静岡旅はとても良い。
なぜならリンちゃんが空港で出迎えてくれるから。
でも「ゆるキャン△」の本拠地は山梨なのに、静岡の方が力入れている感強いね、なぜに。
さて、静岡の清水区由比町に「豊積神社」(とよづみじんじゃ)が鎮座しています。
紅葉の美しいこの神社は、小ぶりながらも富士山本宮浅間大社に次ぐ、駿河国二宮を謳っています。
古代において当地は、物々交換の市場が営まれたところなのだそうです。
社伝によれば、第40代天武天皇の御世、ここに五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えられています。
ところがその後、平安時代の延暦10年(785年)、神主の枕元に美麗な女神が現れ、「吾は浅間大明神なり、此処を斎庭と定め払ひ清めて御社を造営し、吾が神霊を斎き祀るべし。今より七年ノ後、坂上田村麿と称するもの、此地に来るべし」と告げ、富士山へ飛び去りました。
果たして神託のとおり、後の延暦16年(797年)の春、坂上田村麿が東征の途上に豊積神社を訪れます。
坂上田村麿は当社で戦勝祈願をし、その時、神主から夢想神託の話を聞きました。
坂上田村麿はこの話を朝廷に奏上し、後に勅使が参向し、「豊積浅間神社」の社号と官幣を奉わったということです。
坂上田村麿は東征の帰路にも戦勝報告に立寄り、ここに宴が盛大に催されました。
この時神楽が奉奏されましたが、村人たちは大太鼓をくり出し三日三晩夜を徹して町内をねり歩き、その様子が「由比のお太鼓祭」として今も受け継がれています。
ところでこの神主の夢想神託により、祭神が豊受姫から木花之佐久夜毘賣命(このはなさくやひめのみこと)に変更され、豊受姫は稲荷社として境内社に遷宮されました。
なんでやねん。
確かに延暦10年(791年)ごろ、当地含む富士山麓では浅間信仰がブームでした。ただそもそも、なぜ富士山の祭神がコノハナサクヤヒメなのか。
コノハナサクヤヒメというのは薩摩のアタツ姫のこと。宮崎西都の都萬神社で亡くなられて祀られています。
それがいきなり富士山に祀られているというのが何かおかしい。
富士山頂は火山で不毛の地です。花が咲き誇るなんて景色は見れません。
富士を不死であるとするなら、祭神はむしろ姉のイワナガヒメとなるのではないでしょうか。
富士山の本来の祭神が越智系イワナガヒメであれば、豊受姫を下がらせたというのもある程度納得できます。
豊積神社本殿の横には「山宮神社」(大山祇神)、「日枝神社」(大山咋命、速須佐之男命)、「須賀神社」(建速須佐之男命)、「稲荷神社」(倉稲魂命)、「磯前神社」(大国主命、事代主命)の5社がワンセットで並んでいます。
この中の稲荷神社に豊受さんはお住まいなのですが、かつての主祭神がそれでいいのか。
本殿を挟んで5社の反対側にも謎の社があります。
祭神がどなたなのか、情報がありません。ここにいらっしゃるのではないでしょうか、豊受姫は。
本殿の背後には、これまた素晴らしい氣に包まれた「白髭神社」が鎮座しています。
祭神は猿田彦神。
背後を出雲神が守る豊の神社が由比に鎮座していたのでした。
豊積神社からほど近い清水区庵原町のみかん畑に「豐由氣神社」(とよゆけじんじゃ)が鎮座していました。
創祀は未詳ですが、第12代景行帝の治世に皇子の日本武尊が当地に食糧庫を設け、豊受大神を勧請したと伝えられます。
当地は古墳群の南部にあり、庵原国造による神祀りの要地と比定されています。
こちらは「豐受姫命」が主祭神として祀られていますが、やはり「木花開耶姫命」が配祀されています。
コノハナサクヤヒメは浅間神社として後に勧請したものですが、この地方で浅間本宮巡拝をする者は、必ず当社に参詣したといいます。
屋根の上には謎の社紋。
境内にウロになった御神木があります。
落雷にでも遭ったのでしょうか、内部は炭になっていました。
そしてその背後には、上部に続く階段が。
果てしなく登らされるのかと思いきや、すぐに社殿がありました。
こちらは「天照皇太神宮」のようです。
一応、内宮外宮の体を様しているということでしょう。
豊積神社と豐由氣神社、年代はやや後になっての鎮座となりますが、由比町付近に豊受神を祀る一族がいたことを物語ります。
彼女は五穀豊穣への感謝として祀られました。つまり物々交換の市場などで、当地が古来から栄えていたことを表しています。
その由比町の藍染屋で、由比正雪は産声をあげたのです。
豐由氣神社の棟紋は珍しいですね。
普通に見れば篆書の「之」ですが、何か由来があるのでしょうか。
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そうですよね、気になります。
玄松子さんのサイトでは、「止由氣」の「止」なのではないかとのことですが、そうであるようなないような。謎です。
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