
萩の城下町は、土蔵・門・土塀などが建ち並び、400年前の古地図が今でも使えるくらい変わらない美しい町です。
数々の偉人を生み出した、小さな町をぶらり散策します。


「金毘羅社・円政寺」は、幼いころ「伊藤博文」や「高杉晋作」が学んだ寺院です。

円政寺は同じ境内に寺と神社が立ち並びます。
その象徴がこの鳥居で、神社の鳥居の柱の上部に丸い石が置かれています。
この石はお寺で使う数珠を表しているそうです。

こちらが神社で、

こちらがお寺。

金毘羅社の拝殿の前には天狗の大面があります。
高杉晋作が幼い頃、家人から何度もここへ連れられて、この面を見て怖がりにならないよう躾られたと云います。

この城下町では景観を保つために様々な努力を住民の方は行っているそうです。
細い道の側溝は、蓋がされず、むき出しのままとなっています。
電柱は個人の敷地内に隠され、増改築もすべて許可がいるそうです。


少し歩くと、「木戸孝允」(きどたかよし)の旧宅がありました。
木戸は後の「桂小五郎」です。

簡素な屋敷ですが、不思議と落ち着きます。

窓から見えるミカンの木が印象的でした。

また少し歩きます。

白壁が美しい「菊屋」屋敷では、当時の暮らしぶりを垣間見ることができます。

菊屋は萩藩の豪商の住宅です。

主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場は、重要文化財に指定されています。

日本最古の町家とも言われているそうです。

庭園がとても素晴らしいです。
中央にある大きな平石は駕籠を乗せた場所だそうです。

庭には梅の花が咲いていました。


さて、萩の武家屋敷では夏みかんも名物です。
ちなみに写真に写っているのは冬のみかんだと思います。

また、萩といえば萩焼。
千利休による「茶の湯」全盛の頃、毛利輝元は萩の土を用いた、独特な萩焼を生み出します。
ざっくりとした焼き締まりの少ない柔らかな風合いの萩焼は、表面の細かなヒビ(貫入)があり、お茶が器の中に浸透します。
使い込むほどに器の色合いがだんだんと変化し、それが侘びた味わいと、多くの茶人を魅了してきました。
城下町にも萩焼の店がたくさんあって、見てるだけでも楽しいです。


そして着きました。
幕末の風雲児「高杉晋作」の誕生地です。

かつては500坪あったという屋敷は、今は半分程度に縮小されています。
決して広いとはいえない、敷地内を歩いてみました。

幕末の志士で、僕が最も大好きなのが高杉晋作。
まだちょんまげが主流の中、散切り頭で三味線を嗜み、斬新で常に革命的であったことが魅力です。

晋作は、天保10年(1839)に高杉小忠太の長男として生まれます。

藩校明倫館に通う一方で松下村塾に通い、頭角を表し、「久坂玄瑞」と並んで「松門の双璧」と称されたそうです。

やがて藩の代表として上海へ派遣された時、外国に支配される上海を見て、晋作は今の日本に危機感を抱きました。
閉鎖的な今の幕府ではいけないと、晋作は倒幕の考えを持つようになり、文久3年(1863)、身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を結成します。
幾度かの争いの後、討幕戦を勝利へと導きましたが、持病の結核が悪化し、慶応3年(1867) 、27歳と8ヶ月という若さでこの世を去りました。

初代内閣総理大臣である伊藤博文は、高杉晋作のことを「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と詠ったそうです。

「西へ行く人をしたひて東行く 心の底そ神や知るらむ」
東行と名乗ったときに詠んだ晋作の句が屋敷内に残されていました。

外に出てほど近い公園に、高杉晋作の像があります。

命そのものを燃やすように駆け抜けた、男たちの熱が染みた、そんな町並みが萩には残っていました。
