古事記・日本書紀ではもう満足できないあなたへ 〜富王家伝承考察への誘い

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約700万年前にアフリカに誕生した人類の祖先は、6万年前アフリカを旅立ち、4・3万年前に日本に到達したと云われています。
そこから縄文期・弥生期を経て、今の「日本人」の礎が築かれていくわけですが、その過程で様々な渡来人の移住が行われており、今の僕らの遺伝子はむしろ、4万年前に到達した人類のそれよりも、のちの渡来人の影響の方が大きいと云うことです。

多くの外国人が憧れる日本。

彼らは日本の情景はもとより、質素で勤勉、労を惜しまず質にこだわり、自分に厳しく人に優しい「日本人」そのものに、好意を抱いてくれています。
日本人たる私たちのDNAはどこから生まれたのか。
私たちの根源を記すという「古事記」や「日本書紀」、はたまた「ホツマツタヱ」や「竹内文書」といった古史古伝においても、それに答えてはくれていませんでした。

そんな神代・古代の迷路に迷い込んでいた時、僕は一冊の本と出会いました。
斎木雲州著「出雲と蘇我王国」です。
そこには、神と呼ばれた人たちの、生々しい歴史が記されていました。

-伝承の日本史-

表題にはそう書かれています。

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斎木雲州氏の著書は、「大元出版」という出版会社が製作しています。
その大元出版から発売された「出雲と大和のあけぼの」という本は、氏が、各地の古老の伝承をまとめ、真の古代史を発見するという内容になっています。
しかしその根幹は、氏が受け継いだ、古代出雲王家の伝承・口伝が元となっていました。
僕は幸運にも目を通す機会を得られましたが、本書は残念ながら絶版となっており、入手がかなり困難になっています。

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僕が最初に手にした、大元出版・斎木雲州氏の著書が「出雲と蘇我王国」です。
本書にて初めて、氏が古代出雲王朝の東王家「富家」(向家)の伝える歴史の正当なる伝承者「富當雄」(とみまさお)氏の息子であることが告げられます。
當雄氏は死の間際、息子に「真実の出雲史を普及させてくれ」と遺言を残したそうです。
つまり、斎木雲州氏(もちろんペンネームですが)は、當雄氏が伝承してきた真に迫る古代史を受け継ぎ、それを世に広める責を負っているのです。

「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」の2書は互いに補完しあっており、これらを通じで正確に、富家の伝承を推し量ることができるのですが、本書のみでもかなり歴史の深淵に迫ることが可能です。

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2020年に発行された「上宮太子と法隆寺」は、「出雲と蘇我王国」に続く歴史、蘇我王朝からいわゆる聖徳太子の飛鳥時代に及ぶまでの話が記されています。

大元出版という会社自体も、當雄氏の息子である斎木雲州氏が立ち上げたものです。
そこには遺言を受け継ぎ、「真実の古代史を普及させたい」という氏の気持ちが現れているのです。

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大元出版の書は、斎木雲州氏の著書ばかりではありません。「勝友彦」氏の「魏志和国の都」は、「魏書」などの中国の歴史書に照らし合わせ、富王家の伝承が正しいことを立証しています。
本書は冷静かつ客観的で、富王家伝承を補完・理解する上で有用な一冊となっています。

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斎木雲州氏の「古事記と柿本人麿」という本は、古事記・そして日本書紀がどういった経緯で書かれたかについて記されています。
日本に限らず、歴史とは常に勝者によって記されてきました。
滅ぼし、滅ぼされたにも、時の事情があるものです。
しかし一部の人たちの浅い名誉を守るために、未だ偽りの歴史を、「神話」という作り話で押し付けることはあってはなりません。
麗しい日本人の「大和の心」が失われつつある昨今、私たちがどのように生まれ、育まれてきたのか、魂の根幹を知らなくてはならない時に来たのではないでしょうか。

僕は富家の伝承地に足を運び、拙くも考察を重ねてきました。
するとそこには世界中の人が憧れる、麗しき日本の姿が目に浮かんできたのです。
この素晴らしい日本の古代史の深淵を探る旅の記録を、下記にまとめさせていただきました。

記紀では満足できなくなったあなたに、御一見いただけますと幸いです。

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朗報!「出雲と大和のあけぼの」の改訂版ともいうべき「出雲王国とヤマト政権」が発売になりました!

ページ数は倍以上になり、内容は「あけぼの」に添いつつ、さらに深く、分かりやすくリライトしてあります。
誠実さのない古本屋に大金を払うより、大元出版さんにきちんと対価を支払いましょう!

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※富氏との会見でより多くの情報を得ました。それにより古い記事は修正するべき部分がいくつかございます。が、その編集校正にはしばらく時間がかかりそうです。大きな流れにおいては影響ないとは思います。ご了承くださいませ。

八雲ニ散ル花:序章

000     佐比売山
000.5 須我神社
001     出雲大社(杵築大社)前編
002     出雲大社(杵築大社)後編
002.5  出雲国造館
003     出雲井社
003.5 磐座
004     神魂伊能知奴志神社(命主社)・真名井の清水
005     出雲神奈備神社・伊怒神社
006     加賀の潜戸
007     佐太神社・田仲社

参)

伊豆能賣
韓釜神社
朝山神社
曽枳能夜神社
立虫神社・万九千神社
八千矛山大国主神社
神在月(神等去出祭)と出雲旅
赤岩神社
荒神
塩竈神社
女夫岩遺跡
恵曇神社

八雲ニ散ル花:黎明篇

008     美保神社
008.5 美保神社 末社めぐり 西編
008.6 美保神社 末社めぐり 東編
009     猪目洞窟 / 伊奈世波岐神社
009.5 御陵神社
010     黄泉比良坂 / 揖夜神社
011     粟嶋神社
011.5  静之窟
012     富神社
013     稲佐の浜
014     神魂神社
015     鳥屋神社
016     阿太加夜神社
017     宗形神社
018     三屋神社
019     阿須伎神社
019.5  都我利神社
020     五十猛神社
021     大屋姫命神社
021.5  海童神社(出雲)
021.6 船津神社
022     籠神社・真名井神社

参)

多鳩神社

八雲ニ散ル花:大和建国篇

023     鴨都波神社
024     葛城一言主神社
024.5  野口神社 / 長柄神社
025     高鴨神社
026     葛木御歳神社
026.5  多伎神社
027     鹽冶神社
028     御名方神社
029     蚊屋島神社
030     葛木坐火雷神社
031     天香久山
032     大神神社
033     大名持神社
033.5  三歳社 / 狼神社(出雲)
033.6  飛鳥坐神社

参)

熱田神宮
土佐神社
鳴無神社

筑秦ノ饒速日

001     島大國魂神社 / 阿麻氐留神社
002     浮盃
003     金立神社
003.5  武雄温泉 / 古湯温泉
004     櫛田神社と櫛田宮
005     海童神社
006     吉野ヶ里遺跡
007     新北神社
008     高良山(前篇)
009     高良山(中篇)
010     高良山(後篇)
011     海童神社群
012     海童神社(龍王社)

参)

蚕ノ社(木嶋坐天照御魂神社)
八坂神社
松尾大社
英彦山 高木神考:高住神社
春日神社・田川
鷹見神社

八雲ニ散ル花:和国大乱篇

034     村屋坐弥冨都比売神社
035     荒神谷遺跡 / 加茂岩倉遺跡
036     樂樂福神社
037     赤猪岩神社
038     西谷墳墓群
039     八咫烏神社


039.5  橿原神宮
040     大和神社
040.5  高天原
041     鳥見山霊時(等彌神社)
042     都萬神社
042.5  西都原古墳群
043     生目神社
044     鏡作坐天照御魂神社
044.5 射楯兵主神社
044.6 伊和神社

参)

橿原神宮「神武天皇御一代記御絵巻」に見る神武東征神話
糺ノ森(下鴨神社)
賀茂御祖神社(下鴨神社)
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
御蔭神社(賀茂御祖神社摂社)
岡田鴨神社

親魏和國ノ女王

000     埃宮
000.5  大頭神社
001     嚴島神社(満)
002     御山神社
003     嚴島神社(干)
004     宇佐神宮
005     行幸会 / 薦神社
006     行幸会 / 妻垣神社(足一騰宮)
007     行幸会 / 小山田神社
008     大元神社
009     行幸会 / 若宮八幡神社
010     行幸会 / 八幡奈多宮
010.5  箭山神社
011     行幸会 / 矢野八幡神社
012     月山神社

参)

金富神社
猪群山環状列石
宝厳

八雲ニ散ル花:出ズ芽篇

045     長浜神社
046     物部神社
047     小田神社
048     田和山遺跡
049     智伊神社
049.5  岡崎神社
050     久奈子神社
050.4 日原神社
050.5  若狭彦神社
051     磐船神社
052     往馬坐伊古麻都比古神社
053     熊野大社(出雲)
053.4 熊野大社 上の宮跡
053.5  劔神社
053.6  出雲阿国
054     野見宿禰神社・龍野神社
055     菅原天満宮
056     檜原神社
057     神谷太刀宮神社
058     椿大神社
058.5  宇倍神社
059     武内神社
060     神原神社
061     石上神宮
061.5 登美山鎮座宗像神社

斎王

000     白鬚神社
00.5    佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)
001     竹野神社・奈具神社・宇良神社
002     御杖神社・四社神社
003     二見興玉神社
003.5  御塩殿神社
004     伊勢神宮・外宮
005     別宮・月夜見宮
006     別宮・月讀宮
007     別宮・瀧原宮
008     別宮・伊雑宮
009     別宮・倭姫宮
009.5  田手神社
010     猿田彦神社
010.5  磯神社
011     斎宮跡
012     伊勢神宮・内宮
013     饗土橋姫神社
013.5  撞賢木厳御魂天疎向津姫命神社
014     箸墓古墳
015     粟皇子神社
016 多岐原神社
017 朽羅神社/牟弥乃神社・御船神社/清野井庭神社/川原神社
018 神服織機殿神社/神麻続機殿神社
018.5 神宮の和妙と荒妙
019 櫛田神社
020 伊佐和神社
021 御塩浜
022 松下社
023 天の岩戸(恵利原の水穴)
024 伊雑宮事件
025 伊射波神社
026 阿児町の夫婦石
027 朝熊神社・朝熊御前神社・鏡宮神社
028 皇女の森
029 阿射加神社
030 度会大国玉比賣神社・伊我理・井中神社
031 茜社・豊川茜稲荷神社
031.5 伊勢サイノカミ
032 つぶて浦

神功皇后紀

001     忌宮神社
002     織幡神社
002.5  縫殿神社
003     国見岩
004     一宮神社
005     岡湊神社・高倉神社
006     古物神社
007     香椎宮「儺の橿日宮」
008     櫻井八幡宮
009     伊野天照皇大神宮
010     砥上岳
011     大己貴神社
012     荷持田村
013     美奈宜神社
014     味水御井神社
015     蜘蛛塚
016     香春岳
017     鏡神社
018     伊都の層々岐山(雷山)
018.5  神在神社
019     現人神社(住吉本津宮)
020     宮地嶽神社
021     志賀海神社
022     御島神社
023     神集島
024     邇耳神社
025     神住居神社
025.5  和多都美神社
026     胡簶神社
026.5  海神神社
027     慶州
028     能古島
029     風浪宮
029.5  筑前一之宮 住吉神社
030     宇美八幡宮
031     筥崎宮
032     大分八幡宮
033     風治八幡宮
034     篠崎八幡宮
035     住吉荒魂本宮
036     生田神社
037     住吉大社
038     逢坂
039     氣比神宮
040     磐余の若桜宮

参)

月読神社(松尾大社摂社)
月讀神社(壱岐)
神石神社
総社神社
男嶽神社
左京鼻
龍蛇神神社
住吉神社(壱岐)
天手長男神社
塞神社

神功皇后紀外伝:日矛伝

出石神社

八雲ニ散ル花:日出処國篇

062     河内大塚古墳・島ノ山古墳・比売久波神社
063     天宮山
064     三國神社
064.5  巨勢山口神社
064.6  岩戸山古墳
065     宗我座宗我都比古神社
066     意宇の杜
067     山辺神社
068     山辺赤人の墓
069     多坐弥志理都比古神社
070     談山神社
070.5 藤白神社
071     春日大社 前編
072     春日大社 後編
073     鬼の俎・鬼の雪隠・猿石
074     益田岩船
075     亀石
075.5  酒船石・亀形石造物
076     生石神社
077     本明寺(石川精舎)
078     橘寺
079     四天王寺
080     石舞台古墳
081     鵲森宮 (森之宮神社)
081.5  玉造稲荷神社
082     飛鳥寺
083     久米寺
084     法隆寺
085     叡福寺
終      日御碕神社

