愛媛県松山市の温泉郷「道後温泉」(どうごおんせん)。
その道後山山腹に鎮座する「伊佐爾波神社」(いさにわじんじゃ)を改めて参拝いたしました。
ずっしりとした石の階段。
この伊佐爾波神社の階段でひと汗かき、そして道後の湯に浸かるまでがワンセットではないかとさえ思えてきます。
階段の途中に鎮座の「素鵞社」では、「素盞之男命」(すさのおのみこと)と「稲田姫命」(くしなだひめのみこと)が祀られています。
稲田姫が嫁いだのはスサノオではなくもっと古い時代のお方、初代出雲王「菅之八耳」(すがのやつみみ)であるぞ、控えいっ!
と、いつもならうんちく垂れ流すのですが、階段途中の疲れも途中なので、「あ、ども、ちっす」 っと軽く挨拶を交わすのみとしておきます。
もう温泉に浸かるまでもなく、汗の湯にどっぷり浸かった”てい”の僕の目の前に、見事な社殿が現れました。
ああ、風が気持ちよい。
八幡造りの楼門は龍宮城のようだと、僕はいつも思って見てしまいます。
伊佐爾波神社の祭神は、「譽田別尊」(ほんだわけのみこと/応神天皇)、「足仲彦尊」(たらしなかつひこのみこと/仲哀天皇)、「氣長足姫尊」(おきながたらしひめのみこと/神功皇后)に、「三柱姫大神」として宗像三女神を祀ります。
神功皇后は仲哀天皇の后とされますが、実際は前代の成務帝(ワカタラシ大君)の后でした。成務帝の死後、皇后は大分中津の中津彦に三韓征伐(二韓征伐)の協力を仰ぎますが、拒否られてしまいました。ここ伊佐爾波神社には、「たらしなかつひこ」と正しい名前で祀られています。
最終的に神功皇后の支援者となったのは武内襲津彦(たけしうちそつひこ)であり、二人の不義密通によって皇子が儲けられました。
しかしこの皇子は7歳の時に夭折し、神功皇后は敦賀の氣比の宮で秘密裏に養子を迎えることになります。
その養子とは豊家の王、豊来入彦の子孫で上毛野(群馬県)国造家の竹葉瀬ノ君(たかはせのきみ)でした。
これらの情報は富家と、出石神社の元社家・神床家、そして宇佐家に同様の伝承として伝えられていました。
神功皇后は息長家で育った竹葉瀬ノ君をホムタ(応神)大君として即位させます。
上毛野ノ君家から、その話を聞いた宇佐八幡宮(宇佐神宮)家は喜び、それまで豊玉姫(ヒミコ)を祀っていた本殿の両横に社殿を建て、それぞれに応神天皇と神功皇后を加え祀ったということです。
伊佐爾波神社、回廊内北側に高良玉垂社 (こうらたまたれしゃ)が鎮座しています。
祭神は武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)となっていますが、真実は違うでしょう。
玉垂の大神とは玉(月)から霊水(変若水/をちみず)を垂れる神、つまり月讀神のこととなります。
さらに言うなら、変若水を受け取る巫女はその名の通り、越智家の巫女であろうことから、越智寄りの月神ということになります。
神功皇后・オキナガタラシ姫は「御陰ノ神」(宇佐ノ月神)を祀る家だったので宇佐八幡宮三ノ御殿に祀られたというのですが、辰韓(新羅)の王・天之日矛(あめのひぼこ)の子孫であるオキナガタラシ姫がなぜ月神を祭祀し、また豊家の皇子を養子に迎えることができたのか。
それは宇佐・豊家と繋がりが非常に深い越智家から、ヒボコ家もまた妃を貰い受けていたからではないか、と僕は推察するのです。
この伊佐爾波神社の本殿は国の重要文化財に指定されており、全国に3例しかない八幡造だといいます。
本殿は後殿・前殿の2棟の社殿が前後につながった形をとっており、後殿は祭神の夜の座所、前殿は昼の座所とされています。
寛文7年(1667年)に完成した新社殿は石清水八幡宮を模したとされており、宇佐八幡宮とあわせて3例のみの八幡造の所以となっています。
拝殿で身を屈め天井を見上げると、「湯月八幡宮」(ゆづきはちまんぐう)の扁額が掛けられています。
これは伊佐爾波神社の古い呼び名です。
月にまつわる癒しの湯・道後温泉は、変若水(をちみず)の湯だったのではないでしょうか。
伊佐爾波神社の祭神「三柱姫大神」の正体とは、豊玉姫か、あるいは玉依姫であった可能性が高いと思うのです。
道後温泉を見下ろす冠山の上に、
「湯神社」があります。
主祭神は「大己貴命」(おおなむちのみこと)と「少彦名命」(すくなびこなのみこと)。
相殿神に出雲崗神社(いずものおかじんじゃ)祭神として「素盞嗚命」 と「稻田姫命」を祀ります。
現社地の冠山はかつて出雲崗と呼ばれており、孝霊天皇の創建と伝えられる出雲崗神社に素盞嗚・稲田姫・大山積・茅野姫の四柱の神を祀っていたため、四所大明神とも称していました。
湯神社は、景行天皇が皇后・八坂入姫命とともに当地に行幸した際、道後温泉の守護神として、鷺谷の大禅寺の前に創建されたと伝えられています。
当時は湯月大明神と呼ばれていました。
また同じく湯月大明神と呼ばれていた伊佐爾波神社の西にあるため「西宮」とも称されています。
さて、ここに謎があります。あのMr.物部とも言える景行帝が、抵抗する土雲族の巫女戸畔に、恭順して子種を受けるか拒否して死を賜るかを迫る、そんな徹頭徹尾物部な景行帝が、果たして出雲の大国主・事代主を当地に祀ったであろうか、ということです。
いや、決してない。
僕は妃の八坂入姫にヒントがあるのではないか、と考えます。八坂といえばスサノオ系の八坂神社を思い浮かべますが、「八」は出雲の聖数であって、スサノオ・徐福なら「七坂」になるはずです。
「八坂」とは出雲系の血も受けた越智家に関する名称ではないでしょうか。そうすれば当社が湯”月”大明神であっても矛盾しません。
諏訪の八坂刀売媛(やさかとめひめ)も越智ではないかと僕が考える理由の一つがそこにあります。
そして湯神社の祭神が「大国主」と「事代主」ではなく、「大己貴」と「少彦名」であることも重要です。
当社の三穂社では、別に事代主命が祀られています。
四国では一見して出雲と関係のないような社名の神社で、大己貴を祭神とするところが結構多くあります。
大己貴とは「大名持」のこと。越智族にはひょっとして出雲王家と同じように主王と副王の二王政があったのかも知れない、と思うのです。
この階段の後の道後温泉素敵です!!
竜宮城の様な美しい所は、やはり登ったものにしか見ることのできない場所なのでしょうね。
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階段を登り切ったところを振り返ると、その先に見えるのが道後駅と商店街です。右手に300mほど歩くと道後温泉が見えてきます。道後の湯はさっぱりとしたお湯ってかんじです。酸味もアルカリも硫黄臭もない、地熱の湯だそうです。数々の文豪を虜にした湯ですが、残念なことにあと3年ほど、かの歴史的建物は修復中です。3年後にあらためて訪れたいですね♪
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