金長神社・金長大明神:たぬカタリ case of 金長

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むか~し、むかしのぽんぽこぽん。
あわの国の小松島の、日開野(ひがいの)に、大和屋ちゅう染め物があったんや。
大和屋の茂右衛門(もえもん)が町の外れを歩きよると、大きな木の周りに人だかりができとるやないか。
「なにごとじゃ?」
茂右衛門は一人の男に尋ねた。
「この木の穴ん中に、金長(きんちょう)ちゅう悪だぬきが隠れ棲んじょるのよ。今からそやつを燻り出して、こらしめたるんじゃ」
「なんと…」
茂右衛門が大木を見上げると、ちらりと小さなしっぽが見えた気がしたんや。
「まあまあ、たぬきにはもう悪さをせんよう、わしが説得しよう。無益な殺生をするよりも、さあ、これをもって気持ちを収めとくれ」
茂右衛門はたぬきを哀れに思い、町の者たちに銭を与えて金長を救うたった。

そんなことがあってからというもの、茂右衛門の染物屋は不思議と繁盛した。
「おやっさん、少し話をきいてくれんじゃろか」
「なんや、万吉」
ある時、大和屋へ奉公に来とった万吉という少年が、茂右衛門に語り出した。
「実は、わっしはあんたに助けられた、たぬきの金長や。わっしは206歳になるけんど、この付近のたぬきの頭を務めとる。どこぞ知らん悪だぬきの罪を被ってしもて、あの大木であわやこの命も仕舞いかと思うとったところやった。せめてもの恩返しに大和屋を手伝うとったけんど、これからもここにおらせてもうてええやろか」
「そうであったか、店の評判がようなったのはお主のおかげやったか」
茂右衛門は万吉に衣食住を与え、それからも万吉・金長はせっせと働いた。
そのうちに金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりしてな、また、茂右衛門が仕事で迷うことがあると万吉が助言をし、その内容は必ず正しかった。
評判が評判を呼んで、大和屋はますます繁盛したんやと。

またある時、金長は茂右衛門に相談をもちよった。
「わっしはたぬきの頭株やけんど、まだたぬきとしての位を持っとらん。そこで修行のため、しばしの間、いとまをいただけんやろか」
「そうか、お主がおらんくなるは寂しいが、それが望みだったら仕方あるまい。わしのことは気にせんでええ、思う存分修行してまいれ。そして思いを成し遂げたなら、またここへ帰ってくるとええ」
そうして、金長は茂右衛門に深々と頭を下げ、大和屋を後にしたんやった。

金長は子分の、藤の木寺の鷹(たか)を連れ立って、津田の化けだぬき・六右衛門(ろくえもん)に弟子入りした。
「う~む、此奴はなかなかのたぬきじゃわい。なんとかして、わしの身内に取り込んでしまわな」
六右衛門は四国たぬきの総領であったけんど、人を化かして物を奪うなどの悪事も働いとった。金長は修行で抜群の成績を収め、念願の正一位を得る寸前までになっとったけんど、六右衛門は金長を手放したら、彼が後々の脅威となることを恐れとった。
「のう、金長よ、わしの娘の鹿の子姫(かのこひめ)がお主に恋焦がれとるようじゃ。どうや、鹿の子と夫婦になって、わしの跡を継ぎ、息子の千住太郎の後見人になってもらえんかいの」
「六右衛門様、まこと有難いお言葉けんど、わっしには茂右衛門殿へ大恩があります。このご恩をお返しするまでは、他のことに気ぃ使えんのです。それまではご縁談のお話、容赦してつかぁさい」
金長は茂右衛門への義理に加え、六右衛門の残虐な行いを知っとったけん、これを嫌うて申し出を拒んだのじゃった。
六右衛門は、金長の言葉に反論できず、日開野へ帰っていく金長と鷹を見送るしかできなんだ。