八雲ニ散ル花:番外

諸手船神事
大神山神社
氣多本宮:能登生国玉比古神社
氣多大社
琴引山
大瀧神社・岡太神社
多賀大社
胡宮神社 前編
胡宮神社 後編/調宮神社
大瀧神社
山田神社
交野天神社・末社貴船神社
大山祇神社
伊弉冊の岩柵

八雲ニ散ル花:天智伝

001     水城
002     大野城跡
003     金田城

八雲ニ散ル花:東ノ国篇

001     伊古奈比咩命神社
002     月間神社
003     石室神社
004     来宮神社・伊豆山神社
005     前玉神社
006     鷲宮神社
007     姉埼神社
008     船橋大神宮(意富比神社)
009     静神社
010     鹿島神宮
010.5  枚岡神社
011     香取神宮
012     大戸神社 / 側高神社/ 沼尾神社 / 坂戸神社
013     息栖神社
014     大洗磯前神社
015     酒列磯前神社
016     大甕倭文神社
017     御岩神社 前編
018     御岩神社 後編

八雲ニ散ル花:木ノ国篇

001     大屋都姫神社
002     伊太祁曽神社
003     花の窟神社
003.5  産田神社
004     丹倉神社
005     竈山神社
006     日前神宮・國懸神宮
006.5  加太春日神社・木本八幡神社
007     熊野速玉大社
008     神倉神社
008.5  神内神社
009     熊野那智大社・飛瀧神社
010     大斎原
011     熊野本宮大社

012     筑紫神社
013     基山・荒穂神社
014     白木神社
015     猛島神社
016     稲佐神社
017     妻山神社

Special presents 石上・某磐座

八雲ニ散ル花:忌部番外篇

001     玉造・玉作湯神社
002     忌部神社
003     天太玉命神社
004     大麻比古神社
005     一目連神社(久留米)
006     八倉比賣神社
007     鳴神社
008     安房神社
009 忌部奥社 御所神社
010 種穂忌部神社
011 山崎忌部神社
012 多度大社

八雲ニ散ル花:海祇ノ比賣巫女篇


001     宗像大社 沖津宮(沖ノ島)
002     宗像大社 中津宮(筑前大島)
002.5  宗像大社 中津宮・七夕祭
003     宗像大社 辺津宮
003.3 上高宮
003.4 宗像大社 秋季大祭
003.5 宗像大社 高宮神奈備祭
003.6 皐月宮・浜宮
003.7 津加計志神社
003.9  鎮国寺
004     六嶽神社
005     楯崎神社
006     八女津媛神社
006.5  白兎神社
006.6  現人神社・風鈴
007     三女神社
008     赤司八幡宮
008.5 赤司八幡宮 竿例し

八雲ニ散ル花:出雲屋敷篇

001     山ノ神遺跡
002     笠山荒神社
003     穴師坐兵主神社
004     白石の神域
005     ダンノダイラ
006     奥垣内遺跡

007     三峯神社・前編
008     三峯神社・中編
009     三峯神社・後編

010     龗神神社(八大龗王辨財天大神)

参)

秩父神社・寳登山神社

八雲ニ散ル花:愛瀰詩ノ王篇

000     奴奈川神社
001     生島足島神社
002     武水別神社
003     雨境峠祭祀遺跡群

004     敢國神社
004.5 南宮大社
005     三島鴨神社
005.5  溝咋神社
006     三嶋大社
007     広瀬神社・三島神社
008     兵主大社
009     沙沙貴神社
009.5  観音正寺
010     舟津神社
011     足羽神社
012     布制神社
012.5  彌彦神社
012.6  湯神社(彌彦神社境外末社群
012.7  某神社(彌彦神社境外末社群)
013     伊佐須美神社
014     鳥海山・丸池様
015     宗任神社
016     寒川神社
016.5  有鹿神社
016.6  鈴鹿明神社

017     穂高神社
017.5  白嶽
017.6  白旗神社
018     筑摩神社・有明山神社・魏石鬼岩窟
019     鬼の釜古墳
020     仁科神明宮
020.5  一関 達谷窟
020.6  伝 阿弖利爲・母礼之塚

028     諏訪大社 上社本宮
029     足長神社
030     諏訪大社 上社前宮
031     御頭御社宮司総社(ミシャグチ社)
031.5  守屋神社
032     御座石神社
033     折橋子之社
034     鶏冠社
035     大祝邸跡
036     諏訪大社 下社春宮・秋宮

037     千鹿頭神社(松本)
038     千鹿頭神社(諏訪)

八雲ニ散ル花:荒覇吐篇

001     荒脛巾神社
002     丹内山神社・アラハバキ大神の巨石
003     氷川神社
004     母木神社
005     波波伎神社
006 堀谷アラハバキ神社

八雲ニ散ル花:八上恋歌篇

000     倭文神社
000.5  那讀佐神社
001     御井神社
002     白兎海岸
003     賣沼神社

八雲ニ散ル花:吉備王篇

001     吉備津彦神社
002     吉備津神社
002.5  鯉喰神社・楯築遺跡
003     吉備の中山
004     石上布都魂神社
005     血洗の滝
006     中山神社
007     鬼の差し上げ岩

八雲ニ散ル花: 特別付録

出雲王家と古代氏族 系図

89件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    初めてコメントさせていただきます。始まりは自分のルーツ探しからでした。何もわからないところから調べてここに行きつきました。わかりやすくとても感謝しています。旧姓からどこから分化した者であるかわかれば古代への贖罪の旅に出ようと思っています。今後も楽しみにしています。

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 より:

      こんにちは、ようこそ『偲フ花』へお越しくださいました。
      誰しもが、たくさんの命の紡ぎがあって、今この場所に立っています。それゆえに、自分のルーツを探す、ということに魅了されますね。
      古代史を研究される方の中には、自分は勝った側なので償いをしなければならない、とか、負けた側なので報復をしなければならない、と感じる人がいらっしゃることがあります。大国では負けた側の王家は一族郎党まで皆殺し、民は奴隷と、徹底的に血を消されてしまいます。しかし日本のこの狭い島国では大自然の脅威の中で生きていくため、いつまでも殺し合っているわけにはいかない事情がありました。なので、死んだとされる人でも、名を変えて実は生きていた、という話がたくさんあります。
      つまり、そうして勝った側も負けた側も、一つの家族となっていき、今の私たちは複雑な血の交わりで立っているわけです。

      何が言いたいのかというと、贖罪や報復の旅ではなく、感謝の旅を計画されたら、より素敵な旅となるのではないでしょうか。
      そんなヒントになる記事が『偲フ花』にございましたら、幸いです。

      いいね: 1人

  2. 縄文文明の残り香  より:

    ≪…魂の根幹を知らなくてはならない…≫で、数の言葉ヒフミヨ(1234)に想う・・
    「ヒフミヨイの歌」の精神で、数の言葉に触れるには、二冊の絵本で・・・
      「すうがくでせかいをみるの」
      「もろはのつるぎ」
     

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 より:

      縄文文明の残り香さん、コメントありがとうございます😊
      カタカムナですね。個人的にはカタカムナはファンタジーだと考えていますが、特定の人に幸福感を与える点では面白いと思っています。

      数ある古史古伝に対して、富家伝承が一線を画すのは、その整合性にあります。全国各地の伝承・由緒を調べてみても、限りなく矛盾を生じないのは、今のところ富家伝承をおいて他にないというのが、僕の実感するところです。

      いいね: 1人

  3. Pkmundo より:

    🌄❤️

    いいね: 2人

  4. 出雲人 より:

    CHIRITOさま
    初めまして。
    出雲地域に住むものです。

    ひょんなところから、出雲王家の伝承を伝える方に出会うことができ、
    その後、「出雲王国とヤマト政権」を読んで、本当に衝撃を受けました。
    CHIRITOさまがおっしゃるように、なぜ学者さんたちは無視するのでしょうね。。。

    私はこの地域の荒神様が特に大好きでして、かつての出雲人の気持ちになって日常的に手を合わせていただいています。
    また、たたら製鉄にも興味があり、今たたらばとして有名な奥出雲エリアだけでなく、雲南市北部のかつての大原郡あたりまで鉄の採取地であったと予想しています。
    松江市の大庭町が王庭だったように、大原郡=王原郡かもしれないなぁ、と妄想しております。

    これからも更新、楽しみにしております。
    いつもありがとうございます。
    取り急ぎ、御礼まで。

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    1. 五条 桐彦 より:

      出雲人さま、ご丁寧なコメントありがとうございます♪
      お会いになられたという出雲王家の伝承を伝える方とは、出雲にお住まいの方でしょうか。出会いとは本当に、ありがたいものですね。
      私は少ない休日を、惜しみなく旅に費やして来ましたが、日本という国は隅々まで、八百万の神々の美しさに満ちていると実感しています。今日までそうして残されたもの、また情緒というものは、出雲の古いご先祖様が、私たちに託されたのだろうと思います。

      どうぞこれからも、『偲フ花』をよろしくお願いします♪

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      1. 出雲人 より:

        早速のお返事ありがとうございます。

        伝承を教えてくださった方は松江におられる妖精のようなお方です。
        ここに詳しくは書けませんが、東王家の大切な場所をずっと守ってくださってます。
        いつかこちらにいらした際には機会あればご紹介いたしますね!

        五条さまのアクティブな活動には本当に尊敬しております。
        出雲地方で気になる場所などあれば、私が出向くことができますので、おっしゃってくださいませ!

        こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。

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        1. 五条 桐彦 より:

          出雲の伝承、聖域を今も伝え守ってくださる方がいらっしゃるのは、とても嬉しく心強いです!
          美保神社の青柴垣神事を見ようと3年前に計画したものの、コロナで流れてしまいました。日程が次合うのは2年後となりますが、それが私の1番の心残りです。
          青柴垣神事は別にしても、島根にはまだまだ行きたいところがたくさん残っています。本当にそのまま住みたいくらいです(笑)

          富先生とは3月末の頃にお電話でお話ししました。お歳召されて足が弱られたと聞いておりますが、お声は張りがあり、まだまだお元気の様子でした。大切な場所をお守りくださっている方がいらっしゃること、今度先生にお伝えしておきます。

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  5. 匿名 より:

    はじめまして、こんにちは
    大元出版の書籍以外に
    富家文書 出雲大社旧上官富家文書 富家文書:出雲大社旧上官 島根県古代文化センター編
    なるものがあります。
    五条氏は既に読んだことがあられると思われますので伺いたいのですが、
    富家文書と大元出版さんの書籍の内容は大凡同じなのでしょうか?
    これから当ブログにコメントを残しまくっていきますのでよろしくお願いします。

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    1. 五条 桐彦 より:

      こんにちは、偲フ花へようこそお越しくださいました。
      いただいたコメントがサイト内で迷子になっていたので、承認と返信が遅れましたこと、お詫び申し上げます。
      ご期待にお応えできず誠に恐縮なのですが、それらの資料を読んだことはありません。
      興味はあるのですが、私は地方住まいでなかなか容易に拝読できないでいます。また、拝見したところで、今の私の能力で正確に内容を理解できるかも疑問です。
      ただ私のスタイルとして、直接現地を訪れ、そこで感じ取るものを重視することでこのブログを書いております。それにはすでに大元出版で十分読みやすい本が世に出ておりますので、情報としては十分かと考えています。
      大元出版に在籍してはおりますが、何分にも末席に名を連ねる程度の者ですので、勉強不足な点はご容赦ください。

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  6. みかうば より:

    CHIRICO様。
    初めまして。いつも楽しく読ませていただいております。なかなか休みが取れず遠方まで行けないので、きれいな写真はそこを旅している気分にさせてくれます。
    私は1年ほど前に「なんで日本書紀や古事記には邪馬台国も卑弥呼も出てこないの?」という単純な疑問から軽い気持ちでネットで調べ始めたのですが、今ではどっぷり古代史にハマッてしまいました。昨年は三輪に行き、今年もすでに出雲に赴き神魂神社などを回ってきました。
    とりあえず様々な記録や伝承を縦に横に当てはめっていって検証しては、また新たな事項を当てはめていって、という作業をして何となく大まかな流れがつかめるようになってきました。
    特に富家の伝承は興味深く、時空の旅の柱にしており、偲フ花はそれを肉付けしてくれる貴重な内容を提供していただいています。
    現在、集めた事柄の再構築をしていると、どうにもつながらない事項が出てきました。富家伝承にある「クナト族が3千年以上前に渡来した」ことと「三内丸山に定住していた」ということです。
    ドラヴィタ人がシュメール人に追われた時期は2千500年~2千300年前頃と思われます。また三内丸山遺跡が栄えたのは約5千年前で、4千200年前頃には消滅しているみたいです。
    この点についてCHIRICO様はどのように解釈しておられるのでしょうか。ここがつながらないと前に進めなくなってしまいました。
    宇佐家の伝承も参考にしていますが、時代がとんでも年前なので、どのようにつなげていけばよいか試行錯誤している段階です。

