大濱八幡大神社”越智氏考”:白姫 07

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愛媛県今治市大濱町、僕はついに越智族の本拠地へと足を運ぶのでした。

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四国の西北端に、美しいしまなみ海道を望む大濱漁港があります。

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海に面して鳥居が立ち、民家の間にある参道を歩いていくと

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潮風香る「大濱八幡大神社」 (おおはまはちまんだいじんじゃ)が鎮座しています。

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境内で僕を出迎えてくれたのは、ここの主祭神である「乎致命」(おちのみこと)の石像。

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その下に文字が彫られています。

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見れば越智氏族の系図となっていました。
なるほど、越智家は饒速日の末裔だと、やはりそうきますか。
この系図は「大濱八幡大神社神裔氏族誌」によるものとあります。

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また河野氏(旧姓越智氏)の『水里玄義』(すいりげんぎ)という家伝書に、「越智姓が饒速日を祖とする一方で、徐福を祖とする伝もある」という記事があるのだという話を先輩に教えていただきました。
富家伝承によれば、饒速日とは佐賀に上陸した徐福の別名と伝えられていますので、いわゆる越智家は物部族の末裔であると、これらのものは主張していると言えるのです。
ちなみに出雲に上陸した際に徐福が名乗った名前は火明(ほあかり)です。

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大濱八幡大神社は相殿に、「饒速日命」(にぎはやひのみこと)「天道日女命」(あまじひめのみこと)「仲哀天皇」「応神天皇」「神功皇后」「武内宿禰」「市杵島姫命」「大穴牟遅命」を祀っています。
あまり聞き馴れぬ「天道日女命」は記紀に記載がなく、『先代旧事本紀』に「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)の后で「天香語山命」(あめのかごやまのみこと)の母であると記されています。
この
徐福全部盛りの神に嫁いで香語山=五十猛王を儲けた女性とは、郷戸家・八千矛(大国主)と宗像家・多岐津姫の間に生まれた「高照姫」となります。
つまり饒速日も火明も徐福のことですが、饒速日に嫁いだのは高照姫ではなく宗像家の市杵島姫でなくてはなりません。
一応、相殿には市杵島姫も祀られていますが、並び順からいっても、本来当地は、物部よりも海部・尾張系の勢力が強かった可能性があります。

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大濱八幡大神社は創建は不詳としながらも、上古に遡って乎致命の九代孫にあたる「乎致足尼高縄」が創建したと伝えており、応神天皇の時代に「王濱宮」と称したと云います。
859年(貞観元年)には宇佐八幡宮より八幡神を勧請し大濱八幡宮と改められました。

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さて、ここからは僕の個人的な考察なのですが、『予章記』他、大三島の大山祇神社本社の伝承も含め、越智家に関するものは矛盾点が多すぎるように思われます。
富家伝承によれば、摂津三島家の溝杙姫(みぞくいひめ)が東出雲王家8代目少名彦・八重波津身(事代主)に嫁いでおり、この摂津三島家の大元が伊予三島家(大三島・大山祇神社)であるとすれば、物部系の饒速日では時代が遅く、合わないことになります。
摂津三島が元で伊予三島に派生したとする考えもありますが、これも饒速日が関与する隙はありません。

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つまりここに伝わる祖神饒速日説は、九州から後に移住してきた物部族による上書きの伝承である可能性が高いと思われます。
物部族は2度の東征で四国に立ち寄っていますので、そこでそのまま定住した者も少なからずおり、徐々に四国に勢力を広げたのではないかと考えられます。

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僕が摂津三島家の大元が伊予三島家であると考えるに至った理由は、越智家が各王家に后を出した家ではないかと考えるようになったからです。
そもそもの発端は、宇佐家伝承に、ヤマタイ国のヒミコである宇佐・豊玉姫の息子「豊彦」の后が越智宿禰の娘「常世織姫」(とこよおりひめ)であると記されていたことにあります。
宇佐家伝承では豊家がすでに夫子ある常世織姫を拉致して奪ったように伝えられていますが、豊彦から竹葉瀬ノ君(応神帝)の流れを追っていくと、越智家も密接に追従している形跡があり、争っていた様子を窺うことはできません。この「拉致した」云々の話は日尾八幡神社に伝わる夫婦の御神体の悲劇が重ね合わされた誤説ではなかろうかと思われます。

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豊家が宇佐家と呼ばれていた古くから、越智家との両家は実に一心同体のような関係であったと思われる痕跡が、日本各地に見られます。
さらに大三島・大山祇神社がクナト王を祀っていたであろうこと、富家伝承における四国は古くから出雲領であったことを踏まえると、伊予三島家、摂津三島家も出雲から移住した一族がいたことが窺い知れます。徳島の大麻山が朝山であること、金比羅宮の祭神が大物主(事代主)であることを見てもそれは確信し得るものです。
このことから、四国にいたという越智族は「オロチ族」が由来ではないかとも考えています。実際、四国にある神社の祭神にオオナムチを祀っているところは少なくありませんが、これは大国主を祀っているのではなく、四国にも大名持・少名彦の二王政があった名残ではないかと思うのです。

