浮盃:筑秦ノ饒速日 02

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「徐福様、陸地が見えて来ました。」

船室で資料を確認する男の元に、伝令がやって来て言う。

「うむ、そうか。」

安堵する男の目の下には隈ができていた。
彼と共に船出したのは数十艘の船と3000人を超える人数だったが、広大な東シナ海を進むうちに嵐に遭い、その数は半分に減っていた。
彼の二度目の渡航は荒れていた。

「私はついに蓬莱仙島にたどり着き、確かにそこに長生不老の薬があるのを見ました。
しかし、私が持っていた贈り物が少なかったので、仙人は薬を分けることができないと申されます。
さらに海の中には怪物がいて、これに打ち勝つには兵士や武器が必要でしょう。」

西出雲への渡航を果たした徐福は、再び秦国へと帰国した。
目的を果たせなかった徐福は死を覚悟したが、皇帝は彼を許した。

西方の遊牧民族「犬戒」(けんじゅう)の「周」への進攻に始まった中華春秋の乱世は、550年の長きに渡る「春秋の五覇・戦国の七雄」の血みどろの争いの果て、周を覆した秦王「嬴政」(えいせい)によって統一に至った。
「政」は、紀元前221年、都を「咸陽」に定め自らを「皇帝」と称する。
彼こそが、世に悪名も名高い、「秦の始皇帝」である。
始皇帝は早くもその2年後、紀元前219年に全国巡行の旅に出て、「琅邪」に三ヶ月滞在した。
この時徐副は1回目の「不老不死薬」に関する意見書を始皇帝に上奏している。

史記の「淮南衡山列伝」(わいなんこうざんれつでん)によれば、「始皇帝大いに喜び、良家の男女三千人を使わし、五穀の種と百工をたずさえて渡海させた。徐副は平原と沼のある島にたどり着き、そこにとどまって王となり、帰ってこなかった。人々は嘆き悲しんだ。」と伝えている。

始皇帝は徐福の二度目の渡航を疑いつつも、3000人の童男童女に加え、五穀の種と百工を携えさせて出港を許した。

「これは何とも懐かしい風景よ。」

近く陸地の景色を見た徐福はつぶやいた。
そこには故郷と同じ干潟が広がっている。
ツンと鼻を突く潮の香りが郷愁をそそった。

「私の酒杯を持って来なさい。それを海に浮かべて、杯がだどりついた場所に上陸します。」

徐福が見つめるその目の先には、干潟の湾に葦が茂り、美しい円錐の金立山が遠くそびえていた。

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有明海から筑後川を少し遡ったところに「浮盃」(ぶばい)と呼ばれるところがあります。
出雲王家の子孫という「斎木雲州」氏は、二度目の徐福上陸地は、この浮盃であると言っています。
有明海にたどり着いた徐福は、盃を海に浮かべ、流れ着いたところから上陸することにしたというのが名の由来です。

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浮盃(佐賀市諸富町)の海岸には、「片葉の葦の伝説」があります。
上陸した徐福一行は、生い茂る葦を払いながら進みました。
その時、片側だけを払ったので、以来この辺りの葦は片葉となったと云います。
水辺に落ちた片葉は、筑後川河口だけにしか棲まない「エツ」という魚になったとも言い伝えられています。

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浮盃の港から少し内陸に入った場所に、金立神社の跡地があり、そこに徐福上陸の記念碑が立っています。

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徐福上陸の伝承は、日本全国各地に存在します。
なぜそのようなことになるのかというと、1回目の渡航が2000人、2回目の渡航に3000人の童男童女を連れ立って旅立ったとありますので、その渡航の途上で嵐などに遭い、散り散りに漂着した者たちが徐福を名乗ったのではないかと考えられています。

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また、中国における徐福伝説が日本に伝わったのは、「史記」を読める人達が日本に出現した「遣唐使」制度が定着した頃からだろうと思われます。
日本人が「徐福」を知り、そして自らの故郷にある渡来人の言い伝えはこれに違いないと考え、各地に徐福伝承が生まれたのではないでしょうか。

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「秦氏」は秦国からの渡来人の末裔である可能性が高く、京都や大阪に残る太秦(うずまさ)という地名、また、畑、羽田、波多などという姓や地名も「秦」から変化したものと云われています。

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敷地内の祠の中には、立派な徐福像が鎮座していました。

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佐賀市諸富町にある「橋の駅ドロンパ」の向かって右手に徐福像があります。

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側には旧国鉄佐賀線として活躍した「昇開橋」があり、以前は列車の通過にあわせて中央のケタが上下する可動橋でした。
現在では遊歩道が整備され、1日に8回橋が降下し歩いて渡ることができます。

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この徐福像は、「徐福東渡2222周年」を記念して徐福が出航した場所と言い伝えられる中国慈渓市と上陸地と伝えられる佐賀市との交流を深めるため慈渓市から贈られたものです。

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この時、佐賀市からは徐福が愛した「お辰さん」の陶板を慈渓市へ贈ったそうで、その同じものが、徐福長寿館に展示されています。

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諸富町に「徐福御手洗の井戸」と伝わる場所があります。

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そこは現在、個人宅の敷地内に小堂に覆われて大切に保存されています。

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偶然いらっしゃった、お宅の奥さまに庭に入れていただきました。