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    1. 五条 桐彦 より:

      みかうば様、コメントありがとうございます♪
      なるほど、超古代的な時代の話になりますね。年数が合わないと。
      僕はこんなふうにブログを書いていて何ですが、年数にちょっと弱くてですね、そこが曖昧である欠点をもっています。富家の伝承も、他の古史古伝に比べれば遥かに信憑性の高い伝承ですが、やはり長い年月で揺れが生じているとも思われます。三内丸山には行ったことがないので、何ともいえませんが、ひょっとすると出雲族の遺跡ではないのかもしれませんね。僕は出雲族よりももっと遥か古い時代に日本に訪れて、高い文明を持っていた一族がいたのではないかと疑っています。それがちょっと超古代的な話になるんですよね。
      結局古代の歴史は確証なんて出てこないので、自分で辻褄を合わせて、こじつけていくしかないのかもしれません。回答にならず、もうしわけありません。

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      1. 匿名 より:

        富家文書は鎌倉時代以降の貴重な物です。出雲王家を租としていることが良く分かります。日本の古代史は、富家の歴史研究せねば真相に到達しないでしょう。

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        1. 五条 桐彦 より:

          一般的な古史古伝は、何かを正当化しようとするあまり、歴史を歪めて伝えてしまう傾向にあると思います。富家伝承は正しい歴史を残すという目的のためだけに伝えられており、故に非常に整合性があり、その点において他の古史古伝とは一線を画します。
          もちろん気の遠くなるほど長く伝えられて来た伝承ではありますので、一部に欠損もあるでしょうし、矛盾も完全にないわけではありません。しかし、これほど貴重で、奇跡的に残されてきた私たちの歴史を無視して、真相にたどり着くことは不可能です。
          それでも、富家伝承は一般的に、歴史研究家から無視、あるいは穿った目で見られることが非常に多いのが現状であり、誠に残念なことです。誤った歴史によって、利益を享受してきた人たちも少なくないのだと思われます。また私自身もそうですが、歴史研究家、特に古代史研究家は生涯を賭して自説を論じて来た人も多いので、それを否定する他者の説や意見を、なかなか受け入れられないという実情もやっかいなものです。

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  7. teraetomiko より:

    TOLAND VLOG というユーチューブチャンネルで、正統竹内文書から出雲王朝やニギハヤヒについて考察しておられます。ちょっと違う…と思う所もありますが、不明点が解消する所もありますので、差し出がましい事ながら一度ご覧になってはいかがでしょうか…。CHIRICOさんの検証や考察は彼等にも助けになるのでは、と思います。

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    1. CHIRICO より:

      teraetomiko様、コメントありがとうございます。
      古代史系のYouTubeチャンネルをいくつか拝見したことがあり、その中にTOLAND VLOGもございます。これらの内容はどうしても超古代史やスピリチュアル系に寄った印象が強く面白い部分もありますが正確性に欠ける印象が強いと感じております。ですので参考にする部分もございますが、基本的にはエンターテイメントとして楽しむに留めております。
      当チャンネルの出雲王朝に関する情報は吉田大洋著の「謎の出雲帝国」による内容となっておりますが、その著作は富家では否定的な立場をとっております。実際に謎の出雲帝国に目を通せば、矛盾点がかなり多くみられるものです。

      僕もかつて、いくつかのSNSを通じて富家伝承の検証や考察を説いたことがありましたが、古代史研究の世界は僕自身を含め異論に対しての器量が狭く、また闇も深いので現在は個人的に探求するに留めております。悲しいかな古代史の情報は、自らで選択したものでなければ受け入れられないのです。
      ちなみに正当竹内文書の竹内睦泰氏も吉田大洋も早世しており、そういった例はこの分野では決して少なくありません。

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  8. tomiko より:

    初めまして。少しずつ、とても興味深く読み進ませていただいています。大変貴重な情報を提供していただきありがとうございます。
    CHIRICOさまの 2019/12/1のコメントに心の底から同意いたします。
    現在インドにおりまして、以前からヒンディ語のアルファベットがあ、あー、い、いー、う、うー、え、えー、お、おう、ということに疑問を感じていました。クナト王のクナが北インドのウッタラカンド州にあったことがわかり、ちょうどアーリア人が攻めてきたBC1500頃に移動された、ということで時代の整合性もあります。Wikipediaによるとドラビダ族は南インドからスリランカ辺りにいる部族と書かれていますが、北部や中部にいたドラビダ族のうち、クナト王のように遠くを目指すリスクを負えない王国はアーリア人から逃げて南下したと思われます。その後、アーリア人によって作られるサンスクリット語にもインド先住民の言語であったドラビタ語は影響を与え、そしてそのサンスクリット語からヒンディ語が生まれたようです。日本語の語源もドラビタ語と言えるのかもしれません・・・。

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    1. CHIRICO より:

      tomiko様、ようこそ『偲フ花』へお越しくださいました。
      tomikoさんのおっしゃるように、日本語の語源にドラビダ語が与えた影響は大きいと思います。母音を基調としたあたたかで複雑な日本語は、近隣諸国をみても類を見ない稀有なものとなっています。
      南下したドラビダ族の子孫の方々もいらっしゃるのでしょうか。その人たちが今どのような民族になっているのか気になります。
      僕のコメントにも同意いただいて恐縮です。インドにいらっしゃるということですが、僕は日本を出ることができないと思いますので、何か面白いことがあればお教えいただけると幸いです。
      どうぞこれからも『偲フ花』をよろしくお願いします。

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      1. tomiko より:

        早速にお返事をありがとうございます。インド最古の先住民は35000年前に南アフリカから南インドに渡ってきた人達らしいので、今の南インドはその方たちと混じっているかもしれませんが、ドラビタ語であるタミル語を話す人口は6千万人、テルグ語を話す人口は7300万人で、日本と同じぐらいの人口がインド南部を中心に存在する、ということになるかもしれません。タミル語族もテルグ語族もインド全土に及ぶ各州知事や大統領をはじめ影響力のある人を数多く輩出しています。 もしよろしければ List of Tamil people, List of Telugu people で検索いただければと存じます。こちらこそよろしくお願いします。

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        1. CHIRICO より:

          List of Tamil people, List of Telugu people
          今は翻訳機能もあるので便利ですね。なるほど、すごい方々がいらっしゃるものです。
          タミル語・テルグ語圏の人たちと日本人の交流が深まれば、何か良い流れが見えてきそうですね。

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    2. 匿名 より:

      日本語のあいうえおは、仏教伝来とともに入ってきた梵語(サンスクリット)の文法の影響をうけて整備されたので、インドのほうがオリジナルだと思います。

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      1. 五条 桐彦 より:

        梵語も五十音のような並びになっているのでしょうか。

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  9. kunato38 より:

    こんにちは。
    初めてコメントさせていただきます。美しい文章にため息をつきながら拝見しています。

    王家の方とお会いになったという貴重なご経験、羨ましく思います。私も大元出版の書に出会ってから、自分なりに神話を集め創作活動を行っていますが、まだまだ知識が足りず、ブログでは古事記エンターテイメント的な記事にしています。

    王家の伝承に関することは書きためているので、いつか自信を持って語れるようになりたいです。先を歩いておられるCHIRICOさんを目標に、頑張っていきます。これからも楽しみに読ませていただきますね。

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    1. CHIRICO より:

      kunato様、こんにちは♪
      コメントありがとうございます。
      HNから富家のお話はご存知の方だと思っておりました。
      出雲を旅する上でとても魅力的なブログを運営されており、僕も度々参考にさせていただいておりました。
      富氏とは昨年の10月に貴重なご縁をいただき、僕自身が驚いています。まだまだご壮健でいらっしゃいますが、今年で87歳になられるとのことです。

      出雲もまだまだ訪ねたい場所がたくさん残っています。いつか青柴垣神事に行きたいと心から願っています😊

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  10. 8まん より:

    ここは激アツですな(笑)小角さん。役小角さんの名前由来ですかな?ヤタガラスの一人とも言われてたんでしたっけ?
    今の時代に至るまでに、敗者の記録や記憶は焚書したり口にすることさら許されなかったり、それでも祖先を思う敬意から、ある程度脚色されながらも
    今に伝わる事柄は子孫の中に残されてきたのでしょう。
    古き時代の始祖のこと。神に祀られるほどになった人に。それは信じるも信じないのも貴方次第の世界。
    ロマンを追うのには全てを受け入れて自分の中で整理し形を成す。そうあって下さいませ。その方が面白いじゃありませんか?
    とブツブツと語って去っていく。(笑)

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    1. CHIRICO より:

      小角さんはあれ以来コメントを残されておりませんが、興味をなくされたのかもしれません。
      口伝・古書は100%正確に伝わったものなどあろうはずもなく、多少なりと改竄されているものです。
      しかしながらそのより正確さという点で、訳のわからない他の古史古伝とは一線を画すものと、富家伝承を元に各地を訪ね歩いて確信しています。
      まあ、受け取り方はひとそれぞれ、僕も僕自身の説を誰かに押し付けるものではなく、だらだらと垂れ流しているに過ぎません。
      ただ今回執筆という経験を経て、本を書き上げるということがいかに重責かということを知りました。
      全ての著者に敬意を表します。

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  11. 小角 より:

    初代の富まさおが生前、歴史本を出版したとのことですが、それならなぜ息子の斉木はそれを復刻しないの? まさか持ってない? まずそこから復刻すべきなんじゃないの? 今時紙の本でなくとも、電子出版でいくらでもやれます。本当に真実の歴史を残したいなら、そうすべきでは? 斉木、見ているのなら答えてみよ。なぜオヤジの著作でなく、手前の自説から展開するのだ?

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    1. CHIRICO より:

      小角様、まずは富神社のこと、ありがとうございます。
      数年前の写真ですので、帰宅後アーカイブを覗いてみます。
      富神社の文字が浮かび上がると嬉しいのですが。

      私は富氏、いわゆる斎木雲州氏と、幸運なことに昨年10月から面識をいただいており、いくつかお答えすることができると思います。
      斎木雲州氏が富豪とのことですが、私はその情報を知りませんでした。出版社を立ち上げるくらいなので、それなりに資産はあるのでしょうが、見た感じは普通のおじいちゃんです。
      出版社があるという住所もこっそり訪ねてみましたが、そこは立派な会社があるような場所ではありませんでした。
      つまり、大元出版はおっしゃる通り、零細家業そのものなのだと思います。
      氏は今年87歳で、昨年まではご自分の足で歩いておられましたが、今年お会いすると杖をついてありました。
      実は氏から本を書いてみないか、と勧められており、その原稿を送ったところです。
      氏とのやりとりは電話か手紙です。
      メールは使われません。
      原稿はテキストデータでお渡ししましたが、写真は印画紙でと言われました。
      そのような感じなので、電子出版などは全く考えておられないのだと思います。

      大元出版の書籍の内容ですが、私は最初、全てが伝承されたものだと思っていましたが、そうではなさそうです。
      そもそも歴史の全てを余すことなく伝える伝承などあるはずもなく、全ては不完全なものです。
      斎木雲州氏は富家の伝承に加え、ご自身で調べ上げた情報や、他の旧家の伝承や情報をもとに、それらの本を書き上げておられます。
      ただ、それを知って私は、斎木雲州氏にさらに深い敬意をいだくようになりました。
      どれだけの旅を、どれだけの探求を行えば、あれほどの本を書けるのか、と。

