出石神社〜日矛伝(神功皇后紀外伝)

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男は茫洋と広がる景色の中にいた。

(これは夢か、私は眠っているのか)

男はそう理解した。
しかし見えている映像は、曖昧な夢というには、あまりにリアルで、鮮明だった。
その場所に見覚えがあった。

「誰にも受け入れてもらえない人生だった。」

男は故郷から見捨てられた。
彼の父は、長男である彼ではなく、次男に国を継がせたいと考えた。
長男には山ほどの財を積んだ船を与えられたが、捨てられたのだ、という思いを払拭することはできない。

船出した男は、行く先でもことごとく拒否された。
世界がまるで自分を嫌っているかのようだった。
王の子であるのに、全てが自分を裏切った。

放浪の末に私の手に残ったものは何だったか。
もうさほど寿命が残されていないことを悟っていた男は、自分の人生を呪いかけた。
と、見ている景色に変化が起きた。
大きな波しぶきをあげて、海を埋めつくさんばかりに大船団が岸に乗り付ける。
一人の若く美しい女が目についた。
あれは。

男はそこが自分の故郷であることに気がつく。
そしてその女は、この国の王や重臣を平伏させていた。
自分を捨てた国が、一人の女に制圧されている、その姿がなんとも愉快だった。
知らない女だったが、見覚えがあるような気がしている。
後ろには大和の男達を大勢引き連れていた。
美しい…気高き女性。

「あなた、」

男、日矛はゆっくり目を開いた。
そこには優しげな女の笑顔が見えた。

「麻多島か。」

日矛は妻の名を呼んだ。
起こすこともままならない体を、精一杯持ち上げると、息子らの姿もそこにあった。
彼らも様々な表情で、こちらを見ている。

「心配ない、向こうへ旅立つのは、もう少し先のようだ」

日矛は霞んだ目で、一人一人の顔を見つめ、最後に妻の顔を見た。
そこには確かに、あの美しい女の面影が見てとれた。

(そうか、あの女は儂の末の者か)

そして自分の子孫が祖国を平らげている姿を思い出し、無性に可笑しく、爽快になった。

(そうだ、儂を受け入れてくれた者たちが、国がここにあった。
何も成せぬ人生だとひねくれもしたが、そうではなかった。
ここに集う皆を生み出し、未来へと続く種を得たのだ。
儂の子らはいずれこの国の王にもなりえよう。)

開け放たれた屋敷から見上げた外の世界は、青い空と海が眩しく、
日矛はまたゆっくりと目を閉じていった。

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兵庫県の日本海寄り、豊岡市に但馬国一之宮「出石神社」(いずしじんじゃ)が鎮座します。
ここは渡来人である「天日槍・天日矛」(アメノヒボコ)を祀る神社です。

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出石神社から日本海側に向かうと、日和山海岸(ひよりやまかいがん)があります。
天日槍はこの辺りから上陸したと云います。

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紀元1世紀の古代出雲王国が隆盛していた頃の話です。
天日槍は新羅の前身である辰韓の王の長男でした。
しかし辰韓王は日槍の弟に王位を継がせたいと考え、後継争いを避けさせるため、長男に家来と財宝を持たせて和国に送ったと云います。

日槍はまず出雲に辿り着き、出雲王に上陸を求めました。
そこで出雲王は天日槍に、出雲の法律である「八重書き」を説明して、それを守ることを条件として伝えました。
しかし日槍は守るつもりはないと答えてしまいます。
日槍は当時、島流しされたという思いから心が荒れていました。
当然出雲への上陸は拒否されてしまいます。

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次に日槍は但馬国(たじまこく)にやってきましたが、ここでも上陸を拒否されます。
そこで円山川中流の沼地に船団を浮かべ、水上生活を行うようになりました。
円山川の河口では津居山が沼の排水を妨げていたので、日槍は指揮を取り、津居山の端を削り取る大工事を行いました。
すると見事、沼の水が流れ出し、平野となったと云います。
天日槍はその功績で、その平野に居住することを許され、そこで一生を終えました。

日和山海岸の沖合には、龍宮を模した建物が建っていました。

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出石神社の鳥居を過ぎると、まっすぐに伸びた参道に石灯籠が規則正しく立ち並びます。

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一宮と彫られた扁額は、当社の誇りを伺うことができます。

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古事記によると、天日槍は次のように物語られます。

ある時、新羅国アグ沼のほとりで卑しい女が1人昼寝をしていましたが、日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産み落としました。
それを見ていた卑しい男は女に詰め寄り、それを譲り受けます。
男が谷間で牛を引いて殺そうとしていたのを、天日槍がやってきて咎めました。
男は日槍に許しを乞うて女から受け取った赤玉を献上しました。

