松下社:斎王22

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三重県伊勢市二見町松下にある「松下社」(まつしたやしろ)を参拝しました。

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こちらの参道にも山の神。伊勢・志摩地方では、山の神は祓戸的な立ち位置なのでしょうか。

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境内で一際目を引くのは樹齢2000年の大楠.

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上部が裂け、

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胴体部分が虚になっています。

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境内の外から見た図。

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当社の創建は不詳。祭神は「須佐之男命」(すさのおのみこと)と菅原道真、それに不詳一座を合わせて三座となっています。

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二見を訪れた大和姫の一行が船を泊たことから、御船社とも呼ばれているそうですが、一説には平安中期の安倍晴明が神を召喚して祀ったとも伝えられています。

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唐突な安倍晴明登場に戸惑いますが、僕がこの松下社を訪ねた目的は、その本殿の向かって左手にある小社にありました。

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これは蘇民将来を祀る蘇民祠で、通称として蘇民社と呼ばれています。

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『備後風土記逸文』の蘇民将来神話によると、話は次のように伝えられます。

武塔の神が、備後国(広島)の地で夜に宿を求めた時、そこには将来兄弟がいた。
弟の巨旦将来は豊かであったが宿を与えず、兄の蘇民将来は貧しかったが宿を貸した。

数年後に、武塔の神が八柱の子神を率いてやってきて、蘇民将来に言った。
「私は蘇民将来の恩に報いたい。お前の子の腰の上に茅の輪をつけさせよ」
蘇民将来は神の言葉通りに娘に茅の輪をつけさせたところ、その晩に娘1人を残して、他の者はことごとく殺され滅びた。
武塔神はその時名乗って言った。
「我は速須佐雄(速スサノオ)の神である。のちの世に疫病が発生したら、お前は『蘇民将来の子孫である』と宣言して、茅の輪を腰につければ、災いをまぬがれるであろう」
と。
以来人々は、蘇民将来の札をに茅の輪に吊るして厄を逃れるという。

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この蘇民将来について、『出雲王国とヤマト政権』の中で、富士林雅樹氏は次のように述べます。
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蘇民将来の「蘇」の字は、イスラエルの「ス」を意味する。
シナの「江蘇省」や「蘇洲」などもユダヤ人に由来する。
つまり蘇民とは、ユダヤ人の子孫であるハタ族を示す。

「将来」とは「~から来た人」の意味であり、蘇民将来とはユダヤ人の子孫のハタ族のことだと言われる。
また「コタン」とはアイヌ人の村の呼び方であるが、ここでは先住民の村という意味であろう。
つまリ巨旦将来とは、ハタ族以外の住民のことを示している

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「武塔の神」とは「武闘の神」のことで、「闘いに強い神」を意味します。
スサノオとは徐福のこと。
九州に渡来した徐福・饒速日(ニギハヤヒ)集団の子孫は強い武力を持っており、そのためその一族は「モノノフ」と呼ばれ、のちには「物部氏」と呼ばれるようになりました。
つまり、この蘇民将来とは、ハタ族の中でも特に武力に秀でた物部族集団のことを示していると思われます。
第二次物部東征では、イクメ(垂仁帝)らは備後国(広島県)に攻め込んでいるので、そこに蘇民将来の話が伝わったものと考えられます。

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この話は、ユダヤの「過越し祭」の話に似ていると、富士林氏は著書で述べておられます。

ユダヤ人は毎年、過ぎ越し祭を行う。それは、『旧約聖書』の「出エジプト記」に由来する。
かれらがエジプトで奴隷になっていたとき、かれらの家の戸に羊の血で印をつけていたら、ヤハウェの神の災いが「過越し」たと言う。
この出来事を記念する行事が、過越し祭であった。この行事には、ユダヤ人の選民思想が表れている。
ユダヤ人は少数民族であったので、大国に減ばされることを恐れた。それで、ユダヤ人の数を増やし、自分たちの国を大国に育てたいと考えた。
そのため、独自の宗教を創ってほかの民族との混血を防ぎ、自分たちの民族が永久に存続するようにした。
印をつける行為には、ほかの民族と区別するという隠れた目的があった。かれらは、自分たちの子孫を大切にするという考えが強かったので、蘇民将来の話をつくった。
かれらはイスラエル国外では、素性を隠す習慣がある。かれらの考えを理解するためには、その隠し表現を見抜く必要がある。
後世に日本に渡来した秦氏も、ユダヤ系であると言われる。秦氏が穀物神・宇賀魂を祀った稲荷神社は、社殿や鳥居が赤く塗られるが、これは過越し祭に塗る羊の血の色にち
なむと言われる。京都の八坂神社の社殿が赤く塗られているのも、同じ意味だと言う。

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武闘の神は確かに物部的でありますし、その伝承がこの松下社に伝わっているということは、物部族が伊勢にもいたことの査証となりうるでしょう。
蘇民将来神話が物部族による原住民虐殺を示す話というよりは、イスラエルの旧約聖書の伝承である可能性に救いも感じます。
しかし当地にいた「蘇」民は果たして彼らだけのことでしょうか。

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僕はもう一つの、古い蘇民の可能性を思い描いてしまうのです。

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2件のコメント 追加

  1. Yopioid より:

    芦品郡新市の通称素戔嗚神社こと、疫隈神社ですね!お隣の神石郡という陸の孤島で働いていた時にたまに行きましたが、その頃出雲口伝は知りませんでした。ユダヤ人は2波やってきたんですかね。古代に出雲と合流したのと、後から九州にきたのと。

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 より:

      僕はまだ、福山の素戔嗚神社には行ったことがないです。行ってみたい。
      Yopioidさんのおっしゃる通り、ユダヤの血を引いているという徐福らは二度、日本に来ています。
      一度目は出雲でホアカリと、二度目は佐賀でニギハヤヒと名乗っています。佐賀に来た時の子孫が武闘派で、後に大乱を引き起す物部族です。

      いいね: 1人

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