何?
通常「大神宮」とは伊勢から神を勧請した場合に呼称することが多いようです。
が、当社の場合は特殊で、「出雲大神宮をして『元出雲』と呼ばせるのは、島根の出雲大社がこの出雲大神宮から分霊を勧請した」とする社伝に由来するとのこと。
出雲大社は古くは「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは「出雲の神」と言えば出雲大神宮を指していたと言うのです。
参道に立つ「国幣中社 出雲神社」の社名標は出雲大社の元宮司・千家尊福の筆によるもの。
また三枚目の写真にある「丹波國一之宮 出雲大神宮」の石碑は出雲大社現宮司・千家尊祐の筆であるといいます。
ほうほう、なるほどなるほど。
まあどうでも良いですが、せめてもう少し毅然とした態度をとって欲しいものですよ、かの宮司家には。
そもそも大神宮って呼び名はどうなんでしょうかね、大仰なその呼び名を僕は、どうにも好ましく思えないでいます。
出雲大神宮の社殿はとても風格があり、立派です。
しかし出雲でありながら菊花紋なんですね。大社造というわけでもない。
主祭神は「大国主神」(おおくにぬしのかみ)と「三穂津姫尊」(みほつひめのみこと)。
出雲大神宮では、大国主の別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」としているようです。
また、「天津彦根命」と「天夷鳥命」を配祀しており、この天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の3柱が本来の祭神であるとする説や、元々は三穂津姫尊1柱のみが祀られていたとする説もあるようです。
夷鳥は千家家への配慮か、また天津彦根命ってことは忌部がからんでいるのか。
しかし真の祭神は社奥の神体山が御蔭山なので、大和初代大君・天村雲の息子「天御蔭」(大和宿禰)だったのではないでしょうか。そうであれば菊花紋にも納得がいきます。
天御蔭は海部家の祖であり、東出雲王国・富家の姫「豊水富姫」を妃に迎えています。
元出雲を名乗るのは少々行き過ぎですが、出雲系の古い由緒を持っているということにも一理あるということに。
「出雲」の名の由来もさまざまな説がありますが、「春の芽吹きを『出づ芽』と呼んだ」という富家の説こそ真実である、と僕は確信しています。
この情緒深き繊細な感性こそ、世界にも稀な民族・日本人のDNAに残されてきました。
出雲の元宮は神魂神社であり、美保神社であり、揖夜神社であり、島根の熊野大社であり、出雲井社であり、佐太神社であり、三屋神社であり、長浜神社であり、久奈子神社であり、富神社であり、etc.etc.
まあそんな感じなのです。
それにしても出雲大神宮は境内中、磐座だらけです。
磐座、
磐座、
磐座、、、
磐座とは一体なんぞや、そんな問答を考えてしまうほどに磐座だらけ。
出雲では元来、王家の遺体を埋葬した山中の大岩を磐座と呼ぶようになった、と伝えられます。
それがやがて神の依代を指す言葉となりました。
しかし岩なんてそこら中にいくらでもあるのです。
それら有象無象の岩々と、神の宿る岩を区別するものとは何か。
あまり何でも磐座だ磐座だと叫んでいては、磐座の重みというものが薄れようと言うものです。
いくつかの神社や寺院では、たくさんの神跡を用意して、パワスポデパートのようになっているところも少なくありません。
エンターテイメントとしては楽しめるのですが、真面目な信仰を謳うには逆効果な気がしています。
当社の数多の磐座群も磐座デパートの様相を呈していますが、さすがにここ、神体御蔭山山中の神跡は本物の香りがしました。
樹木と絡むように鎮座する岩の数々。
ここはちょっと神魂神社の宿禰岩を彷彿とさせます。
御蔭山上部に埋め墓の磐座があるとしたら、ここはその拝み墓である可能性があります。
つまりかなり古い出雲系の祭祀があったことを示しているのかもしれません。
元出雲、と呼べずとも遠からず。
これなんか龍の頭みたいです。
奥では磐座の親分がこっちに睨みをきかせていますし。
深部の磐座群で濃厚な神威を感じつつ、再び磐座デパート参道を歩いて下ります。
まあしかし、特徴のある岩々をよく集めたものです。
奉納されたものもあるのかもしれません。
兼好法師著の『徒然草』第236段には、この出雲大神宮が登場しています。
丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。
しだの某とかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人、その他も人あまた誘ひて、
「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」
とて具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信起したり。
御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、
「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あら ん」
と涙ぐみて、
「いかに殿ばら、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」
