京都市南区吉祥院政所町にある「吉祥院天満宮」(きっしょういんてんまんぐう)を訪ねました。
天満宮といえば菅原道真、以前より気になっていた神社です。
吉祥院天満宮は幼稚園に隣接しており、町中の神社という風情。
参道を歩いていると、脇に弁財天社がありました。
古びた建物の中には
狛ヘビさんがしゃーしてます。
横には「鏡の井」。
江戸時代の書家「松下烏石」(うせき)もその水の清さを讃えたと伝えられていました。
当社は菅原道真公生誕の地ともされており、公の「産湯の井」というものもあります。
井の跡と思われる石の櫃の中には梅の実が沈められていました。
菅原道真誕生伝承は、僕の知る限りでは他に滋賀と出雲にあります。
道真公のへその緒を埋めたとされる「胞衣塚」(えなづか)。
中の丸い石はへそを象徴しており、初宮詣りでこの塚の前で赤ちゃんの鼻をつまんで泣き声を上げさせると健康に成長し、将来の成功にもつながるとされています。
吉祥院天満宮は菅原道真が大宰府で没した31年後の承平4年(934年)に、京都市の北野天満宮より先に創建された初の天満宮であると云います。
いやいや初天っていうなら我らが太宰府天満宮でしょうよ、と言いたい!
太宰府天満宮は菅原道真が埋葬された御墓所の上に、延喜5年(905年)に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919年)に勅命によって社殿が建立されていると伝わります。
ま、それはともかく、道真さんゆかりとあらば僕は、真摯な気持ちで参拝をせざるを得ないのです。
道真さん、ちっす。
当社の建つ地域一帯は菅原道真の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が平安遷都に際し桓武天皇の供として入京し賜った地で、ここに邸を構えたとされます。
祖父・菅原清公の代で菅原姓へ改姓しますが、清公が遣唐使として唐へ向かう途上嵐に遭い、吉祥天女の霊験により難を逃れることができたので、以降菅原家では吉祥天を信仰するようになりました。
道真の父・菅原是善は、当地の自邸内に吉祥天を祀る堂・吉祥院を建立します。
一説にはこの吉祥天の開眼供養を最澄が行ったと伝えていました。
由緒では菅原道真はこの地で承和12年(845年)に誕生し、18歳で転居するまでこの地で過ごしたとされています。
延喜3年(903年)に道真が大宰府の地で没した後、大和国の吉野・金峯山で修行中の日蔵上人が道真の霊から誓願を受け、朱雀天皇に奏上。
天皇はその怨霊鎮魂のために、勅願によって承平4年(934年)にこの地に吉祥院聖廟と社殿を建立し、道真の霊を祀ったと云うことです。
ところで話は変わりますが、先日、古代史好きのお食事処「くるま座」さんにお邪魔し、面白い話を伺いました。
「なぜ道真さんは遺骨を京に戻させなかったのでしょうね」
そう、これはとても異なことなのです。
当時も今も、国外で死すれば、遺体遺骨は実家に送られるのが通例です。
無実ながら讒言により京都から大宰府に流された道真公は、延喜3年(903年)2月25日、大宰府政庁の南館、現・榎社において、生涯を終えます。
これに先立ち、『菅家聖廟略伝』によると菅公自ら「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」と遺言を残したと伝えます。
また、『北野天神御伝』には「余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所有に依りて、此事願はず」と生前公が語っていたのだと記されます。
あれほど京に帰りたいと願っていた道真は、なぜか「思ふ所」あって遺骨を京に帰すことを「願はず」、大宰府に「とどめよ」と言い遺したのです。
門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)は道真公の遺体を車に載せ、牛に任せて黙々と東に歩いて行き、ついには宝満山の麓、安楽寺四堂のほとりで牛は動かなくなります。
これは道真公の御心によるものであろうと御墓所をそこに定め、埋葬されることになりました。
それが今の太宰府天満宮です。
しかし果たして、道真の墓は伝承の通りたまたまそこに決まったのか。
いや、彼自身が帰京を「願はず」、「思ふ所」あって、そこに埋めるように門弟・安行に指示したのではないだろうか。
そんな疑惑の探究はまた別の機会に譲り、今回、吉祥院天満宮を訪ねた一番の目的を果たします。
境内に一際立派に建つ摂社「吉祥院」(吉祥天女社)。
嘉永3年(1850年)再建で神仏習合の名残ある仏堂建築です。
清公自らが海難から救った吉祥天女に感謝し、刻んだという吉祥天女像を祀っています。
このお堂を吉祥院と呼んだことが、当地吉祥院の地名の由来です
菅原道真の正室・島田忠臣の娘「宣来子」(のぶきこ)も死後、「北政所吉祥女」(きたのまんどころ きっしょうめ)として神格化されました。
それは宣来子の住居跡が当地にあることが由縁であろうと思われます。
その宣来子の墓と伝わる場所が、境内から少し離れた公園の片隅にぽつんとありました。
岩手県一関市にも、娘たちとともに落ち延びたという伝承と共に、宣来子の墓が残されています。
しかし彼女の御霊は懐かしい我が家に帰っているのかもしれません。その意味でも僕は、この場所を参拝せずにはいられなかったのでした。
あら、御朱印に三階松が。
「思ふ所」のお話に鷽替や天の原の和歌もあったのでしょうか。
疑惑の探究の続きを期待してます。
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鷽替、天の原の和歌、また新たなキーワードが飛び込んできました😅今度くるま座さんに聞いてみます。
今回僕が伺ったのは磐座の話でした。それらが天満宮と繋がるのだと、くるま座さんはおっしゃいます。果たして真偽の程はいかに。
確かに鷽替などは何か呪術的なものを感じさせますね。
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吉祥院天満宮🐥”鏡の井”、”硯之水”の清らかな澄んだ水、あとは掘立て小屋にしか見えないかもの見事な安普請。…素晴らしい。水🐣
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