サルタ彦が阿邪訶(あざか)の地にいた時、漁をしていると、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、海に引き摺り込まれて溺れ死んだ。
それで、サルタ彦が海に沈んでいる時の名を「底度久御魂」(そこどくみたま)、吐いた息の泡がブクブクと浮き上がって来る時の名を「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)、泡が水面で弾ける時の名を「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)と呼んだ。
『古事記』
阿射加神社へ行く途中、白川稲荷を見つけたので、寄ってみました。
とても小さな神社ですが、江戸の頃はそれなりに参拝する人もいたようです。
地元に愛される神社のようですが、なんでも失せ物探しにご利益があるとか。
僕の失われた青春も、どうか探して来てください。
「阿射加神社」(あざかじんじゃ)にやって来ました。
阿射加神社は三重県松阪市にあります。
パチリ。逆光だったので、スピ系大好きオーラ写真を撮ってみました。
最近になってようやく分かって来たのですが、絞り値(F値)を上げて撮影すると、オーラ感マシマシの写真が取れるようです。
でもまあどうなんでしょうか、この手の写真は愛され感はアガるのかもしれませんが、僕には下品な写真に思えてならない。
逆光は、なるだけ遮って、光の陰影ある写真を撮ったほうが、色の深みが増して、よほど神々しいと思います。
千利休は「花は野にあるように」と言ったけれど、これは「花を野にあるがままに生けなさい」という意味ではなくて、「野に咲く命の美しさを知りなさい」という意味だと僕は理解しています。写真も神も、同じではないだろうか。自己主張の激しいあからさまな存在感よりも、ただそこに在る、そこはかとない命の美しさの方が、僕の神にはふさわしい。
と、まあそんなことはさておき、阿射加神社は松阪市に2社あります。
小阿坂町の阿射加神社と大阿坂町の阿射加神社です。
こちらは小阿坂町の阿射加神社となります。
『皇太神宮儀式帳』によると、大和姫が藤方片樋宮において天照大神を奉斎していた時に、垂仁天皇の使者である「阿倍大稲彦」(あへのおおしねひこ)が「阿佐鹿悪神」(あさかのあらぶるかみ)を平定したと記してあるそうです。
『倭姫命世記』では、阿坂の峯に「伊豆速布留神」(いつはやふるのかみ)がいて通行の邪魔をするので、山上に神社を造営し、度会氏の祖である大若子(おおわくご)に祈らせ、その心を和ませたとあります。
また『倭姫命世記』は、所引の一書として、阿坂山の神を「荒神」(あらぶるかみ)としており、「悪神・伊豆速布留神」が当神社の祭神であると伝えています。
阿射加神社はもともと阿坂山上に鎮座していたとされ、そこから山麓への遷座したと考えられていますが、その遷座地をを小阿坂とするか大阿坂とするかによって説が分かれています。
また、『延喜式神名帳』には「阿射加神社三座」とあり、両社は3座の中の2座で、別に1座があるとする説もあるようです。
本殿は切妻造の社殿が3つ。
祭神は「猿田彦大神」「伊豆速布留神」「竜天大神」です。
本殿の手前横には大きな木の切り株がありました。
現存していたなら、さぞ立派な御神木であったろうと思われます。
境内社に「大若子神社」が鎮座しています。
祭神は「大若子命」ですが、境内社の天日別神社(もと八幡神社と称したが、境内社の貴船神社等5社を合祀して改称したもの)と八雲神社(大正元年に近在の無格社である愛宕神社・津嶋神社・秋葉神社・山神社等9社を合祀していた)を合祀しています。
この天日別神社ですが、もとは八幡神社(豊系?)だったところに貴船神社(越智系?)を合祀したというあたりの変遷が気になります。これだけをもってして、天日別は越智系であり、度会氏もしかり、と主張するのは、流石に突飛すぎるとは思うのですが。
大若子神社の横の祠みたいなやつの中には、たくさんの狛犬がいらっしゃいました。
なんか怖い。
そんで、その横には、意味深な丸い石。
この大若子神社の祭りに、1月14日に行われる「御火試」(おひだめし)・「粥試」(かゆだめし)があります。
御火試神事は、囲炉裏で焼いた樫の木の先端を月数を書いた板に押しつけて、その灰の色で各月の天候を占うもの。
粥試神事は小豆粥に竹の管を入れ、管に入った米と小豆の量で作柄の豊凶を占う粥占なのだそうです。