と言へば、おのおの怪しみて、
「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん」
など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、
「この御社(みやしろ)の獅子の立てられ様、定めて習ひあることに侍らん。ちと承らばや」
と言はれければ、
「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ふことなり」
とて、さし寄りて、据ゑ直して往にければ、 上人の感涙いたづらになりにけり。
~
丹波の国に、出雲という所があった。
出雲大社の神霊を分け遷して、社を立派に造っていた。
この土地はしだの某とかいう人が治めている所だったので、秋のころ、聖海上人やそのほか多くの人を誘って、
「さあ、いらっしゃい。出雲神社を拝みに。ぼたもちをご馳走しましょう」
と言って連れて行ったが、皆それぞれに拝んでは、深く信仰心をおこしたのだった。
すると拝殿の前にある獅子と狛犬が、背中を向けあって後ろ向きに立っているではないか。上人はとても感心して、
「ああ、なんと素晴らしいことだ。この獅子の立ち方はとても珍しい、深いわけがあるのだろう」
と涙ぐんで、
「いかに皆さん、この神妙な様子を覧になって、何もお気づきにならないのですか。まったくもってひどいではありませんか」
と言うので、皆それぞれ不思議がって、
「ほうほう、確かに他のものとは違っておりますなあ。これは都へのみやげ話にいたしましょうぞ」
などと言うと、 上人は一層そのわけを知りたがって、年配で物を知ってそうな顔の神官を呼んで、
「この神社の獅子の立て方には、きっといわれがあることでございましょう。ぜひとも承りたいものです」
と話したところ、
「ああそのことでございますか。いやはや、これはいたずらな子供たちの仕業で、まことけしからんことでございます、失敬失敬」
と言って、獅子と狛犬の所に近寄り、もとに置き直して行ってしまったので、 上人の涙は無駄になってしまったのであった。ちゃんちゃん。~
出雲大神宮社殿の裏にも、大きな磐座が鎮座していました。
確かにこれはまた立派な磐座です。
堂々たる質量、神宿る岩としての資質を十分に備えています。
結局のところ、今の世では人が「これぞ神の磐座ぞ」と言えば、それを磐座と呼ぶのでしょうし、それで良いだろうとは思います。
TVで有名スピリチュアリストが「これぞパワスポぞ」と言えば、皆こぞってパワースポットとして人気が出るのでしょう。
その神妙な様子に、ありがたや、ありがたやと乗っかるのもまた良しとは思いますが、時にはじっくりと自分自身の感性を研ぎ澄ませて、自らものの本質を見極めてみるのはいかがでしょうか。
存外いたずらな大人たちの仕業で、下手な感動の涙を流すはめにならずにすむかもしれないというお話です。
一笑、一笑。
弾丸工程初日、11日はは3回目の出雲大神宮でした
何とですね、公式には何とも書いてないんですが、裏山の御影山、なんと禁足地ではないらしく登って上に何かないか確かめることでした。
一度外に出て近くの猿田彦神社から山の方に向かい、山道に入ります
そこから驚きのお金を払って行く磐座の後ろ(笑)を通る山道を登りましたが、上には何もありませんでした
私の記憶が確かなら、岩倉の岩はこの山の中腹にある岩とは種類が違う気がします
さらに、山頂手前の場所には三段ほど整治した場所があり、そこで火を焚いた形跡が見られましたので、昔は規模が小さく、小宮がそこにあったのかもしれません
なんとなく物部の色彩を感じた印象通り、開花系の磯城家の人たちが亀岡に遷都して大丹波をヒボコと一緒に形成した場所の様な気がしますね
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なんと、すごい情報ですね!
そうすると大神宮の磐座が拝み石である可能性は低いということでしょうか。
また、大神宮の磐座はどこからか運び込まれたものということになりますかね。
そう、あそこは出雲というより物部の気配です。
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登ってみた印象ですが、中腹に磐座のような地形がある事にはありましたが、そこから持ってきた岩のような気がします。
山頂の手前には3段ほど整地された地形があり、古い焚き火の様な痕跡も見られましたので、古い時代は神事が行われていたか、戦国時代は山城か狼煙があったのかもしれません。
出雲大神宮は本当は真ん中が空位、左右の本殿に四柱の神が鎮座しています。
昔は籠神社と同じで出雲の領域
後に、ヒコミチヌシノミコが亀岡に遷都した際にはもう一つの母系の尊重で出雲の神を祀る事を継続してのではないかと感じます。
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五条さま
今回の記事では、『徒然草』のご紹介がとても面白かったです。あのような一段があるとは知りませんでしたから、ベンキョーになりました。
それにしても子どものやることは、昔も今もあまり変わらないのですね。鎌倉時代のあの子たち、大人をびっくりさせてやろうと思って、きゃっきゃきゃっきゃ言いながら獅子と狛犬を動かしていたのでしょうかね?