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では越智族とは、出雲から更に温暖な地を求めて南下したドラヴィダ族だったのか。その可能性は高いと僕は考えます。そうであれば、古くから四国が出雲領であったという話の理屈も合います。
しかしさらに、越智族の根幹となる古い古い古代氏族が四国にはいたのではないかとも考えるようになりました。
ドラヴィダ族が四国に渡るよりもさらに古い時代から四国にいた越智族の根幹となる者たち、便宜上これを真祖越智族としますが、アッシリアに追われて北王国からひっそりと逃れ、極東の島国に定住した民族がいたのではないか。故に自ら表に立つことを控え、原住民と同化し、しかし自らの根幹を失うことのない一族。そして各王家と姻戚を結ぶことでこの国を影から支えた一族。それが真の越智族ではなかろうかと思うのです。

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四国には元諏訪を主張する神社が存在し、紀伊半島を越えた先の愛知(オチ)県には豊川・豊橋・豊田があり、その先に天竜川がそそぎ、川を遡ると阿智村を経て諏訪湖に至ります。阿智村の阿智神社祭神はオモイカネ、古事記に「常世思金神」と書かれる神です。
越智家を探っていくと、白水・白山・白嶽・白川など、白をシンボルとしていることが知られます。天日矛(あめのひぼこ)の伝承にアカル姫の話がありますが、アカル姫を祀る神社が大阪・岡山・福岡筑紫・そして大分の姫島に鎮座しており、アカル姫は白い石が変化したものだと云われています。ヒボコと出石神社に伝わる后・麻多島との子孫には、田道間守(たじまもり)をはじめタジマがつく名が連なりますが、そこになぜか系統の違う息長家のタラシ姫(神功皇后)が登場します。完全に仮定の話ですが、ヒボコに越智家の姫としてアカル姫が嫁いでおり、その子孫が息長タラシ姫であったなら、彼女が月神を祭祀し、竹葉瀬ノ君を養子に迎え入れられたということにも納得がいきます。息長という氏族名も、変若(ヲチ)と連想させるのです。

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摂津三島家が越智家の血筋であるとするなら大和王朝初期にもその血が流れており、先述の件から豊家、ヒボコ家、諏訪家にも越智の血が受け継がれている可能性が見えてきます。
おそらく海部・物部両家とも姻戚を結んでいたのではないでしょうか。これらのことが、越智家は各王家に后を出した家であったと僕が考えるに至った所以となります。
そして日本には古来、不老長寿の妙薬があるのだと大陸に伝わっていました。徐福らが求めたそれとは、越智族に伝わっていた変若水(をちみず)の事だったのではないかとも思うのです。

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宇佐家伝承には宇佐族は「サルタ族が出雲に来た」ことを知っていたという記述があります。
このことについては、なかひらまい著『名草戸畔 古代紀国の女王伝説』について「れんげ」さんと考察を交わした時に、当初九州にはインドネシア系の渡海系民族が定住しており、そこに出雲族がやってきて海洋系宗像族や宇佐族の基盤ができた、さらに秦族がやってきて宇佐族が誕生したのであれば時間軸としての辻褄は合うのではないかと話がまとまりました。
ただ僕は少しだけ、この考察に違和感を抱いてもいました。果たしてインドネシア系の渡海系原始民族が、「サルタ族が出雲に来た」と明確な情報を後世に伝えれたのかということです。ここにより高度な知的文化を持っていた越智族がいた可能性を、僕は最近考えるようになりました。そのきっかけは、九州王朝説派のダンブルドア先生との邂逅にあります。

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九州王朝説、阿波王朝説はもちろん僕の支持するところではありませんが、それらを主張するに足る、強大でありながら実像が見えにくい勢力が本州南部から四国・九州にあった痕跡が朧げながらに見えてきました。
それは「白」を纏い「月の霊水」を担う一族。
江戸時代まで天皇の代替わりに儀式を行ったとされる白川伯王家も、その名は霊峰・白山の麓にある白川郷とも無関係ではないように感じられ、背後に越智族の気配を感じ取るのです。

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大濱八幡大神社から池を隔てた対面に、

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越智氏族発祥之地碑があります。
この記念すべき石碑を、もっと分かりやすい場所に置けば良いのにと思いましたが、何故かそれは分かりにくい。

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階段の真下まで来て、ようやくその文字が見えました。

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この越智氏族発祥というのは、先の石像にあった饒速日・徐福系の「乎致命」(おちのみこと)を始祖とするという意味でしょうから、個人的には「物部系越智族」発祥の地としておきます。
真祖越智族発祥は別にあると思われます。それは高知か徳島か。