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この地に上陸した徐福一行は、きれいな水がなかったために井戸を掘ったそうです。
そしてその井戸の水で上陸時に汚れた手を洗ったので、「御手洗の井戸」と呼ぶようになったと云います。

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和銅3年(710年)再びこの井戸は掘られましたが、その時に光を放ち、火災などの災厄が続発したそうです。
そのためにもう一度封印されることとなりました。
この時同時に「手洗い」の伝承から、この土地一帯を「寺井」という名に改めたと伝わります。

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大正15年(1925年)の史跡調査で偶然、石で封印された井戸跡が発見され、これを徐福の御手洗井戸として認定されたそうです。
井戸の棚には、発掘されたものでしょうか、石片のようなものが置かれ、側には小さな社が鎮座していました。
こちらの奥様にお礼を申し上げ、井戸を後にしました。

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徐福は蓬莱山に似ている「金立山」(きんりゅうざん)に不老不死の妙薬ありと見て、出発します。
しかし道は荒れ、歩くのに困難な状態でした。
そのため布を敷き、歩きやすくしたと云います。
現在の佐賀市金立町千布辺りに達した時、ちょうど千反の布を使いきったので、この地域を「千布」(ちふ)と呼ぶようになりました。

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金立山の麓に、「徐福長寿館」があります。

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そこでは徐福に関する伝承を、資料などをもとに、詳しく教えていただけます。

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外は薬草園になっていて、徐福にまつわるものを中心に、様々な山野草・薬草を鑑賞することができます。

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金立山に登った徐福が、不老不死の霊薬として発見した植物が「カンアオイ」だと伝わっています。
金立地区ではこれを「フロフキ」と呼んでいます。
そう不老不死=フロフキとなったそうです。

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フロフキは現在でも金立山に自生しているということです。

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館内に飾られた、このうっとりとするような美しい陶版は、徐福東渡2222周年を記念して徐福出航地の中国慈渓市と上陸地佐賀市との交流を深めるため、慈渓市へ贈ったものと同じものです。
前面の観音は、徐福に恋した「お辰」であり、背後には金立山と徐福の船団が描かれています。
とてもすばらしい陶版です。

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徐福の伝説は、中国においても日本においても、確たる証拠がなく、存在を疑う声が大きかったと云います。
しかしそんな中、1982年、一人の中国人学者が偶然、現在の中国江蘇州かん楡県に「徐福村」(徐阜村)を発見しました。
本格的な調査の結果、最終的に、まさしくここが「徐福」の居た村である、という結論を導き出すに至ったのです。

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また、そこには2000年の由緒正しい系図を持つ徐福の子孫が健在である事も判明しました。
ただ、徐阜村には現在「徐」姓を名乗る者が一人も居ないのですが、古老が語るには、
『徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや「徐」姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう「徐」姓は名乗ってはならない。」「それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」』
と云うことです。
それゆえに、長い間、徐福の痕跡は中国でも見つからなかったのです。

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では徐福は果たして航海の末に日本までたどり着けたのか。
後世の「遣唐使」船は、平底船で極めて波切りが悪く、風によっては帆を降ろさねばならずその為多くの漕ぎ手を必要としたが、それでも乗員と使節団合わせて500人を4隻の船で運んだ事が記録されているそうです。
最近中国では「秦」代の造船所の船台跡が発見されたそうですが、そこから復元された船は、総量5,60トンのりっぱな外洋船だったとか。
古代の建造技術は、僕らが想像する以上に進んでいたのかもしれません。

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天下統一後の始皇帝は、神仙の道に心を奪われ、「不老不死」の霊薬を必死で求めます。
その白羽の矢が立ったのが徐福でしたが、徐副自身が「不老不死」の薬を本当に信じていたのかは疑わしいところです。
始皇帝の残虐ぶりは有名で、出雲での失敗には死を覚悟したことでしょう。
しかし敢えて始皇帝の前に徐福は姿を現し、言葉巧みに皇帝を説き伏せ、再びに日本へ渡航する許しを得るのです。
そこには3000人もの子供達を連れて。

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亡国の徐福たちが新天地で目にしたのは、母国に酷似した景色でした。
それは有明海に広がる干潟です。

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その景色、風習は今も、中国と佐賀のそれは酷似しているそうです。
苦難の末にたどり着いたその景色に、彼は涙したに違いありません。

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徐福は、出雲に上陸した時は「火明」(ホアカリ)と名乗り、筑紫にあっては「饒速日」(ニギハヤヒ)を名乗ったと云います。
また記紀ではアマテラスの弟、出雲の英雄神として「スサノオ」と表記されました。
これらの伝承が、徐福の存在を希薄にさせた原因の一つかもしれません。

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徐福は、浮盃に至り、土地案内を源蔵という者に頼みました。
源蔵には娘の「お辰」がいましたが、徐福の世話をするうちに、精悍な徐福に恋をします。
しかし、徐福が金立を去るとき「5年後に戻る」と伝えたのですが、通訳が間違って「50年後に戻る」と訳してしまったため、お辰は悲しみのあまり入水したと伝えられています。

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金立神社のお辰観音はこの悲恋に由来するものですが、50年毎に行われる「金立神社のお下り」の祭りでは、必ずお辰観音が出迎えて一夜を共にする行事が今も続けられています。

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