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天日槍が玉を持ち帰ると、それは美しい少女の姿になりました。
そこで日槍はその少女と結婚し、正妻とします。
しかしある時、日槍が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って小船に乗り込み、大和の難波へ向ったといいます。
女は難波の「比売碁曾社」(ひめごそ)の「阿加流比売神」(アカルヒメ)として祀られることになりました。

天日槍は妻が逃げたことを知り、大和に渡来して難波に着こうとしたその時、浪速の渡の神(ナミハヤノワタリノカミ)が遮り、渡ることができませんでした。
あきらめた日槍はそ新羅に帰る途中、但馬国に停泊し、そこの「多遅摩之俣尾」(タジマノマタオ)の娘「前津見」(サキツミ)を娶ることになり、そのまま但馬に留まり子孫を残したと云います。

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日本書記には、垂仁天皇3年春3月に、天日槍が七種の神宝を持参した話が記されています。
天皇は、日槍に播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしましたが、日槍は諸国を巡って心に適った土地に住みたいと希望します。
天皇の許しを得た日槍は、宇治川を遡って近江国に一時住み、若狭を経て、但馬国に住みつき、出石の大耳の娘、麻多島を妻として但馬諸助を生んだと云います。
その但馬諸助の子が日楢杵、その子が清彦、その子が田道間守であると云うことです。

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立派な神門には茅の輪が掛かっていました。

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神門の横には、発掘された平安時代の鳥居の一部が無造作に置かれていました。
豊岡から出石へ行くバスの道筋に「鳥居」というバス停があるそうですが、そのあたりが二の鳥居であったというなら二の鳥居から本殿まで1km強、一の鳥居から本殿までは5kmと、とてつもなく広大な神社であったことになります。

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御祭神は天日槍が将来した八種の神宝でこれを「出石八前大神」とし、「天日槍命」を併せ祀っています。

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天日槍が持参したとされる神宝は、その数も伝承でまちまちですが、
古事記では「珠二貫」「振浪比礼」「切浪比礼」「振風比礼」「切風比礼」「奥津鏡」「辺津鏡」、
日本書紀では「羽太玉」「足高玉」「鵜鹿鹿赤石玉」「出石小刀」「出石桙」「日鏡」「熊神籬」合わせて七種
また一に云うとして、「葉細珠」「足高玉」「鵜鹿鹿赤石珠」「出石小刀」「出石槍」「日鏡」「熊神籬」「胆狭浅太刀」の八種と伝えています。

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創祀年代は不詳ですが、社伝によると、「谿羽道主命」と「多遅麻比那良岐」とが相謀って天日槍命を祀ったと云うことです。

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出雲王家の子孫「富家」と天日槍の子孫「神床家」の話では、
出雲の法律である「八重書き」を守るつもりはないと答えた天日槍に、出雲王は、出雲・石見などに居住する事を禁じ、他の居住地を探す事もしなかった、と云います。
これが元で、日槍とその従者たちは大変な苦労を強いられることになりますが、その因縁が後に出雲と但馬、そして大和王国を含めた諍いへと連なっていきます。

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本殿の左手に、ひっそりと隠れるように小さな社がありました。

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「市杵島比賣神社」でしたが、市杵島比賣は出雲系の宗像の姫君です。

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本殿の右側に回ってみます。
社殿は幾度か火災・兵火にあい、今日に至っていると云うことです。

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「比賣社」と「夢見稲荷社」がありました。
比賣社の祭神は、天日槍の妻である「麻多島」です。

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その奥に、「禁足地」とだけ書かれた、石柱に囲われた聖域があります。

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ここには天日槍が眠っていると言い伝えられています。

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祖国から見捨てられ、長い船旅の先に心の荒んだ日槍は、やがて但馬の地に安息を得ました。
その土地も自らの土木工事で生み出し、子孫のために開拓し、そこで命を削って但馬を出ることはなかったそうです。
北但馬には、当社を中心として天日槍一族郎党にまつわる神社が多く鎮座していますが、日槍の子孫は彼の開拓した土地で繁栄し、やがて秀でたリーダーを生み出していきます。
それが「田道間守」(タジマモリ・当麻蹴速)であり、伊都国県主の「五十迹手」(イトテ)であり、そして新羅を征伐した「息長帯比売・神功皇后」なのです。

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