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越智族のことは本当によく分かっておりませんし、複雑で謎も多いため、あくまで僕個人の見解です。
ただ、親魏和国の女王・豊玉姫の威光が及ぶ東征期までは物部族は当地で大きな顔ができたとも思えず、饒速日を越智族の祖と位置づけたのは、第二次物部東征によって物部・大和王朝が確立された後のことであろうと考えています。

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また当社は、境内摂社に杵築神社、境外摂社に美保神社・楠神社・杵築神社と出雲系摂社群を擁していることも違和感を抱かせます。
越智族が物部系であるなら、このような出雲系神社を祀るとは思えないからです。

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やはり越智族にはドラヴィダ系の血が流れているのではないか。越智族の名の由来はオロチ族ではないかと考える所以でもあります。
しかしその越智族も出雲系越智族であると言えます。
更に深淵に、真祖越智族と呼ぶに相応しい血脈が隠されているのではないか。

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複雑な月齢を読み、徐福が求めた変若水を有し、白をシンボルとする一族。
僕の抱く歴史的疑問として、なぜ日本は今も日本であり続けられているのかというものがあります。玄海の海が険しいのだとしても、隣国にこれまで征服されなかったのは何故か。大挙して押し寄せた渡来人は何故、みな帰化して和人となったのか。
古来日本には、他国の者が神聖にして侵すことのできない強大な何かがあったのではなでしょうか。ひょっとするとそれは北王国から逃れ、歴史に表立つことを禁忌とした一族の末裔たちなのではないのかと、かすかに僕は妄想するのです。

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大濱八幡大神社の境内摂社の「潮富貴神社」(しおふきじんじゃ)には祓戸の神が祀られています。
その中で著名な瀬織津姫(せおりつひめ)、その神の正体は越智の姫君にして豊玉姫の息子・豊彦(ウガヤフキアエズ)に嫁いだ「常世織姫」(とこよおりひめ)であろうと僕は考えます。

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常世とは月の変若水で満たされた冥界。
神が背負った穢れを浄化するのが変若水。
白山に祀られる菊理姫は常世と現世の境界を取り持つ女神。
太陽神の代替わりを担った常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)。
天皇の代替わりを担った白川伯王家。
こうしたキーワードが、ここに来て一つに繋がり始めたのでした。

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最後に、ここ大濱八幡大神社に立つ石像がもう一体あります。
それはなぜか伊藤博文公の石像。

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なるほど、そういうことです。

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6件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    越智 小市 高市 古市 越
    越ノ八俣大蛇 九頭竜 
    福井市八俣 越智山 南越前河野村 白山 泰澄 十一面観音  

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      越智のキーワード、ありがとうございます。
      当初、越家の大元は何処だろうと考えていましたが、越智族を知ってそうなのではないかと考えています。
      しかし富家の伝承で越智家は一言も語られていないのが、僕の説の大きな瑕疵です。
      越智のキーワードは、まだまだたくさん出てきそうですね。

      いいね

  2. さいとうよしみ より:

    おはようございます。コメントありがとうございます。
    今治の土地にも関心を寄せて頂き、縁ある者の一人として感謝申します。
    残りの人生の後半戦の時間は、東国の歴史の中の姫神の足跡を辿る事に使っております。平将門公も瀬織津姫大神を奉斎していた物証も、そんな旅路の途中で巡り会えました。
    『越智』の視点で東国を見直して見ますね。千葉妙見、相馬、東国三社、香取海、四方拝……日高見、中臣祝詞…。
    分からないことばかりです。

    いいね: 1人

  3. さいとうよしみ より:

    ごめんなさい。
    もう一言だけお許し下さい。
    祓戸の禊ぎの姫大神。以前は出雲族の姫巫女の系譜と判断しておりましたが、最近は古代出雲族入植以前に、そのルーツ起源を遡る判断も必要ではなかろうか……?と漠然と感じおる次第です。
    お気に障りましたらお許し下さい。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      祓戸の四神の名は、いくつかの古代氏族に由来を感じさせますが、その主たる瀬織津姫の正体は越智の常世織姫で間違いないかと思われます。月の変若水で神を禊ぐ巫女がいたと云われており、それは豊族の末裔だろうと考察しておりましたが、むしろ越智族の血を濃く引いていたのだろうと今では考えています。そうして九州・四国をはじめとした越智族の痕跡を探っていくと、やはり出雲より古いルーツを感じることが多々あります。

      いいね

  4. さいとうよしみ より:

    こんばんは。
    CHIRICO様の旅路の途中のお考えを伺えました。
    万葉歌人高市黒人(尾張國愛智郡作良郷、年魚市潟)にも辿り着けました。新しい学びになりました。
    ありがとうございました。

    いいね: 1人

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