それからすぐのこと、日開野へ帰る途中の金長と鷹の下に、鹿の子姫がやってきて言うたんや。
「金長さま、父の配下の四天王、作右衛門たちがこちらに向かっております。どうか、急いでお逃げください」
「いや、どのみちもう日が暮れる。そう言うことであれば、ここで迎え撃とう」

日が沈むと、辺りにひたひたと、たぬきの群れの足音が聞こえてきた。
「よし、今や」
掛け声と共に、金長と鷹は草むらから飛び出し、作右衛門たちを投げ飛ばした。
たぬき衆らは金長の勇ましさにおそれをなしたけんど、多勢に無勢、しだいに金長は追い詰められたんや。
「もはやこれまで、金長さま、逃げてつかぁさい」
鷹は金長を囲むたぬき衆の中に飛び込み、金長をかばった。ほなけんどそん時、鋭い爪が鷹の背中を、ふかぶかと切り裂いたんや。
「鷹ーっ!」
「金長さま、はよう、お逃げ、を」
金長は悲しみをこらえ、なんとか日開野へ逃れたのやった。

「お父さま、金長さまを許してください」
「いんや、やつをこのままにはしとけん。作右衛門、合戦の準備をせい」
「お父さまのこれまでの行いは、間違うとります。金長さまを闇討ちするなんて、あまりにひどい。金長さまが死んでしもうたら、うちも生きてはいけん」
「ぐぁはっは、あほなことを言よるわ。小娘はひっこんでおれ」
「お父さま、これがうちの決意です」
六右衛門に嘆願した鹿の子姫やったけんど、願いが叶わんことを知ると、姫は自分の命で父の悪行を咎めるべく自刃したのやった。
「おのれおのれ、金長。これもあれも、金長のせいや。やつを許すわけにはいかん」
また金長も、自分を愛してくれた鹿の子姫の死を知った。
「なんということや。わっしを愛してくれた鹿の子姫、共に戦った鷹の無念はいかほどか。かくなる上は、六右衛門に仇討ちをするぞ」
金長の呼びかけに、鷹の息子の小鷹と熊鷹も駆けつけ、仲間のたぬきたちも立ち上がった。

ついに合戦の時、勝浦川を挟み、金長軍総勢600匹余り、六右衛門軍総勢600匹余りが向き合うた。
「おうおう、四国だぬきの総大将、津田浦の六右衛門たぁこのわしのことよ。金長に与するたぬきどもよ、逃げ帰るなら今のうちやぞ」
「六右衛門の手先となったたぬきらよ、わっしが金長や。今日この時こそ、これまでの悪事の数々、年貢の納めどきと心得よ」
対岸で互いの咆哮が響き、こうして「阿波たぬき合戦」ちゅう呼ばれる、四国中のたぬきたちを巻き込んだ、激しい戦いが幕を開けたんやった。
勝浦川の死闘は3日3晩に及び、川の水は血で真っ赤に染まり、川床はたぬきたちの死体で埋め尽くされた。
仇討ちの執念を燃やす金長たちは、川を渡り、ぐんぐん進撃した。対する六右衛門は城に籠り、守りを固めた。しばらく戦いはこう着したけんど、金長は遂に門を突破した。
城内でもたぬきどもが入り乱れ、爪と牙で血みどろの激闘が続いた。そしていよいよ、金長と六右衛門の一騎打ちとあいなったんや。
「まて、六右衛門。鷹と鹿の子姫の仇、討たしてもらうぞ」
「おのれ金長、我が娘が死んだんはお前のせいや、許さん」
体躯のええ2匹のたぬきは、更に毛ぇ膨らました。掴み合うては爪で皮を引き裂き、口で肉を噛みちぎった。
最後に金長が六右衛門の喉を食い破り、この壮絶な戦いに決着がついたんや。

