岡山県赤磐市是里、吉備から美作方面へ向かう途上の吉井川の支流滝山川の深部に、「血洗の滝」(ちあらいのたき)はあります。
ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトがこの滝で血にそまった剣を洗ったというのが名の由来です。
おっと、その宣伝にこの人も関わっていましたか。
血洗の滝には駐車場もありました。
少し歩いて谷に向かいます。
眼下に建つ鳥居。
出雲神話の中でも序盤のクライマックスと呼べるのがヤマタノオロチ神話です。
古事記にも記され、神楽などでも人気の演目の一つです。
しかしそこに隠された真実とは、出雲で行われた激しい戦争の歴史でした。
大和の7代孝霊帝「フトニ」が吉備国(岡山)にやってきた目的の一つは「鉄」でした。
古今集 巻二十「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」(吉備の中山に帯のように流れる細谷川の音の澄んでいることよ)
この「真金吹く」とは、タタラ製鉄でフイゴを吹くことを意味しますが、それが枕詞になるほど、吉備では砂鉄が採れ、鉄の産地であったということです。
そして播磨の美作地方も特に砂鉄がよく採れました。
それで吉備勢は美作地方も占拠したのです。
血洗の滝に着くと、小さな祭壇が設けられていました。
ここには朽ちかけた小祠があったようですが、既に撤去されており、再建プロジェクトが組まれているようです。
フトニ大君と吉備津彦兄弟が吉備の中山を都にした後、出雲王国に要求を二つ突き付けました。
一つは出雲王国が吉備王国の属国になれ、というもの。
二つ目の要求は、出雲王家が持っているすべての銅鐸と銅剣を渡せ、というものでした。
銅剣・銅鐸は信仰の象徴であり、豪族に配って友好関係を図るものでした。
吉備王国は新たに多くの銅剣をつくるために、素材の青銅を欲していたこともありますが、銅鐸と銅剣をすべて渡せという要求は、出雲王国の勢力を広げるな、という圧力でもありました。
これらの要求に出雲王家は応じなかったため、出雲王国と吉備王国の激しい戦いとなります。
これを出雲王国では第一次出雲戦争と呼んでいました。
吉備軍の攻撃は激しく、この戦いで多くの出雲兵が殺されました。
しかし出雲兵はゲリラ戦を繰り返し、吉備兵を恐れさせたと云います。いつしか吉備兵は出雲兵を鬼と呼ぶようになりました。
やがて敗北を悟った出雲の東西両王家は、銅を吉備家に差し出すことにしました。
しかし全てをくれてやる必要もなく、また神に王国を守ってもらう願いを込めて、両国の聖域である「神庭斎谷」(荒神谷)に富家は344本の銅剣、郷戸家は14本の銅剣、合計358本を、また「加茂岩倉」に多数の銅鐸を埋納しました。
この時、富家はサイノカミの印である×を柄の部分などに刻みました。
ヤマタノオロチの話はこの吉備津彦兄弟の軍勢が西出雲王家の領地を攻めた時の話を神話化したものです。
吉備津彦兄弟の狙いは、奥出雲で採れる鉄でした。
そこは南出雲ともいい、花同岩が風化した地質が多く、その真砂に砂鉄が混じっている地域がありました。
南出雲の砂鉄は、不純物のリンと硫黄が少なく、チタン含有率も1~ 2%に過ぎず、そのため、和国内でもっとも良質な砂鉄であり、古代に行われた低温精錬にもっとも適していたとのことです。
吉備津彦兄弟は徐福の子孫でしたので、徐福の化身のスサノオに喩えられました。
奥出雲を流れる斐伊川には8本の支流があり、大蛇の胴体のように谷間をくねって流れています。
斐伊川の本流沿いに住んでいた出雲族はオロチの胴体に例えられ、各支流沿いの出雲族は8本の首に例えられました。
スサノオが切ったオロチの尾から大刀が出てくるのは、そこが砂鉄の大産地であったことを示しています。
ではオロチを倒した剣についた血を洗い流したといわれているこの滝は、何を意味しているのでしょうか。
この川から砂を洗い流して鉄を得たのかもしれませんし、現住の民の血が流れたのかもしれません。
帰り際、川の流れだまりは、まるでオロチが棲まうかのような雰囲気でした。
血洗滝神社から2kmほど南に離れたところに「宗形神社」(むなかたじんじゃ)がありました。
血洗滝神社はこの宗形神社の末社に当たるのだそうです。
社伝によると、10代崇神帝の御代に勧請されたとあります。
祭神はもちろん宗像三女神。
なぜこのような場所に宗像三女神が勧請されたのか。
ひょっとするとここも豊の神が宗像神にカモフラージュされているのではないか、などと妄想してしまいます。
こんな山奥のひっそりとした神社は、思いのほか立派なものでした。
当地は、仁徳天皇が黒比賣を当社へ迎え、「やまかたに まけるあをなもきひひとゝ ともにしつめはたぬしくもあるか」と詠んだと伝えられます。
黒比賣は『古事記』にみえる吉備海部直の娘。
容姿端麗なために仁徳天皇が召し使っていましたが、大后の石之日売(葛城磐之媛)の嫉妬を恐れて吉備に帰郷します。
すると天皇は高台に昇り、去りゆく黒比賣の船を望見して歌を詠み別れを惜しみます。これを見た大后は嫉妬に怒り、黒比賣を下船させて徒歩で帰らせたということです。
ある時天皇は淡路島から島伝いに吉備へ行幸し、黒比賣の元へ向かいました。
比賣は菘菜を摘み、羹に煮て献上し、天皇もともに菜摘みを楽しんだと云います。
やがて天皇が都へ帰る時、黒比賣は別離の慕情をこめて次の歌を詠みました。
「倭方(やまとへ)に 西風吹き上げて 雲離れ そき居りとも 我忘れめや」
(大和の方へ西風が吹き上げて、雲が離れ離れになるように、遠く隔てられても、私は忘れません)
「倭方に 往くは誰が夫(つま) 隠水(こもりづ)の 下よ延へつつ 往くは誰が夫」
(大和の方へ帰って行くのは、どなたのお相手かしら。隠れ水のように忍んで通っては帰って行くのは、どなたのお相手かしら)
境内社の一つになぜか香椎神社がありました。
それと稲荷社はちょっと、不気味なオーラを放っていました。
トラクターの世界史という本を今読んでいますが、初期のトラクター開発者が岡山や山陰のたたら製鉄に関わる地域の方で、岡山の総社の鋳鉄を使ったそうです。岡山は長船の刀鍛冶がいたり、タタラと関わりが深そう。
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岡山にもタタラはあったそうです。
それも出雲に匹敵する砂鉄の産地のようでした。
地盤が堅牢で地震や災害も少ないそうですね。
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血洗滝の幽玄な美しさ、静謐さはとても神秘的ですね。血洗滝で一体何が起こったのか、本当の事は判らない。歴史は勝者によって改竄され、また後代の僭越者によって改竄される。何が実際に歴史において存在し得たのかは我々には結局理解不可能です🐥それにしても宗像三女神🦑こんな場所にもあったんですね。社の造りは割と立派なのに何故か見事な掘立て小屋感🐣祠もただ1つ美しい彫刻の祠以外は皆安普請で見事です流石です🦑
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戦前のことですら、本当に起きたことはもう僕らには分からないです。創作されたかもしれない、何かしらの情報を手がかりに妄想するしかないのが実情です。
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