      おそらく正当な富家の伝承を継承して来たのは、富当雄氏が最後で、斎木雲州氏は本来の手順を経て伝承を継承していないのだと思われます。
      しかし元SONYの重役でAIBOの生みの親である天外伺朗様が斎木雲州氏を頼って今、出雲で鎮魂の宴を開催されています。
      そこには他の出雲族の末裔の方も関わっているようで、氏が富家の現当主であることはその方も認めてあるようでした。
      また西王家の神門家(郷戸家)の末裔の方の話や、出雲サンカの子孫と思われる方の話を伺っても、ほぼ斎木雲州氏の話と内容が合致します。
      斎木雲州氏は富当雄氏が書かれた本は、持っていらっしゃらないのでしょうね。もしチャンスがあれば、聞いてみます。
      古代の話は、胡散臭いと言えば全てが胡散臭いと思えて来ます。しばらくFBの古代史グループにも参加していましたが、そのような感じですぐに離れてしまいました。
      とりあえず自分ができること、納得がいく方法は、現地を訪ね歩きまくることだと思っています。
      ときには偽書も参考にし、他説も参照し、そして全ての点をつないでいくと、今のところ一番納得がいくのは、やはり大元出版本の内容になるのです。
      それはあくまで私自身が納得するというだけのことで、他者に押し付けるものではありませんので、小角さんに何がなんでも手に取って欲しいとは願いませんし、氏や私を否定されても仕方のないことだと思います。
      何分にも、私自身、単なる地方の美容師にすぎず、古代の専門知識にこと欠いているのは自覚しております。

      とりあえず富神社のお礼も兼ねて、お答えできそうなことは書いてみましたが、いかがでしょうか。
      他にもご質問などございましたら、またコメントください。
      そして面白い情報などもございましたら、ぜひともお教えいただけると嬉しいです。

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  12. 小角 より:

    偽書もおもしろいです。かつては津軽外三郡誌、または古田武彦。偽書ではなく正統派学者だった江上波夫の騎馬民族説。たとえ間違っていようが何だろうが、書き手には書く理由があったのでしょうね。
    申し訳ありませんが、このサイトから得た情報を元に斉木雲州を考えますと、うさんくさいとしかいえません。
    まず、斉木の目的が本当に正しい歴史を伝えることであるならば、その媒体は紙の本でなくとも、絶版などないキンドル、アマゾンパブリッシングのほうが適切です。それをしないのは身バレするから?
    また、斉木は富豪とのことですが、大元出版の壮丁って、零細家業の匂いプンプン。自分で描いた? 金があるなら、あれはないはずです。それに売れているなら重版すればいいだけで、なんで高値を煽るのか。おかしいですよね?
    さらに、斉木は西郷隆盛に関する著作もだしていますが、この人は覆面でなにが書きたいのだろうと思ってしまいます。

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  13. 小角 より:

    若狭彦神社。奥の院には富神社という表札がありました。往時、「謎の出雲帝国」を読んでも眉唾でしたが、これをもって信憑性のあるものと考えるようになりました。

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    1. CHIRICO より:

      小角様、こんにちは。コメントありがとうございます。
      若狭彦神社の元宮・白石神社までは行きましたが、奥の院があったとは気付きませんでした。
      富神社、興味深いですね。場所などの情報を教えていただけたら嬉しいです。
      若狭彦神社を建てたのは、出雲を攻撃した側の人達のようですので、何故そこに富神社があるのか気になります。

      ここにあげる神社は、僕が大元出版本を元に訪ね歩いた記録になります。
      実際に訪れてみて、その情報が理にかなっていることに驚きます。限りなく真実に近いのではないか、そう僕は考えています。
      ただ、謎の出雲帝国の内容は富氏も否定しておられ、私も目を通しましたが情報は正確ではないと思われます。できれば大元出版の書籍を参照されることをお勧めします。
      とは言え、古代を正確に知ることは不可能に限りなく近いことですので、まだまだ考証は必要ですね^^

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      1. 小角 より:

        そうでしたか。私も何分昔に訪ねた時の記憶を元にしています。あいすみません。あなたの書かれた若狭彦神社のコンテンツを基に書いていますが、上下は今は不明瞭な記憶です。画像で言うならあなたが掲載している上社の社門に富神社と明記されていました。元画像の明度を上げたら見えませんかね?
        当時は、息を飲みました。吉田大洋の本は読んでいましたが、私も含め多くの人が眉唾と感じたことでしょう。しかるに、上社言い換えれば奥の院の社門に富神社と表札されていることで、本当に富氏の勢力はあると実感したものでした。全国的には、富神社はあまり多くはなくて、あとは千葉県で見たくらいのものです。
        斉木本については、マサオの息子だということで、購読しようか迷っているのですが、なんか胡散臭いですな。ただの歴史に詳しい人が自称していたらどうします? 誰も知らないことだから何とでも書けますが、なんで物部が奥の院に富神社と表札するいわれがあるのか、その一事をもって疑念が生じたものです。

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  14. 蘇我正也 より:

    はじめまして。
    貴重な情報を提供くださりありがとうございます。
    昨日、「出雲と蘇我王国」の存在を知り、早速取り寄せしたところです。
    お蔭様で我が真実探求が進展します。

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    1. CHIRICO より:

      蘇我様、コメントありがとうございます♪
      お名前の「蘇我」ですが、富家によると越国の豪族で、祖を武内大田根(武内宿禰)としています。
      蘇我家と富家は婚姻関係を結んでいますので、蘇我様には出雲の血も濃く流れているのかもしれません。
      ちなみに聖徳太子時代の蘇我馬子は、本来の名を石川麻古といい、蘇我家の分家ではありますが別れて久しいので、その頃は別の氏族となっています。
      福井に蘇我氏の聖蹟が多数存在しています。

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      1. MASAYA_SOGA より:

        おはようございます。
        お返事頂きありがとうございます。
        その可能性はありますね。
        故 金井南流 氏の著書からも白山王朝と武内宿禰一族は因縁があるようです。具体に、同族の平群氏が裏切った(飛騨の方言で’へぐる=裏切る’)とも言及されています。

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        1. CHIRICO より:

          この辺りの系列が若干不明瞭なのですが、蘇我臣・紀臣・巨勢臣は神功皇后の三韓征伐で功のあった武内襲津彦と日向髪長姫の間に生まれた皇子がそれぞれ分家したもののようです。
          しかし平群臣は襲津彦の弟・若子の子・平群臣都久が始祖のようです。
          都久の子オオサザキ(仁徳帝)は応神帝の子を殺し、まんまと大王に就任しています。
          その後数代は平群王朝が続きますが、これに功績のあった父を持つ蘇我・紀・巨勢の勢力は不満を持ったそうです。
          平群王朝は荒れに荒れた時代だったそうですが、それに終止符を打ったのが26代継体帝とされるオホド大王です。
          オホドは東出雲王家・富家の次男太彦でしたが、蘇我氏の振姫のもとへ、婿養子になっています。

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  15. yshimatani より:

    ルーツ探しをしていてネット掲示板で神門臣家がルーツと指摘され
    9年前に産経新聞副編集長兼富家酋長の故・富當雄さん=斎木雲州さんの
    出雲と大和のあけぼのや出雲と蘇我大国抜粋して読みましたが
    神門臣家系譜は・・
    国常立→八島篠→布葉之文字巧為→八束水臣津野(だいだら法師)→赤衾伊努意保須美比古佐倭気→八千矛(大国主・大己貴・大穴持)→阿遅須枳高日子→鹽冶毘古能→速甕之多気佐波夜遅奴美→甕主彦→身櫓浪→遠津山崎帯→出雲(神門)振禰=倭健→伊賀曽熊→島津(志摩)国造家の島(直)氏=日本書紀の斯摩宿禰(=武内宿禰=先代旧事本紀の千熊長彦)・・
    杵築大社最後の司祭、神度剣(=十握剣・大量剣・天之羽々斬剣の事)を司祭の証とした出雲(神門)振禰が飯入禰と共に
    崇神天皇に殺害(実際は四道将軍の武渟川別に殺害されています)された時期で系譜が
    神門伊賀曽熊→嫡男の神門氏姓を継いだ健部氏、次男の二方国造、三男の島津(志摩)国造家の島(直)氏まで続きます。
    で宮津市の神社のサイトに和貴宮神社の神主のそもそもで
    南北朝期~戦国時代で無人化しあばら家化した神社の復古神道の基
    徳川家譜代で大坂城城代の阿部家の一族に京丹後国最古の古代氏族を探し出すように
    地元大名の京極高広公に依頼し鍛冶屋太兵衛さんが見つかり
    従六位嶋谷出雲守とし旧・分宮臣社神主に就任したとあり、その事をネット掲示板で聞くと・・
    何故、嶋谷としたのかは、播磨国に親類の島谷一族が居て同じ姓にしたそうです。
    京丹後国は元伊勢の前に元出雲で播磨国~京丹後国までを元出雲とし
    丹後国風土記の大国主と新羅王子の天日槍とで出雲国盗り合戦をし
    丹後国中心地を天日槍に奪われ播磨国と京丹後国に残った島谷一族が
    分断され土地を守り暮らして来た経緯で分断された一族だそうです。
    島谷氏は代々親氏族を島氏と伝えていて出雲時代の島氏だと、島津(志摩)国造家の島氏しか居ません。
    同じく島氏の子筋として百済から渡来した島族が南関東国造家の島族で百済経由の
    秦の始皇帝の弓月君と一族郎党の島津氏もこの南関東国造家の一族に加わります。
    弓月君と一族を救助した応神天皇家臣の斯摩宿禰・武内宿禰と葛城襲津彦親子の関係です。
    海人族としての島谷氏だと志摩(熊野)水軍の嶋衆になり、織田水軍や後の九鬼水軍に成った水軍です。
    志摩水軍発足時期前後でしょうか・・島谷氏は南朝に就いた足利尊氏嫡男の足利冬直の家臣の大河内氏の命で
    元寇の後に倭寇水軍編成を命じられ、地元松浦氏だけでは足りないので地元の漁夫や毛人とも交渉し
    松浦党結成に尽力し褒美に松浦氏武家として召し抱えられたのが、武家の島谷氏総家。
    先の嶋谷出雲守が島谷氏社家の現・丹後国二宮社家嶋谷家に成ります。

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    1. CHIRICO より:

      こんにちは、島谷様。(嶋谷様?)
      これはすごい情報をありがとうございます!
      まずこれは富さんから直接お聞きした話ですが、西出雲王家は神門臣家ではなく、「郷戸家」(神門家)だったそうです。
      「臣」とは本来、出雲王家と親戚関係を築いた臣下に付けられる称号で、王家にそれが付くのは間違いとのことです。
      これは穂日家が出雲王家を貶めるために流布したようです。
      初代の国常立とは初代王の「菅之八耳」の変名でしょう。
      以下、山崎帯王までは富家の伝承に伝えられていた通りです。
      山崎帯王以下の系譜は私の知らない情報です、ありがとうございます。
      私の作成している系図にも加えさせていただきたいと思います。

      郷戸家の最後の王宮は長浜神社だったと考えています。
      そこで振禰氏は果敢に戦い、亡くなられたのでしょう。
      彼を攻めたのは物部東征軍将軍の「朝倉彦」だったようです。
      飯入禰は富家の人間で、田和山神殿でヒボコの子孫、田道間守に殺されました。
      彼らの総司令は崇神の息子イクメ王(垂仁)でした。
      崇神は東征の前に九州で亡くなり、大和には来ていません。
      四道将軍というのは、物部に大和を追いやられた者たちのようで、武渟川別は大の出雲好きだった大彦の息子になります。
      かれが出雲王家に牙を剥くことは決してなかったでしょう。

      それにしても富家の伝承と多くの一致する部分があり、また多くの示唆に富んだ貴重な情報です。
      よくぞ調べられましたね。
      西出雲王家に関しては情報がとても少なく、十分な見識が得られていないところです。
      また何か情報がございましたら、ぜひご教授ください!