戦いに勝った金長やったが、彼もまた致命傷を負うとった。金長は最後の力を振り絞って日開野の、茂右衛門の元へと帰っていった。
「茂右衛門さま、金長は帰って参りました」
金長の声を聞いた茂右衛門は、慌てて戸口に走り寄った。そこには傷だらけのたぬきが横たわっとった。
「ど、どうしたんや、金長よ」
金長は、修行を正一位寸前までやり遂げたこと、ほなけんど茂右衛門への大恩を返すため六右衛門の組を抜けたこと、鷹と鹿の子姫を失い大合戦となったことを、なんとか茂右衛門に告げ、そして最後に深う礼を言うて、茂右衛門の腕の中で力尽きた。
「おお、おお、お主はなんと立派なたぬきであったことよ」
金長の生き様に心を打たれた茂右衛門は、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向いて、金長念願の正一位を、彼のために授かって来たのやった。

その後、六右衛門の息子・千住太郎が、修行先の屋島の禿だぬきのもとから駆けつけ、敗れ去った六右衛門軍を再召集して日開野へ攻め入ろうとした。
2代目金長を襲名した藤の木寺の鷹の子・小鷹も、これを迎え討つために軍を集結。再び合戦がはじまろうとしよったけんど、そこへ讃岐屋島の禿だぬきが仲裁に入り、ようやく合戦は終結したんやと。

茂右衛門は金長を、正一位金長大明神として丁重に祀った。今でも、金長大明神は小松島市中田町の金長神社に祀られ、あわの人たちに厚う厚う信仰されとるのやった。
ぽんぽこぽんぽこ、ぽんぽこりん。

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エライヤッチ エライヤッチャ
ヨイヨイヨイヨイ。

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四国といえば「たぬき」ですが、その中でも特に有名で、人々に愛される物語が『阿波狸合戦』(あわたぬきがっせん)です。

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これは、江戸時代末期に阿波国(徳島県)で起きたという、たぬきたちの大戦争のお話で、講談や映画などでも人気を博しています。

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徳島の「ステーションパーク たぬき広場」では、この阿波狸合戦に出てくる金長軍の面々に、会うことができます。

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まずは大将の「金長」。
鎧姿が凛々しいです。

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「藤の樹寺の大鷹」は金長が最も信頼を置いていた家臣ですが、六右衛門の放った刺客と戦い、討死にしてしまいます。

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参謀長の「衛門三郎」。
「正二位」の称号を持ち日露戦争に従軍し武功をあげたともいわれる猛者です。

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軍師の「田浦太左衛門」は北辰一刀流の使い手で、金長と鷹の剣の師匠でもありました。大酒呑みが玉に瑕です。

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金長軍にはくノ一もいました。「一本松のおたけ」は俊敏な動きで敵軍の偵察を行い、金長軍を勝利に導きました。

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そして藤の樹寺の「小鷹」と「熊鷹」。
藤の樹寺の鷹の子どもで、金長亡きあと小鷹は二代目金長を襲名します。

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広場の真ん中には、巨大金長。

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手を叩くと、水が噴き出る仕掛けになっているそうですが、今も機能しているかは分かりません。

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徳島県小松島市中田町に、「金長神社」(きんちょうじんじゃ)があります。

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金長の死後、染物屋の茂右衛門(現梅山家)が金長大明神として手厚く弔い、金長は江戸時代後期の弘化5年(1848年)正一位に上ったと伝えられます。

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この金長大明神は、長らく梅山家の屋敷神社として祀られていました。
昭和14年(1939年)のこと、新興キネマによる映画「阿波狸合戦」が大ヒットします。当時の新興キネマは倒産の危機にありましたが、この映画のおかげで持ち直すことができました。
そこで、金長へ感謝の印として、萬野只七の主唱により、俳優らの寄進で芝山山上の日峰神社境内社として、金長神社本宮が同年に創建されました。

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新興キネマはその後、「大映」と社名を改めますが、戦後に製作した“狸もの”の映画がいずれもヒットしました。
そこで昭和31年(1956年)、当時の社長「永田雅一」氏が、当時としては破格の100万円を寄付して、金長奉賛会を設立。さらに日峰山の南の当地に「金長大明神」(金長神社)を建立したのです。