また同じく1月14日に行われる「羯鼓踊り」(かんこおどり)は、元は雨乞いのために初夏に踊られていたと思われるが、後に豊作を迎えた年の秋に踊られるようになり、現在では大ドンドを焚きながら、勢子入りから始まる唄にのって、子ども達が神への感謝と当年の豊作を祈願する踊りとなっています。
もうひとつの阿射加神社、松阪市大阿坂町の阿射加神社へやって来ました。
こちらは、昭和8年頃まで、かんこ踊りが踊られていましたが、今は途絶えているとのこと。
社伝によると、10月8日の、この祭りは「白酒祭」(あまさけまつり)と呼ばれていたそうです。
大阿坂の阿射加神社は参道が長い。
杜に囲まれた、心地よい道をゆっくりと歩みます。
古事記では、サルタ彦は、瓊々杵の天孫降臨を手伝った後、伊勢国阿邪訶の地で比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死んだとありました。
その時に化生したサルタ彦の3つの御魂、「底度久御魂」(そこどくみたま)・「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)」・「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)が、小阿坂・大阿坂の阿射加神社祭神であると唱える人も少なくありません。
では阿坂の峯にいたという荒ぶる神「伊豆速布留神」(いつはやふるのかみ)とは、サルタ彦のことだったのでしょうか。
サルタ彦を祀る鈴鹿の「椿大神社」社伝では、伊勢の阿邪訶にて溺死したサルタ彦は、後に同神社の高山土公神御陵に葬られたとされており、これを御陵としています。
これを地図で確認すると、このような位置関係になります。
サルタ彦は阿邪訶(あざか)で漁をして溺死したといいますが、阿邪訶の地は内陸にあります。古代に海岸線は、今より内陸寄りだったとはいえ、少々無理があるような感じです。
いったいこの、サルタ彦殺人事件伝承は、何を伝えているのか。
ようやく長い参道の終点に来ました。
ひっそりとした境内に、社殿が佇みます。
当社祭神は「猿田彦大神」「伊豆速布留神」「底度久神」となっています。
本殿は神明造の1社のみ。
ほか、玉垣内に数社(4社?)の小社が鎮座していました。
阿坂峯の「伊豆速布留神」は、道行く者の半数を殺すという恐ろしい神、しかし『筑後国風土記』にある
「昔、筑前と筑後の境の鞍韉盡坂(したくらつくしのさか)に、麁猛神(荒ぶる神)がおり、往来の人々の半数を殺してしまう。筑紫の君と肥の君らが占いによって、甕依姫を巫女としてその神を祀らせた。それ以後、人々が殺されることはなくなった。」
という伝承にも似た話があるので、この逸話は何かしらを暗示するものなのでしょうか。
ともあれ、出雲族のサルタ彦は、道ゆく者を見守りこそすれ、半分の命を奪ったりはしない神なのですが。
はじめまして よれ と申します。
>サルタ彦は阿邪訶(あざか)で漁をして溺死したといいますが、阿邪訶の地は内陸にあります。
>古代に海岸線は、今より内陸寄りだったとはいえ、少々無理があるような感じです。
>いったいこの、サルタ彦殺人事件伝承は、何を伝えているのか。
時代が変わるタイミング(平成→令和)で「元伊勢ラリー」をやっていた時に同じことを思っておりました。
とはいえgooglemapを衛星写真にすると「平地と山のちょうど境目だよなぁ」とも思うので、この殺人事件の顛末はあり得なくもないかな と。
なんてのを思い出しました。(椿大神社の陵墓も同じような話かと)
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よれさん、偲フ花へようこそお越しくださいました♪
サルタ彦は、出雲族が信奉していたサイノカミの子神(父はクナト神、母は幸姫)で、インドのガネーシャが元ネタだそうです。この伊勢でのサルタ彦殺人事件が、一体何を示しているのか、少々気になります。普通に考えれば、伊勢にいた出雲族が殺された話になりそうですが。
『倭姫命世紀』の元伊勢巡りもしばらくやっていましたが、コロナあたりでコンプは諦めました😅
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🐥花は野にあるように。花は野にあるように自然で生命力溢れる瑞々しい様相が良い…生け花が野にある花のように精彩を放っている様子は美しい。🐤ところで、御火試とは拷問か何かの一種ですかね。焼けた木を押し付けるとか痛々しい。そうなると粥試も粥鍋に何かナマモノをぶち込んでそのナマモノが飲み込んだ粥の量を測るとか🐣
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