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  16. golch より:

     3年位前に出雲へ旅行する際に、旅行先情報として、偶々、大元出版の「山陰の名所旧跡-地元伝承をたずねてー」を手に取ったのを契機に、司馬遼太郎の随筆にあった大国主の話(T氏・W氏の話)を思い出し、「出雲と蘇我王国」を読み、それまで余り関心のなかった日本古代史に興味を持つようになった者で、ここで、コメントとして質問をするのも早いとは思いますが、一点だけ、どう考えたらいいかご意見をお聞かせください。
     大国主(八千矛)の時代以後、応神の時代に至るまでの説明の中で、大国主(八千矛)や事代主(八重波津身)が幽閉され実際上殺害されたのが「徐福」の時代(BC200年頃)だと想定し(想定1)、魏代の卑弥呼の時代(AD250年頃)に、崇神(イニエ)の意を継いだ垂仁(イクメ・イサチ)が大和に入り且つその頃出雲王国が滅んだと想定する(想定2)と、10~14代程度で450年が経過することになり、残念ながら、現実性がないと思われますが、この矛盾はどう避けたらいいとお考えですか?
     なお、10~14代程度というのは、天皇(大王)の系譜を「火明・饒速日(徐福)-五十猛(天香語山)-天(海)村雲ー綏靖ー・・・-開化(オオヒビ)-ヒコイマス(?)ーヒコミチウシ(?)ー垂仁(イクメ・イサチ)」として14代、出雲王家の系譜を8代目の八千矛から18代目(予定?)の野美宿祢までとして11代という意味です。出雲王国では主王と副王とがいて、富家と神門臣家とで交互に主王が後退するというそのタイミングにより主王の1代平均の期間が大幅に長くなるという可能性は、「出雲王国とヤマト政権」の巻末付録1の主王の系図と巻末付録5の出雲王家と親族関係図の記載から否定されていると思われます。

     なお、 「出雲と蘇我王国」をざっと読んだ後(余りに情報量が多いのでとても読んだと言い難い状態です)、「親魏和王の都」や比較的最近の「出雲王国とヤマト政権」を何度か読み返す中で「出雲と蘇我王国」も何度か読み直し、「古事記の編集室」や「飛鳥文化と宗教争乱」にもざっと目を通したり、その他、日本書紀や古事記や先代旧事本紀や中国史書の倭国伝等を拾い読みしたりはしていますが、その程度です。最近出版されていて図書館で読める出雲や古代についての読み本はある程度読んでみても、日本書紀の文言解釈だったり、一つの仮説で突っ走る主張だったりして、この大元出版の本の圧倒的な情報量とは比較にならない気がしています。
     個人的には、大国主(八千矛)や事代主(八重波津身)の遭難、(吉備との)第一次出雲戦争、(第二次物部東征の際の)第二次出雲戦争等の先祖の受難に基づく大元出版の情報は、時間軸との対応付けがヤマだと勝手に思っています。

     最後に、ささやかですが一言だけ情報があります。粟嶋神社の登り口の傍にある「静の岩屋」と称し画像を載せておられる小さな洞窟(穴)には、「人が一人は入れる」とのことでした。2017年9月に行った際に、偶々、付近を掃除などしておられる地元の方がおられたので、尋ねたところ頂いた回答です。猪目洞窟のように立ってはいれる高さはとてもありませんが、横になれば十分入れるという意味だろうと思いました。2000年以上の時間が経過し、多分多少は砂の堆積や縄文海進後の水位の低下の影響等があれば、事代主の幽閉されたところである可能性が全くないとまでは言い切れないと思いました。

     うまくまとめられなくて、長々と書いてしまいましたが、時々見させていただいていますが、余りの情報量でただただ拝見しています。

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    1. CHIRICO より:

      golch様、ようこそお越しくださいました。
      そして貴重な情報ありがとうございます。
      粟嶋神社の情報、早速書き加えさせていただきたいと思います。

      そして、そう、全くおっしゃる通りなのです。
      私も気がついていながら、見て見ぬ振りをしてきたのです。
      私の系図をご覧いただきましたでしょうか。
      そこには、どうしても処理できない、出雲王の間延びした系図が見て取れます。
      では富家伝承はデタラメなのか?というと他の点では全く素晴らしく理にかなっており、これが嘘だとは私には思えないのです。
      まさしく出雲王家の時間軸だけが最大の弱点であり、ヤマなのです。

      未だ私にはこれを解決することができていません。
      富氏に直接手紙でも書いてみようか、とも思いますが、おそらくその回答があるなら、既に書籍に書かれていると思います。

      宇佐の豊王国が邪馬台国であるとして、干珠・満珠の玉、久留米の玉垂の神、それら玉が意味するところは豊玉姫が信奉した月読神であると気がつき、それを元に各地を訪ねると、九州北半分が邪馬台国領であったことが分かります。
      すると、何故物部王朝が執拗に筑紫征伐を繰り返し、熊襲・土蜘蛛と呼ばれる反逆者にあふれていたのか、理解することができました。
      筑紫といえば物部の支配域でありながら、豊王国と連携して大和へ東征を図った、しかしイクメは大和大王になり、豊彦は北方へ、豊姫に至っては暗殺をされた。
      それを知った豊家の一族は、今にも大和に攻め入らんばかりに荒ぶったのではないでしょうか。
      そこへ景行帝などの強力な軍がやってきて、抗うもの、恭順するものに分かれたのではないか、と。

      富家の伝承から見ると、多くの、全てと言っていい神話や古代史の矛盾が解決されます。
      ただ、そう、出雲王家の間延びした時間軸だけがどうしても説明つかないのです。

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      1. golch より:

        CHIRICO 様

         早速のコメント・ご説明、ありがとうございます。

         作られている系図については、実は3年近く前に拝見していましたが、今回改めて拝見してその当時と比べて格段に見やすく整理されていることがわかりました(大半の詳細は私にはまだよくわかりませんが)。その中で、大王の系譜などもわかりやすく整理されていることも確認させていただきました。今後参考にさせていただきます。

         また、第二次物部東征の際に邪馬台国(豊王国)が卑弥呼自ら協力したことから、(私の知識レベルでは)その後の詳細についてはあまり気にしていませんでしたが、大和に入ってから冷遇され、それが景行以後の争いにつながっているとのご説明に単純ではなかったと初めて気づかされました(この辺りを考えて見れるようになるのは先のことですが)。

         なお、出雲王家の時間軸については、にわかファンにとっては、きっと、何らかの説得力のあるご意見があるだろうとひそかに期待していましたが、疑問が残っておられるとのこと、なかなか容易でないこと、了解しました。

         以下は、古代史から離れてしまい恐れ入りますが、また、可能性は低いかもしれませんが、この機会に、1、2の打開案を列記してみます。
        1.BC200~AD250年までの450年の時間を300年程度に縮めるために、大国主・事代主の受難は、BC200頃ではなく、BC50年頃位であると想定すること。これは、必然的に、饒速日・火明の時代は、徐福の時代ではなく、徐福と同様に大陸から日本に大挙やってきた集団があったのではないかと想定することにつながりますが、多人数、新しい技術など、二回の訪日という徐福の条件を満たすことは難しいのかもしれません。

        2.(CHIRICO 様はあまり気にしておられないようにみえますが)大王の系譜についても、徐福と五十猛で代替する期間を含めて約450年を⒕代程度でカバーするのは、結構大変かもしれないという気がしていました。古代故、最大限でも平均50歳程度の寿命だと仮定すると、個人的には、勝手に、一代平均20年程度位で、1代平均25年が限度ではないかと想定していました。例えば、江戸時代だと270年弱の期間に14代は要しているから。
         この点について、一代の期間を長くするためには、(常識かもしれませんが)長子相続ではなく末子相続等と想定すればいいという案があり得るという気がします。
         例えば、20歳(17歳)で大王になり50歳(47歳)で没するとして、30歳の時の子供が次の大王になる。これを繰り返すと一代が30年。
             15歳で大王になり50歳で没するとして、35歳の時の子供が次の大王になる。これを繰り返すと一代が35年。
         記紀の記載からすると、長子相続ではないと考えていいというのは常識かもしれませんが?
         但し、2代及び3代大王の正妻(?)がいずれも事代主の子供で、4代目の正妻(?)が事代主の孫の代というのは、上記のような仮定と相いれ難い可能性がたかそうですが・・・

        3.450年を10~11代でカバーできる可能性のある主王・副王の組合せについて、一つの案を無理やり作ってみました。
        (1)想定1 主王は副王よりも相当年上(親子に近い程度の年齢差がある)と想定。
        (2)想定2 (典型的には副王が没する時点で)主王と副王とは同時に立つと想定。
        (3)仮定3 主王が没しても副王が没するまでは副王一人で統治すると想定。

         例 例えば、(寿命が50歳であると仮定して)主王が25歳で副王が10歳のとき即位すると想定し、主王が50歳で没した後も、副王が50歳で没するまでその主王・副王の組合せが続き、副王が没する時点で、その時点の副王の方の王家から主王が25歳で立ち、同時に、当初の主王の方の王家から副王が10歳で立つ。これが、繰り返されるとすると、実際上、副王が40年づつで交代することになり、主王・副王の組合せが実際上1代40年続くことになる。

         大国主と事代主とが実際上同時に亡くなったことを、主王と副王とが同時に亡くなる異例なことが起こったと評価されている大元出版の本の記載と一応辻褄があることにはなります。

         なお、上記の例では、主王を出した方の王家が次の副王を出す際に、15年間のブランクがあるだけでなく、主王の没後、副王になる人が生まれるまでに5年のブランクがあり、主王と副王とは親子ではないこと(親族から選ぶこと)になってしまいますが。また、「出雲王国とヤマト政権」の巻末付録の「5出雲王家と親族関係図」とは一致しない部分が出てくることになってしまいますが、大元出版の本では、記紀その他古代の文献等に記載のない部分は出雲王家の伝承による旨記載されていて、部分的には、記紀等の記載に王家の伝承を合わせておられるような面があり、系図では省かれている方(記紀等に名前の出てこない方)もあり得ると仮定して、不遜ですが案を作ってみました。(約一週間無理やり考えてねん出してみました)

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        1. CHIRICO より:

          おはようございます、golch様。
          なかなかのご高察、にわかとおっしゃるのは、ご謙遜に過ぎますね^ ^
          すでに十分なマニアの領域に入っていらっしゃるかと。

          時間軸のお話ですが、一応、富様に問い合わせのお手紙を出してみました。
          返答はいただかなくても結構ですと、一文を添えましたので、回答はないかもしれませんが。
          思うに、当然のことながら、口伝も2千数百年以上の歴史を伝えるのに、完璧ではないと思われます。
          それを筆者らが肉付け穴埋めしたものが大元出版の書籍群でしょう。
          故に書籍間では大筋の流れは統一されていますが、細かな部分で相違が見られます。
          例えば私が気になっているのは大和大乱あたりの流れの相違です。
          特にヤタガラスは一体誰なんだ!ってくらい、書籍ごとに人物が違っています。

          こちらにごくたまにコメントをいただく「たぬき」さんは出雲の血筋の方のようで、大元出版本とほぼ相違ない話を投稿してくださいます。
          かと思えば、奈良の大倭神宮のように、傍流が伝えたと思われる似て非なる伝承も、旅をしていると散見する機会があります。
          これはまさに、富家が恐れていたことで、その時々の思考が加わることによる歴史の改竄を防ぐため、一子相伝のような形で、厳密に口伝で伝承を残されたのだと思います。
          つまりは私のようなブログが特別な評価をいただき、後世に伝えられるようなことになると、そこにまた歴史の歪曲がなされるのかもしれません。
          なので富様には、そうなさってあることでしょうが、口伝は口伝のままの内容として、別に厳重に管理保存していただきたいと願っています。

          さて、色々とご考察いただいた案のうち、末子相続の部分がとくに腑に落ちました。
          さらには王と副王に年齢差があったということもありうることかと思われます。
          golchさんの案を複数兼ねあわせた継承がなされたいたのかもしれません。
          出雲はサイノカミ信仰にことのほかこだわっています。
          それはひとえに幼い命の生存率が低かったことを想起させます。
          ゆえに最も幼い子というのは、大切に育てられたのではないでしょうか。
          また、古代人は今より寿命が短かった、と考えるのは早計かもしれません。
          ばかばかしいようですが、古代高度文明を唱える方も多数いらっしゃり、あらためて決めつけてしまうのも視野を狭くしてしまうものだと思うこの頃です。
          ただ、個人的には、その領域には踏み込みたくないというのが本音ですが。
          でないとなんでもアリになってしまいますので。

          年代については、専門家でも鎌倉幕府成立年にゆらぎがあるくらいですから、古代になると本当にお手上げです。
          FBの古代史グループで、しきりに年号とのすり合わせを迫られたことがありますが、そもそも年号を正確に記した日本の古代書はないわけで、多くを外国の歴史書に記載されたわずかな日本の出来事に照合しているに過ぎません。
          ともあれ、私にとって間違いないことは、これまで矛盾・疑惑だらけだった古代史の開かずの金庫を、次々と扉を開いた魔法の鍵が富王家伝承でした。
          富家の内容は、とてもシンプルで美しい。
          そう、私にとっては、このシンプルで美しいということが真実だと信じるに値する根拠なのです。

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  17. れんげ より:

    こんにちは。またお邪魔いたします。
    先日は各神社のページにちまちま付けたコメントに、全て返信くださりありがとうございました。それも、すぐに返信が付いてびっくりでした。
    めぼしい神社の少ない神奈川にもいらしていただいていて嬉しいです。神奈川の神社は、出雲や大和や九州のように歴史の足跡がそのまま感じられる…というふうがあまりないのが残念です。鶴岡八幡宮は歴史の足跡そのままですが、中世…。もちろん中世好きの方が全国から訪れてくれているわけですが。寒川神社は馴染みあるところです。またいずれそのページでお邪魔させていただきます。
    佐太神社の、母儀人基社はわかりませんでした。ぜんざいと合わせていずれリベンジしたいと思います。
    今回、八雲ニ散ル花、前夜〜海祇ノ比賣巫女まで見させていただきました。前回よりはだいぶ少ないですが、また個々の神社のページにもお邪魔させていただきます。