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祭神はもちろん、「正一位 金長大明神」。
しかしこの、ぽんぽこな神社に、大きな災難が訪れていました。

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金長神社は小松島市の市営グラウンド横に鎮座しています。このグラウンドに、南海地震を想定して、防災公園を建設するという計画が持ち上がりました。
これは市民の命を守るための重要な計画ですが、その余波として、借地に建っている金長神社は、立ち退きを迫られているといった状況なのです。

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では一時、金長神社を別のところに遷座しておき、防災公園が完成した後に再建すれば良いように思うのですが、実は政教分離の原則により、公有地に神社が鎮座するのは違憲となるそうです。
市や県の公園に神社がある所は、ありそうですけどね、そうなのかな。
ともかくも、建物の老朽化も相まって、金長神社は取り壊しの危機を迎えているのです。

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金長神社の創建が、古来からの歴史的由緒によるものではなく、映画会社の社長が作った神社だというのも、保存に難色を示されている理由の一つになるのでしょう。
茂右衛門は実在の人物で、その染物屋の裏庭に明治維新頃まで実際に祠があったと云うことなのですが。

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平成30年(2018年)、この小松島市民はもとより、多くのぽんぽこ愛好家に愛される神社を守るため、有志により「金長神社を守る会」が結成されました。
この「金長神社を守る会」は署名や境内の掃除など保存に向けた活動を行い、SNSなどを通じて金長神社取り壊しの問題を訴え、多くの反響があるとのことです。

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平成31年(2019年)からは金長神社の御朱印が授与されるようになり、通常は地蔵寺で、限定は特定日のみ神社で授与されています。

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僕も御朱印を頂いた際に、僅かばかりではありますが、寄付をさせていただきました。
「金長神社を守る会」のご活動の甲斐あって、朽ちかけていた金長神社は立派に復興されたようです。しかしまだ存続が決まったわけではないようで、これからも頑張って欲しいと、遠くからエールを送らせていただきたいと思う次第です。

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さて、徳島市津田地区では、金長と敵対した六右衛門が祀られる場所があります。

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それは津田寺の墓地の一角にあるのですが、そこは六右衛門が砦としていたといわれる洞窟で、「穴観音」と呼ばれています。

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穴観音には、六右衛門の他に、息子の「千住太郎」、娘の「鹿の子姫」の祠もあり、親子ともども神として祀られています。

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たぬきの合戦など到底真実とは思えない話ですが、徳島にこうして、両者の聖地が生々しく言い伝えられているところがとても面白いです。

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「阿波狸合戦」では、六右衛門は悪役に仕立て上げられており、このことに不満を抱く津田地区民も少なくありません。

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平成7年(1995年)に津田地区社会福祉協議会が考案した「六右衛門まつり」が例年開催されており、出店、子供太鼓、阿波踊り、また県指定無形民俗文化財「津田の盆踊り」などが好評でにぎわっているとのこと。
平成26年(2014年)の第20回六右衛門まつりでは、「六右衛門狸・金長狸の交流宣言」が表明され、六右衛門の着ぐるみが登場、金長たぬきと源義経をイメージしたキャラクター「こまポン」と握手をかわし、江戸時代から対立していたタヌキ同士が、170年ぶりに和解を果たしたのだといいます。

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人々を魅了する「阿波狸合戦」はどこから生まれたのか。
実はこの物語が必ずしも眉唾ではないと思える、不思議な事実がいくつかあるようなのです。

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天保年間には、大和屋に助けられたタヌキが恩返しをしたという逸話があり、その後のある年、勝浦川の河川敷に多数のタヌキの死体があったという実際の事件があったそうです。

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茂右衛門という人も実在の人物であり、彼の直系の子孫の家には口伝伝承があり、金長神社の元になる祠があったと言われています。

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さらに、万吉という人物に、タヌキが憑いたという事件も実際に起きており、これらの事実を後の講談師が結び付け、「阿波狸合戦」を創作したとする説もあるようです。