微笑ましくて、フッと笑みがこぼれました。
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僕も子供の頃は神社でよく遊んだものです。
さすがに狛犬を動かしたりはしませんでしたが、本堂に上がり込んで寝そべったり、御神木に登ったりしていました。
日本の神様は子供には寛容ですね😄
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フフ、narisawaホイホイ神社のご紹介有難う御座いますw。
吉田本に出てくる籠神社の宮司との対談は今でも密かにネットにヒットしますね。
籠神社の本来の祭神は出雲の大神
「中央は空位、左がミホツ姫とオオクニヌシ、右は天つヒコネの命と、天のヒナドリの命となっている」
ヒコネとはもしかしたら千家が藤原に奪われたコヤネなのかもしれません
何しろ出雲大神宮に似ていますね。
宇佐氏の本によれば丹後には月神信仰が入っていたとあります。
→京都大江山は莵狹族が最初に拠点を置いたところである。
現在の大江山に月神信仰の痕跡は見られない様ですが、伊去奈子嶽や久次岳の信仰を考えると、かっては大江山に月神信仰があった可能性はある様に思えます。
大神宮にはちゃんとウサギさんも居ますし、神奈備山が八雲山ではなく御影なので、お月様がいる神社ではないかと私は思っています。
磯城登美家にサマナ姫が入っていますので、母系の更に母の尊重で、邪馬台国事件で丹後に戻ってきた海部一族の作った籠神社らしい神様の祀り方に、当神社が近い事は興味深い話だと思います。
また、田原本町の物部守屋の子孫の布都姫神社がミホツ姫を祀る事からも、海部、物部の両方からミホススミが尊重されていることは興味深い事です。
個人的には出雲大神宮は、物部色が強いイメージで捉えていました。
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出雲大神宮、いやよくわからん神社です。
なにかしら有力な一族が建てたのだとは思いますが。
京都も賀茂氏がいたり宇佐氏がいたり、混沌としてますね。守屋の子孫がミホススミを祀っていたとは驚きです。なんとなく物部は出雲を祀らないのではないかと思っていましたので。まあ、血は交わるわけですし、もう僕らの中にはいろんな血が分け難いほど複雑に混じり合っているのですが。
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先生も行かれた村屋坐弥冨都比売神社のことでありますよ〜。
あそこは物部守屋の長男さんの血筋が宮司やってまして、本来は物部守屋の妹さんが布都姫なんですが、どういう訳かミホススミさんになってる変わった神社なんです。
ちなみに諏訪の神長官三代目に養子入りしたのはこの家の弟さんの方です。
物部守屋の母親だかが、スワの名のつく人物で、もしかしたら母系の血筋を頼りに戻ったのかもしれません。
最近、現在の我々が知る守矢氏は、物部氏の様な気がしている原因の一つが布都姫神社です。
守屋の母型の実家がミナカタ系だったのかもしれません。
諏訪においては物部氏は再興され物部性を名乗りました。五管のホオリの禰宜太夫が物部家でした。
そして出雲大神宮の神紋は菊花紋
それで出雲大神宮を、物部色が強い様なイメージを持っていました。
ちょうど真逆でこの二つの神社が面白いなと感じていたのです。
物部氏が出雲を祭り、かたやここでは出雲の神社が物部のイメージを帯びているのです。
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ああ〜!!そうでしたか。
冨都比売=布都姫、そうですね、そうですね。
村屋坐弥冨都比売神社、僕はなんであそこに行ったんでしょうね。確か何かが気になったので、行ったはずなのですが。再考の余地ありですね。
ところで布都姫がなぜミホツ姫になったかの謎はさておき、屋坐弥冨都比売神社の祭神の大物主とは事代主だと思うんですよね。美保神社もミホツ姫と事代主。このミホツ姫、僕もずっと娘・ミホススミのことだと思っていましたが、ひょっとすると沼川姫のことじゃないですかね。父娘を祀るというより、夫婦を祀る方が自然だと思うんです。沼川姫というのもいわゆる愛称のようなもので、本名がミホツ姫、その母の名をとって娘はミホススミと呼んだのではないかと最近は考えています。
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フツヒメ神社に関しては、冨都比売=とみつ姫という解釈もありますね。
私は物部守屋の子供が疎開した先は全て出雲や大彦系に縁がある場所になってるのでは?と考えています
長男→事代主
次男→タテミナカタ
長女もしくは三男→秋田(阿部の領域?)
そうすると草薙の剣の疎開先になった、守屋伝説のある
岐阜の水無神社→?阿部?越知?
うーむw
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そう、すっかりとみつ姫方面で考えていました。
出雲は敗者に寛容ですので、物部にも手を差し伸べたのかもしれませんね。
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出雲の元宮が一体何処なのかどれなのか沢山ありすぎて判りません🦑磐座は墓なのかガラクタなのかただの奇怪な岩なのか沢山ありすぎて神体不明😨ついでに宮司さんの字は…下手かも何歳ですか🐣ぼた餅を持って物見遊山はとても良い考えです。ところで、最後の写真の磐座だけは本物の御神体だと感じました。自然の美しい気配があったので🐥
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元宮がたくさんあるのは、それらが古い出雲王国の王宮跡だからです。出雲大社は大して重要な社ではありません。最後の磐座は確かに神秘的でしたね。磐座の最も古い形は王家の墓です。
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🐥…古い出雲王国の王宮跡🦑なるほど、分かりました。(…?)
大昔の磐座は王家の墓でしたか。墓というと古墳みたいなのだと思ってましたが。死体を壺に入れて地面を掘って埋めてから岩でフタを閉めたんですね。そうでしたか🐣
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古墳時代前の埋葬方法です。
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