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    1. CHIRICO より:

      れんげさん、こんにちは。
      ずいぶん熱心にご覧いただき、誠に恐縮です。
      確かに大和時代の中心は奈良であり出雲でした。
      九州も物部・宇佐王国で賑わっていました。
      しかし東国もタケミナカタや大彦の子孫らが築いた王国の痕跡があり、私にとっては興味深い地域の一つです。
      色々訪ね歩きたいのですが、焦れったいですね。

      最近、宇佐家の伝承本と長野諏訪地方のミシャグジ信仰を研究した本を入手しました。
      大元出版本では解き明かせなかった謎のヒントがありそうで、今から読破するのが楽しみです。

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  18. れんげ より:

    CHIRICO様

    はじめまして。
    昨年の夏に、偶然大元出版の本と出会った者です。
    今回、ふと「大元出版の出版物に何か変化はあったかな〜」と思い立ち、確認をした流れでこちらのブログに出会いました。
    すごいですね!
    まだ、ほんの幾つかの記事を拝見させていただいただけですが、美しい写真と深い見識。
    すごいもの見つけちゃった! と思いました。
    CHIRICO様の足元にも及ばないですが、私も日本の古代に惹かれ、旅行も好きなので神社や旧跡を巡り、しかし、古事記も日本書紀もホツマツタエも様々な人による書籍での見解も、必ず「???」にぶつかり、古代の迷路から抜け出させてはくれません。
    日本の古代史と言えば神話と邪馬台国論争の二本立てで、結局真実のところがつかめない。どちらもロマンがあり魅力的なのですが、やはりリアルな歴史がわからなすぎることが日本人として残念でした。
    富王家伝承により衝撃的な答えを得て、これらの本が出された時代に生まれて来られて良かった! くらいの感銘を受けたものの、困ったこともあります。
    出雲の神様が大好きだっただけに、八千矛と事代主が殺されたというショック、その後も穂日家の裏切りから出雲王国が滅亡、出雲大社創建の経緯などから、出雲大社に対する感情が複雑になってしまったこと。
    神社巡りで由緒書きを読むとき、「いや、違うでしょ」と気持ち悪くなってしまう時があること。
    テレビで「伊勢神宮と出雲大社の秘密」みたいな内容が取り上げられる時、従来のガイドブックにあるような内容が伝えられるのを見ると、この内容が世間により広まってしまうなら番組で取り上げないでー! と思ってしまうこと、などなど。

    こちらのブログでは、膨大な数の神社や旧跡について、富王家伝承に基づく見解で解説されている。嬉しい! しかも写真が素晴らしい!
    神社・旧跡巡りが好きでありながら、私はお恥ずかしながら車の運転ができないという大いなる弱点があり、しかし、公共交通機関の利用も歩くことも好きなので、時間のロスは甚だしいですが、結構根性で巡っております。
    大元出版の本で得た情報の整理、これまで行った神社・旧跡の再確認、今後巡る候補地選びのために、これから順次、「八雲ニ散ル花」の記事を読ませていただきます! それらの個々の記事に、またコメントをさせていただくかもしれません。ただ、私自身はブログもやっておらず、SNSに疎いアナログ者であるため、不慣れによる失礼がありましたら申し訳ありません。
    なお、冒頭に書きましたが、昨日大元出版の出版物の確認をいたしましたところ、「親魏和王の都」が「魏志和国の都」にタイトル変更をしたようで、「親魏和王の都」は絶版という取り扱いになっておりました。参考までにお伝えいたします。
    また、私が読んだ大元出版の本は以下のものです。
    ・出雲王国とヤマト政権
    ・親魏和王の都
    ・飛鳥文化と宗教争乱
    ・古事記の編集室
    ・出雲と蘇我王国
    ・事代主の伊豆建国
    ・サルタ彦大神と竜
    ・七福神と聖天さん

    いきなりの長文、大変失礼いたしました。

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    1. CHIRICO より:

      こんにちは、れんげ様。
      ようこそお越しくださいました!

      私も大元出版に出会ったのは数年前のことでして、当時は目からウロコが落ちたものです(笑)
      それからいてもたってもおられず、記載されていた神社を巡りましたが、そこからまた新たな線も見えてきて、畏れながら多少なりと独自の解釈を加えるに至っています。
      私は美容師ですので休日も少なく、ほぼ1泊2日の行程で日本中駆け回っています。
      それでも情熱さえあればなんとかなるもので、わずか数年でこれだけ参拝することができました。
      車なしでもきっと希望の目的地にたどり着くことができると信じていますよ。
      ただコロナの影響で足止めになっているのが、本当に残念ですね。

      私も、あからさまな由緒を掲げている神社や上っ面だけの情報を流す番組に、心中盛大にツッコミを入れていますが、
      まあ、それはそれでエンターテイメントとして受け止めています。
      それよりも私なんかよりも専門的な人たちが、なぜ富王家伝承を全く無視するのか、それが不思議でなりません。
      私がたどり着けるくらいなので、専門家の方はとうに大元出版本のことを知っていると思うのです。
      世の中、違和感のあるところには人の思惑があるというのが私の持論です。
      きっと富王家の伝承が世に広まるとこまる何かがあるのだと推察していますが。
      「親魏和王」もタイトルを変えざるを得ない理由があったのだろうと思っています。

      「サルタ彦大神と竜」「七福神と聖天さん」については私は読んだことがなく、その点ではれんげさんの方が博識かと思います。
      「出雲と大和のあけぼの」は運良く近くの図書館で見つけることができ、コピーが破れるほど読み返しました。
      内容は「出雲王国とヤマト政権」とほぼ一緒なのですが、微妙に相違点もあります。
      大元出版本全体でも、微妙な矛盾はありますね。
      まだまだ私も古代史の旅の途中ですので、れんげさんが気づいたことなどありましたら、お教えいただけると嬉しいです。
      他愛のないことでも結構ですので、コメントお待ちしております。
      各記事に興味深いコメントをくださる方もたくさんいらっしゃいますが、その中でも「たぬき」さん、「nokanan」さんの情報は必見ですよ。
      nokananは最近ご無沙汰なので、ちょっと心配ですが。

      あと私の渾身の出雲王家系図がありますので、よろしければこちらからダウンロードください。

      https://omouhana.files.wordpress.com/2020/06/keizu10.pdf

      これも色々事情がありまして、今は公開を控えております。
      一定の期間ののちリンクは破棄させていただきますので、ご了承くださいませ。

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      1. れんげ より:

        CHIRICO様
        返信ありがとうございます。
        毎回1泊2日でこれだけのものを!
        現地を巡り、資料の調査をし、ここまでまとめ上げることを美容師さんというお忙しいお仕事の傍らでこなされるとは…。本当に凄すぎます。
        独自に加えられた考察もとても気持ち良く頷けます。文章も写真も素敵でとても心地良いです。
        専門家が大元出版本を無視するのは…色々大人の事情があるのでしょうかねぇ。単にこれまで自分が積み上げてきた説が覆るのが嫌なだけの人もいるかもしれませんが。
        それでも、これだけ色々辻褄が合って、そういうことだったのか、とストンと納得させてくれるものが、まだマイナーな存在とは言え出たのですから、いつか無視し続けられなくなる時が来るかと思いますが…。
        仰る通り、大元出版本全体でも残る微妙な矛盾。ただそれは、これまで抱えさせられてきたモヤモヤに比べたら可愛いものですよね。矛盾が残っていたり、執筆者によって若干見解の違いがあったりしても、それをそのままに尊重して出版しているように感じられて、むしろ好ましくも思えたりして。
        それから、渾身の出雲王家系図、ありがとうございます! これは助かります! すぐにごちゃごちゃしてしまうので。私も本を読みながら部分的にメモで書き出したりはしていましたが、すごいものを作られましたね! 取り扱い注意とし、個人での使用しか致しませんのでご安心ください。
        私などは、発信する能力にも欠けておりますので、旅の思い出的な本当に他愛のないコメントしかつけられないかと思いますが、今後共どうぞよろしくお願いいたします。

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  19. 8まん より:

    CHIRICOさんこんばんは。
    そして蜜月稀葵さんは、はじめまして。
    わたしらのやり取りにテンションアゲアゲで神社にまで詣でて頂いてありがとうございます。
    ネットだって立派な縁です。ありがたや。
    日本はモンゴリアン系が近い民族とされ顔はヤクート人やブータン人、アイヌ、朝鮮、中国などが骨格に。色々な形で島を渡って来ているのが分かります。
    そして古い史跡や神社仏閣には、そういうものの名残がみられます。また風習や伝統には語り継がれた歴史が紡がれています。
    それから記紀や風土記、万葉集、先代旧事本記だったり。口伝、説話、逸話、伝承。物語。こんなに人が古くからのものを残そうとしてくれています。
    古きを知り新しきを知る。温故知新ですな。
    色々な人が、古くからの日本に興味を持って知ろうとする。とても大切で良いことだと思っています。
    ここ最近、日本会議のメンバーの方々が神道に絡んで・・・まあ知らなくて良いことはオカルトの方に任せておいて・・・。
    神様に向き合うという事は、自分の行く先の指針に向き合うことなのかなと思ってます。神社で人は祈り、誓う場所なんですから。
    お寺は、願い望む場所らしいです。
    なんにせよ、袖振り合うも多生の縁です。蜜月稀葵さんにも良い縁が続きますよう。
    ではではここいらで。

    CHIRICOさん、足利学校も拝読させていただきました。日本は他の国に負けない勤勉な民族性をこういうところでも垣間見えますよね。
    ここにも温故知新。

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    1. CHIRICO より:

      多民族を有する国は数あれど、日本が特別なのは、日本に移り住んだ各民族が皆、一個の日本人として溶け合い、助け合っていきてきたということです。
      その中心に天皇を掲げ、君主と民が信頼し合う強い結びつきを悠久に渡って持ち続けてきた、稀有な民族です。
      そのような奇跡とも言える民族が生まれ、維持できたのは、日本という、自然災害が多く、また自然から得られる幸多いこの国土があったからだと思います。
      が、他国、とくに一神教を掲げる人たちの中には、この日本を壊そうとする勢力が存在します。
      それはとてつもなく闇深い、強烈な妬みを持ってことをなそうとしています。
      その勢力は様々な方法で日本を破壊しようとしてきました。
      時には武力で、時には経済を使って。
      しかし日本人は戦後の大敗からも、バブルの崩壊からも、何度も立ち上がって蘇るのです。
      そんな折、今狙われているのは日本神道と皇室です。
      同時に自然災害を人工的に引き起こすこともやっている節があります。
      寺院はかなり侵食されてきていると聞いています。
      また神社もある程度、侵食されつつあると。
      落書きや油まき、放火などのレベルではなく、内部への侵食です。
      僕らが日本の神と思って崇めている対象が、気がつけば異国の神になっている、ということが起きつつあるそうです。
      内部侵食は皇室にも及んでいます。

      僕は、純たる日本人は人類最後の良心である、と信じています。
      そして、日本人の心を守るためにもブログを書いていこうとある時期決心しました。
      そう決心させてくれる人物とご縁をいただきました。
      綺麗な写真を見て、日本って綺麗な国なんだな、と思ってもらえるだけでも、それは十分なのです。
      日本の国にはこんな場所があったんだと、発見してもらえるだけで十分。
      自分たちの住まう日本が好きだって思ってもらえれば、それが愛国心なのだと思っています。
      実のところ、もうほぼほぼ詰みかけているこの世界に、拳を上げて戦ってくれている人たちのためにも、人類の良心を守りたいと極めて微力ながら声援している次第です。
      僕らの平和や豊かさを搾取しているのは、我らが君主の天皇家ではなく、神の名に隠れ闇深くに隠れほくそ笑む存在なのです。

      私のブログを訪ねてくださる方のリンクをたどると、より詳しいことがお分かりになられると思います。
      ご声援いただけると幸いです。
      重苦しい返信となりまして、失礼しました。

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    2. 蜜月稀葵 より:

      8まんさま

      おはようございます。
      お返事頂き嬉しいです。

      このタイミングでCHIRICOさんのブログに出会い、お二方のやりとりに感化されている。ありがたすぎます。

      改めて、日本の凄さ、今日本人としてここに生まれている事に感激しています。

      「神様に向き合うという事は、自分の行く先の指針に向き合うこと」

      その通りだと思います。
      その指針が間違っていないかを確かめに行っているような気がしています。

      これからもテンションアゲアゲで拝読させて下さいませ。

      CHIRICOさん、8まんさんにも良きご縁が続きますように!