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また当地では、修験道の別派同士の争いがあったり、勝浦川を挟んで津田地区と小松島の間の漁業権や、藍染めに最適な津田浦で採れる砂を巡っての争いがあったりしたそうで、狸の合戦はそうした人の振る舞いを模したものだとも言えます。

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「阿波狸合戦」に登場する、どこか人間臭く憎めないたぬきたちは、そのような理由のもとに誕生したのでした。
ぽんぽこりん。

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勝浦川の新浜本町2丁目付近には「阿波狸合戦古戦場」という標識が建っています。

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この辺りは、激戦の末にタヌキの屍が川床を埋めた場所とされています。

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この両河岸に、それぞれ300匹余りのたぬきたちが居並んで、合戦の火蓋が切られたのでした。

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思った以上に広い川です。
小さなたぬきたちは、この川岸からどうやって対岸に渡り、戦ったのでしょう。
六右衛門へ攻め込む金長軍が、鎮守の森に勢揃いすると人々の間で噂され、人々が日暮れに森へ見物に押しかけたところ、夜ふけになると何かがひしめき合う音が響き、翌朝には無数のタヌキの足跡が残されていたとのことで、合戦の風説も決して虚言ではないと話し合ったとか、たぬたぬ。

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金長神社の北側に芝山という山があり、そこに金長神社本宮があるというので、探し歩きました。

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そこはもともと日峰神社という神社境内だったそうですが、日峰神社自体は無くなっているようです。

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寂れた道を歩いていくと、灯籠のようなものが見えました。

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そこから先は、ちょっと足を踏み入れるのに躊躇う道です。

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金長神社本宮は、金長神社より先に、映画「阿波狸合戦」の大ヒットで新興キネマ復興の感謝の印に建てられた神社です。

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つまりここが、梅山家の屋敷神社として祀られていた金長大明神を遷座した、最初の神社なのです。

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麓の金長神社は今も参拝者がそこそこいますが、こちらの本宮を知る人はあまりいません。

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現代の若者にも人気なスタジオジブリのアニメ映画『平成狸合戦ぽんぽこ』や、他のたぬきアニメ『有頂天家族』『うどんの国の金色毛鞠』『うちの師匠はしっぽがない』なども、ひょっとすると、ここに原点があったのかも知れません。

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大元出版の谷戸貞彦氏は、著書『幸の神と竜』及び『サルタ彦大神と竜』の中で、「たぬきの語源」について信楽焼の笠ダヌキを用いて次のように述べられます。

(タヌキが)下げている徳利はオハセを暗喩する。それは、サルタ彦神
が形を変えたものだと言われる。
タヌキは精が強い訳でも、フグリが大きい訳でもない。
元気な男の代名詞になったのは、「田貫き」の言葉からだった。
農村では昔、女系家族制だったから、妻の宿に婿が夜呼合いに行く。
それを日本文学では「田貫き」に行く、と言う。
田は大地の女神で、貫くとはツルムことを意味する。
夜歩いて行く彼らを「タヌキが歩く」と言う。

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なるほど、たぬきは「田貫き」で、元気な男の代名詞だったのです。
そう考えると、どこかユーモラスで人情味のある、阿波たぬきが町を闊歩する、そんな姿が目に浮かぶのでした。
ぽんぽこ、ぽんぽこ、ぽんぽこりん。

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2件のコメント 追加

  1. 8まん より:

    たんたん狸の金〇は~風もないのにぶらぶらで~♪
    金長大明神、狸を祀る珍しい神社。
    時間の都合で行けなかったのが心残り。
    機会があったら行ってみたいヅラ。
    そう・・・ここ最近、仕事の疲労で休みは家で回復に徹底してるんで引きこもり。クーラーで日々過ごす8まんです。暑中見舞い申し上げます。
    ああ・・・指が痺れてきた・・・落ちます↓ではでは。

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    1. 五条 桐彦 より:

      この暑さは、出掛ける意欲を失わせるよねー、でも、出掛けるけどね😄

      いいね

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