      早朝から失礼いたしました。

      いいね: 1人

  20. 8まん より:

    早い。そして面白いです。(笑)
    んでは、私が聞いた諏訪、モーリヤの話。諏訪奇祭である子供を生け贄に模した祭りは明治までされてたのはご存知かと。これは旧約聖書の「イサクのはんさい」という儀式の日本版らしいです。アブラハムを神様が試すアレです。神様はアブラハムが神に恭順を示し息子のイサクを贄に捧げようとした事を認め神の力を笑ったアブラハムを許した。んで、代わりにヤギを贄に捧げたと。
    日本でのこの地方では、ヤギがおらず代わりに鹿が捧げられるようになったと。
    そうそう、肝心のミシャグチ若しくは漢字通りだと「ミサクチ」。その神とどう繋がるの?なんですが名前を分解してみます。エゾ近辺で 「ミ」とは「オン」御と上の方を指す。「サク」はまんま名前、「チ」は神。で「御、サクの神。」となる。「サク」は昔から田んぼの~の意味なんですが、出雲族より早くこの辺りにいた民族は狩猟族。稲作文化は後。
    で、東北民族は昔から口の開きが少なく(寒い地方独特らしい)「イ」が抜けた。「ミイサクチ」が発音が崩れて「ミシャグチ」若しくは「ミサクチ」になったと。ちと強引な気がするのですが、タケミナカタは諏訪の神と相撲をして勝ったので、この地を譲られた逸話があります。
    これはイスラエルの建国話にも似た所があり神様との相撲の話で、神様に相撲で勝ったので土地を譲られ名前をイスラエルとした。と。ちなみに「イスラ」は勝つ。「エル」は神様。ここでも名前が分解されてます。
    モーリヤの民(斉)はこの地で祖国の祖先神を祀っていたのでしょうか・・・。
    聞きかじりの話ですみませんが、これが私がどっかで(笑)聞いた話です。

    いいね: 1人

    1. 8まん より:

      追記。ヤギ×。羊〇。でした。間違えました。すみません。

      いいね: 1人

      1. 匿名 より:

        天竜川で戦いあってタケミナカタが勝ち
        ユダヤの守屋 守矢が神官 レビ族の名残なんすかんね 笑
        大祝 政権がミナカタ 神事をユダヤの守屋に 分けたとの話も
        茅野市 親戚からの逸話 昭和40年頃の話 😷

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          守屋はユダヤなのですかね、信濃は謎が深い。
          そうそう、今度讃岐の剣山に登ってみようと思っています。

          いいね

    2. CHIRICO より:

      うわー面白いですね!
      実は子供を使った生贄の祭りは、遠く宮崎の高千穂神社にもあったと言います。
      高千穂といえば天孫降臨の地です。

      ここに伝わる話で、「三毛入野命」(御毛沼命)が荒ぶる神「鬼八」(キハチ)を退治したというものがあります。
      三毛入野は物部族です。
      鬼八は倒されても何度も蘇るため、最後にはバラバラに斬られ、別々の場所に葬られたといいます。
      高千穂神社ではこの鬼八を慰霊するため、「猪掛祭」(ししかけまつり)が今も受け継がれています。
      神前に1頭の猪を捧げ、「鬼八眠らせ歌」を歌いながら笹を左右に振る「笹振り神楽」を舞います。
      有名な高千穂の夜神楽は、この笹振り神楽が元とされています。
      猪掛祭はかつて、16歳になる生娘を生贄として捧げていたそうです。
      戦国時代にこれを哀れんだ日之影町中崎城の城主「甲斐宗摂」(かいそうせつ)の命により、イノシシを身代わりに供えるようになったと伝えられます。

      また似た「鬼八」の伝承が少し離れた阿蘇にも伝わっています。
      阿蘇で鬼八を退治したのは、阿蘇神社の祭神「健磐龍命」(たけいわたつのみこと)となっています。
      ここでも鬼八はバラバラにされますが、その首が呪って霜を降らすので、その霊を鎮めるため「火焚き神事」が執り行われています。
      この祭りでは鬼八の御神体を温めるため、59日間火を焚き続けるのですが、この役を勤めるのが13歳以下の乙女であり、神事の間は火たき殿から一歩も外に出ることは許されなかったのだそうです。

      この鬼八の子孫と云われている一族がいます。
      興梠(こうろぎ)氏です。
      高千穂地区には、この興梠姓の方が、割合多くいらっしゃいます。
      鬼八の里は「アララギ」と呼ばれていたそうで、アララギもこうろぎも、「カムロギ」というイザナギ・イザナミ神よりも古い神に由来するのだと云うことです。
      「鬼」は古来、まつろわぬ民に対して呼ばれる蔑称です。
      そして「八」は出雲族の聖なる数字です。
      宗像氏はじめ、九州にも出雲族は勢力を持っていましたから、「鬼八・カムロギ」族は古い出雲族だったのではないか、というのが僕の考えです。

      ところで高千穂の三毛入野は物部族ですが、阿蘇の健磐龍は諏訪にも深いつながりがある神です。
      健磐龍の息子の一人「速瓶玉」が阿蘇氏の祖となり、もう一人の息子「建稲背命」(タケイナセ)が諏訪大社下社の大祝・金刺氏の祖となったと云うことです。
      健磐龍の祖・神八井耳は海家と出雲家の血を受け継ぐ一族で、茨城の多氏の祖でもあります。
      多氏は茨城の鹿島神宮の本来の社家だったという話もある、謎多い一族です。
      鹿島神宮と高千穂神社はレイラインの東西端にあり、鹿島神宮の「要石」とよく似た「鎮石」というのが高千穂神社にあります。
      話がどんどん広がってしまいましたが、金刺氏は「多」一族が関東から諏訪入りして、タケミナカタの子孫と血縁を結び、下社の地で権力を得たものと考えています。

      話が支離滅裂になってきましたが、関東ー諏訪ー九州と秦族の血が繋がるということは、やはり守矢家はモーリヤに繋がるのかもしれません。

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  21. 8まん より:

    度々有難うございます。はい。「土師」の宮です。「ハシ」は時代のうつろいでしかも「ハ」が「ワ」に。
    それにしてもやっぱり凄い考察です。

    そうなると茨城の静神社(しずじんじゃ)にも是非お出でください。御祭神はタケハズチ様です。この神社はミカボシカガセオ討伐に陣を設けた場所。あそこの神職さんも、かなり古い時代のロマンを持っていて独自の考え方持っていますよ。水戸光國さんが好きなんで八幡信仰に対して、ちょっと偏ってしまった感がありますが。

    また、渋谷のマンション内の一画に金吾竜神社。こちらは東北で被災した神社を再建するためにこちらに来られたそうなんですが、アラハバキ様も祀られています。こちらも神職さんがおられれば、大変参考になるお話を頂けます。
    古きを訪ね新しきを知る。
    令和に新しい書記を編纂して欲しい今日この頃。これからの記事も楽しみにしてます。
    では、失礼致します。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      最初のコメントの話になりますが、また長文で失礼します。
      「守矢とモーリヤ」、面白い観点です。
      日ユ同祖論についても富家の伝承に答えがありました。

      古い神社に稀に記されている六芒星、これに関わっているのが「秦氏」と呼ばれる謎の氏族だと云われています。
      「秦」をなぜ「ハタ」と呼ばせるかというと、彼らが機織の技術を伝えたからと云われていますが、機織りの神「武葉槌」も秦氏です。
      秦氏はどこから来たのか、というと、字の通り「秦国」からです。
      秦の始皇帝の秦です。
      しかし彼らは真の秦国民ではありません。
      秦に滅ぼされた「斉」の国民です。

      大国主・事代主の時代に、始皇帝の命で出雲にやってきた人物「徐福」は斉出身でした。
      彼は同郷の民を2000人連れて出雲にやってきます。
      その中にホヒ・ヒナドリ親子もいました。
      彼らは丹波に移住し、海家・海部家となり、今では丹後の籠神社の社家となっています。
      武葉槌、および甕星は海家の血筋だと思われます。

      次に徐福は一度母国に戻り、また同郷の3000人を引き連れて、今度は九州の佐賀にやってきます。
      彼らは物部氏となりました。

      斉の人たちは、他の支那人と違い、失われた十氏族の末裔だという話です。
      彼らの多くは始皇帝によって殺され、生き残りのほどんどが日本に移住したことになりますので、他のアジア人には無い特有のDNAを日本人が持っていることの説明になると思います。
      九州の高千穂や籠神社などで「真名井」という名の聖地がありますが、真名井とは「マナ」のことです。

      この時代において、すでに秦国では立派な構造船を持っていました。
      しかしそれでも玄海の海は荒く、皆が目的地にたどり着けた訳ではなかったようです。
      出雲に向かうはずだった一派のうち、はぐれたグループが東に流され、越国(新潟)辺りにたどり着き、長野盆地まで至ったのがモーリヤ族だったという考察が思い浮かびます。
      出雲族は温厚で農耕民族でしたが、守屋の祭祀は明らかに狩猟民族のそれです。
      支那国は狩猟民族圏です。
      が、ミシャグチの奇祭は、他の秦氏の祭祀と比べると原始的ですので、彼らと関係のない、出雲族らよりも古い原住民族なのかもしれません。

      徐福は出雲で「ホアカリ」と名乗り、佐賀で「ニギハヤヒ」と名乗り、記紀に「スサノオ」と記されています。
      我々今の日本人は、インドのドラヴィダ族が元である出雲族と、斉の末裔である海族・物部族、半島の辰韓から渡来した但馬族、それと出雲族よりも古くから日本にいたという親魏和王卑弥呼の都・宇佐族が複雑に混ざり合って成り立っているということのようです。

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    2. 蜜月稀葵 より:

      CHIROCOさま
      こんばんは。

      8まんさま
      はじめまして。

      割り込みましてすみません。
      お二方のやりとりをテンション高く拝読させて頂いております。

      御礼を申し上げたくて記しました。
      昨日、金吾龍神社にお参りをさせて頂きました。ずしっと響くものがありました。教えて頂きとってもとっても感謝しております。ありがとうございました。
      私は踊りを踊るのですが、来年に奉納させて頂こうと予定しております。
      ご縁をいただき本当にありがとうございました。

      また、受付におられた方にどこで知ったかを聞かれまして、貴ブログとお二方のやりとりのページを伝えました。勝手に伝えてしまったのですが、大丈夫だったでしょうか。。事後報告すみません。良くないようでしたらお知らせ下さいませ。先方にそのように伝えます。

      お二方のやりとりをこれからも楽しみにしております。

      この度のこのご縁、心より感謝申し上げます。

      いいね: 1人

      1. CHIRICO より:

        蜜月稀葵さん、こんばんは。
        僕らのやりとりが、新たなご縁に結びついたのなら、嬉しいことです。
        金吾龍神社については、このブログにご来訪いただいている方に教えていただき、渋谷の神社はもちろん、本家の小樽にある神社も訪ねてみたいと思っています。

        僕のブログを神社の方にお伝えいただくのは構わないのですが、中には社伝を無視した、不躾な内容を記載している部分もあります。
        真の古代史を知りたいばかりに、今ある信仰を傷つけてしまうのは僕の望むところではありませんので、その辺りはご配慮いただけると幸いです。
        全ての神社のご神職の方、氏子の皆様には、連綿と続く祈りの聖地をお守りいただき、感謝の気持ちしかありません。

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        1. 蜜月稀葵 より:

          こんばんは。

          ありがとうございます!
          私も本家にも伺おうと思っております。

          はい。承知致しました。
          CHIRICOさんのコメントを拝見し、その通りだなと思います。
          今ある姿を守って下さっている事が奇跡的で感謝しかありません。この気持ちを忘れずにこれからもお参りをさせて頂こうと思います。

          いいね: 2人

  22. 8まん より:

    ども。この記事が本になるなら是非手に入れたい。(笑)
    さて、面白いかどうかは分かりませんが、茨城は下妻に、宗任神社があります。祭神は阿部宗任。四男坊に鳥海三郎がおりまして、大和政権にこの一族は敗れ、鳥海三郎は大和政権に下り文官に。んで、気付いたんですが鳥海山大物忌神社の鳥海は偶然?大物は王様。忌は忌部一族。??となりました。関の東も正しい歴史を知る上では未開です。

    また、埼玉の鷲宮神社は祭神がアマノヒワシノミコトではなく、大国主を祀ったアメノホヒとタケヒナトリ。酉の市で有名ではあるのにここだけこの二柱。不思議ですね。まあ、元は「ハジの宮」だったのが「ハシの宮」で「ワシの宮」になった駄洒落みたいなお話なんですが・・・。
    それと、埼玉古墳群の前には前玉神社があるのですが大国主の子孫であると言われる前玉比女が祀られています。
    埼玉古墳群は雄略天皇の頃にはここまで政権が届いていた証拠になる遺跡ですが遣わされたヲワケの子孫が武蔵国造?に?不確かでスミマセン。まあそんな感じで関の東にも敗れて散った誰かが沢山いて歴史に葬られてしまってる神様も多くいるのではと。どうか日の当たる場所に導いて頂けると幸いです。奇魂、守り給い、幸い給え。(笑)

    いいね: 2人

    1. CHIRICO より:

      本当にすごい情報ありがとうございます。
      関東も随分回ったつもりですが、まだまだ深いですね。
      関東は情報が十分ではないので、まだこれから検証の余地があるのですが、富王家が伝える所では、まず出雲族が移住し、大和で敗れた大彦(ナガスネヒコ)の一族が移住したと記されています。
      アメノホヒとタケヒナトリは大国主・八千戈王と事代主・八重波津身副王をそれぞれ別の孤島洞窟に幽閉し、枯死させた張本人だそうです。
      彼らが関東で大国主を祀ることはあり得ないでしょうから、子孫が大国主の祟りを畏れて祀ったということかもしれません。
      が、一度当地を訪れて、考察してみたいですね。
      教えていただいた場所は、さっそく僕のマイマップにマーキングさせていただきました。
      年内は厳しいですが、来年早々にでも訪ねてみたいです!

      いいね: 1人

    2. CHIRICO より:

      追加ですみません。
      今、鷲宮神社のウィキを見て驚きました。
      鷲宮神社は「端の宮」ではなく「土師の宮」ですよ。
      土師氏は野見宿禰の末裔で、どっぷり出雲族です。
      出雲王国は17代で終わりましたが、野見宿禰は本来、18代大名持となるはずだった「富大田彦」のことです。
      彼の子孫が埼玉に移り、祖神を祀ったと思われます。
      つまり鷲宮神社で祀られる「大己貴」とは「大名持・富大田彦」がその正体と思われます。
      記紀編纂の時、藤原不比等は全国の神社に対して、記紀に沿うよう祭神を変更するよう、徹底して圧力を加えたと云います。
      その過程で出雲の穂日家の意向を随分汲んだようなので、祭神が書き加えられたのかもしれません。

      また宗任神社に関わる阿部氏は「中曽大根彦」(ナガスネヒコ)、つまり大彦の子孫だと思われます。
      大彦は東方へ敗走する時、敢国(あへくに)に縁があったことから阿部を名乗ります。
      彼は大和王国の皇子で、次期大王の最有力者でしたが、東征してきた物部族を嫌い、その戦いで敗れてしまいます。
      大彦は自分が出雲族の血を引いていることに誇りを持ち、「富」姓を名乗った時期もありました。
      トミノナガスネヒコの名で彼を祀る神社があるのが、その証拠となります。
      東国に敗走した大彦の一族は、関東から東北にかけて、クナ王国(狗奴国)を築きます。
      このクナとは、出雲族の大祖神「クナト王」のクナです。
      彼らは後の大和王国からエミシと呼ばれるようになります。

      また大物とは大物主のことだと思われ、奈良の三輪山に祀られる大物主とは、事代主のことになります。
      つまり鳥海山にも事代主が祀られてきたということなのだろうと思われます。
      事代主殺害事件の後、大名持となった彼の息子に「鳥鳴海」(トリナルミ)がいます。
      鳥海山は彼から名付けられたのではないかと思います。
      阿部宗任の四男は、逆に出雲に敬愛を示して鳥海と名乗ったのではないでしょうか。
      忌部氏は出雲の玉造に拠点を持つ一族です。
      出雲王家の親戚で、勾玉造りからやがて宮中祭祀を携わるようになっていった一族です。
      が、奈良時代、大伴氏らにその地位を奪われ、衰退していきました。

      東国は蝦夷と呼ばれ、度々制圧の対象となっていきました。
      その中で散った花は数知れずあったのだろうと思います。

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  23. 8まん より:

    大変興味深く良い考察。私も神社を巡り、一ノ宮を巡り、古社を巡り・・・記紀に首を傾げました。
    んで、ミシャグチの奇祭についてだけ一言。イスラエルとイサク・・・失われた・・・辺りで面白い記述を拾えますよ。守矢とモーリヤ。
    また、妙見信仰ある千葉、茨城。大甕神社もなかなか面白いですよ。

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    1. CHIRICO より:

      こんにちは、8まん様。
      ようこそお越しくださいました。
      貴重な情報ありがとうございます。
      ミシャグチ神については情報が少なく、僕も考察しきれていない所です。
      大甕神社は行きましたが、面白い神社ですね。
      伯耆国の倭文神社との関連で考えてみると、より深みを感じます。

      天地開闢をはじめとする記紀神話は、我々の国史であって良いと僕は思っていますが、しかしながら先祖崇拝を大切にする大和民族として、その真の生い立ちを探求することは、特に今の混沌としてきた時代にあって重要なことではないかと感じています。
      8まん様、面白い情報などございましたら、これからも教えていただけると嬉しいです!

      いいね: 1人

  24. 蜜月稀葵 より:

    こんばんは!

    また一枚目の写真をブログ等で使わせて頂きたいです。大丈夫でしょうか?

    『新魏和王の都』から読み進めています。とても難しく、いままで読んできた色々な物を頭の引き出しから出して、総動員で読んでいます。

    読むのは大変なのですが、つい最近の出来事を読んでるようでとても不思議な気持ちがしています。

    新しい八咫烏の記事もありがとうございます。
    本当に記事が凄すぎです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは。
      ありがとうございます、写真、どうぞご使用ください。

      最初は神話が暴かれてしまうことに、夢もロマンも失われるのかと危惧しましたが、実際の話は神話よりもさらにエキゾチックで、深い内容でした。

      大元出版の本は、とても一回読んだだけでは理解できないので、僕も最低2回は読み直しています。
      でも書かれている人たちが本当に生き生きとしていて、まるで自分もその時代に生きている気がしてきますね。
      現地を歩くと、その思いはさらに強くなりますよ。

      いいね

    2. 蜜月稀葵 より:

      こんにちは!

      ありがとうございます!
      使わせて頂きます!

      神話よりもエキゾチックですか!
      血が騒ぎます。
      私は古代の祈りや踊りの発生が掴みたいなと思っています。
      花を死者にたむけた一番最初の方に興味があります。

      Chiricoさんでもそうですかっ!
      私はページを行ったり来たりしながらでなかなか進めませんーっ!
      大変ですがとても充実しています!

      私も少しずつ現地に歩きたいて思います!

      いいね: 1人

  25. 蜜月稀葵 より:

    こちらからも失礼致します!

    大元出版様の書籍を購入いたしました!
    ご紹介頂き深く感謝致します。

    ブログの内容や速度に驚愕しております。私も改めて学びなおして参ります。
    これからも学ばせて下さいませ!

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      ようこそ、日本古代史の深淵へ(笑)
      日本神話の知識が一通りないと難しい内容ですが、知りたかったこと、矛盾や疑問を感じていたことがリアルに記されています。
      もちろん、その全てが真実だという保証はないのですが、僕が各地を歩いている限りにおいて矛盾はないように思います。
      一番よくまとまって書かれているのは「親魏和王の都」です。
      こちらから読み進めて、3部作を読まれるとより理解しやすいかと。
      まあ、僕もかなり衝撃を受けました(笑)

      いいね

    2. 蜜月稀葵 より:

      こんばんは!

      お返事ありがとうございます!
      日本古代史の深淵にはいる事をやっと許されたようです!

      CHIRICOさまが各地を歩かれ府に落とされていらっしゃる。ますます興味深く、ワクワク致します。
      まずは「親魏和王の都」からですね!「出雲王国とヤマト政権」から始めてしまうところでした。
      ナビをして頂けるなんて本当にありがいです。全ての書籍に釘付けでしたので、もし一人でしたら間違いなく迷っていました。
      ありがとうございます!

      いいね: 1人

      1. CHIRICO より:

        もちろん「出雲王国とヤマト政権」からでもOKですよ!

        いいね

        1. 蜜月稀葵 より:

          ありがとうございます!

          いいね

  26. iiduka39 より:

    始めまして。「いーづか39」と申します!この度は当ブログをフォローして頂きまして本当にありがとうございましたm(__)m
    早速、偲フ花様のブログを拝読させていただきました。とても勉強になりました。
    これからも勉強させて頂きますのでどうぞ、よろしくお願いいたします!

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、いーづか39様。
      こちらもフォローいただきありがとうございます。
      書体のデザインとは、また難しい試みをなさっておられますね。
      しかし日本の文字というのは、それ自体に意味を含んでいるので、きっと楽しいお仕事でしょう。
      私のブログは少々マニアックですので、興味がある項目はご参考に、そうでないところは写真でも眺めていただければ幸いです。
      こちらこそ、どうぞよろしくお願いします!

      いいね: 1人

  27. boosdiet より:

    Great photo

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      Thank you!

      いいね

  28. 創生塾 より:

    何度も申し訳ありません。
    大元出版様から「出雲と蘇我王国」も購入可能なのですね??
    早速、明日問い合わせしたいと思います。
    ありがとうございます。

    いいね: 2人

    1. CHIRICO より:

      はい、今なら購入できるはずです。

      いいね

  29. asesorlegal 999 より:

    ありがとうございます。
    「旅と神社巡り」…。
    羨ましい限りです。
    「我が国に神道あり」世界に誇れる我が国日本だけのものであり、大和民族のアイデンティティの源であると思います。
    私の知識など然程のものではありませんし、偲フ花様から教えを請うことの方が遥かに多いと思われますが、本当にこの出会いに感謝し精進して参りますので宜しくお願い致します。

    いいね: 3人

  30. asesorlegal 999 より:

    想フ話様
    始めの記事から勉強させて頂いております。
    大変良い記事をありがとうございます。

    いいね: 2人

    1. CHIRICO より:

      ASESORLEGAL 999様、ようこそお越しくださいました。
      私も、フォローを頂いてから、「創生塾」拝見させていただいてます。
      先日の「昭和天皇の玉音放送の本当の意味」、知ることができて良かったです。
      身贔屓ではなく、古来日本人とは稀で特異な種族であると思います。
      勤勉で温和で誇り高い、今は失われつつありますが、ここにきて私たちはそうした日本人としてのアイデンティティを改めて見直す時期に来ているのではないでしょうか。

      このタイミングで大元出版の書籍類、また創生塾さんのサイトを知り得たことは、かけがえのない財産です。
      どうぞこれからも、よろしくお願いします!

      いいね: 2人

      1. 創生塾 より:

        想フ花様
        早速のお返事誠に恐縮です。
        私の方こそ想フ花様と価値観を共有する事が出来まして幸運に存じます。
        始めの記事から拝読させて頂いており勉強させて頂いております。
        想フ花様のご見識の高さに驚嘆致している次第です。
        ブログに関しましては始めたばかりの素人です。過去の記事は某法人にて私が担当して書いて来たものでお恥ずかしい限りです。
        これからもどうぞ宜しくお願い致します。

        いいね: 2人

        1. CHIRICO より:

          お褒めの言葉もいただき、こちらこそ恐縮です。
          私はしがない美容師でして、旅好き・神社好きが高じてこのようなブログになっています。
          そんなに堅苦しいところではありませんので、どうぞ気さくに、コメントください。
          私も創生塾さんでいろいろ尋ねることもあると思いますが、ご迷惑でなければ幸いです。

          いいね: 2人

          1. 創生s より:

            偲フ花様
            お名前の入力ミスを致しておりまして大変申し訳ございませんでした。
            白内障の手術をしたばかりで、言い訳となってしまいますが、どうかお許しください。

            いいね: 2人

          2. CHIRICO より:

            いえいえ、めんどくさい文字を使ってますので、お気になさらず。
            しかし白内障の手術をなされたということは、これからくっきりクリアな視界が戻りますので楽しみですね。
            まだあまり、目を酷使なさらないよう、ご自愛ください。

            いいね: 2人

          3. 創生塾 より:

            御心配ありがとうございます。
            偲フ花様の記事を夢中で読んでおります。
            勉強不足でお恥ずかしい限りですが、解らない点等ありましたら不躾ながら質問させて下さい。
            宜しくお願い致します。

            いいね: 2人

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