658年11月3日、有間皇子が斉明女帝に陰謀を企てたとして、物部シビが人夫を率いて有間皇子を捕らえた。
そこに、叔父である中大兄が出てきて「白浜温泉に行こう。わたしが先で待っている」と告げた。
和歌浦を過ぎ、藤代の松林にさしかかつたとき、皇子は命の危険を感じていたから、松の木の二枝を結び、幸運のオマジナイをした。万葉集に歌が残されている。
岩代の 浜松が枝を 引き結び真幸くあらば また帰り見む(万葉集141番)
その先の藤白坂で中大兄が現れ、物部シビに合図をした。
そこで有間皇子は、絞首刑に処せられた。つまり叔父が甥を殺し、後継ぎ問題を決着させた。
間人皇后は吾が皇子の死を聞き、紀の温泉への道を歩いた。
昇天した御子に歌(万葉集10)を送った。これは山上憶良の『類衆歌林』にも書かれている。
君が代も わが代も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな
間人女帝は山背大兄の親戚であったから、有間皇子の霊を祀って欲しいと、斑鳩寺に田畠を寄進した。
斑鳩寺では、夢違観音像を造りお祀りした。その観音像の頭部の額には、母胎状の板飾りがあり、そこに有間皇子らしい小仏が座っている。
-大元出版:斎木雲州 著『上宮太子と法隆寺』
和歌山県海南市藤白にある「藤白神社」(ふじしろじんじゃ)を訪ねました。
海沿いの小さな住宅街の、急坂を登った先に、藤白神社はありました。
当社創建は不詳ですが、景行天皇の代の創建とされ、また、社殿は斉明天皇の牟婁の湯行幸の際に建立されたと伝えられます。
祭神は「饒速日命」で、「天照大神」「熊野坐神」「熊野速玉神」「熊野夫須美神」「祓戸大神」を配祀します。
藤白神社は、饒速日を祖神とする穂積氏の嫡流「藤白鈴木」氏が社家として代々神職を務めてきました。
故に「鈴木姓発祥の神社」とも呼ばれます。
当社は京都から熊野本宮への巡礼路「熊野古道」の入口とされ、藤白神社は、熊野古道の九十九王子の中でも、とくに格式の高い五躰王子のひとつとされています。
熊野の有力豪族であった鈴木氏は、平安時代に藤白の地に移住し、ここを拠点に全国に熊野神社を建立するとともに熊野詣を広げた一族でした。
これによって、鈴木姓が全国に広まるきっかけともなったといわれています。
鈴木姓の由来ついては、神武東征の時に、天皇に稲を献じて「穂積」(ほずみ)という姓を頂いたき、熊野では稲を積み重ねたものを「すずき」と言ったことから転じて「鈴木」になったと伝えられます。
ここでいう神武東征とは、物部東征のことですから、果たしてこの伝承が正しいものかは、僕の中では保留といたします。
個人的には鈴木さんとさほど縁のない僕なものですから、この辺りの考察は別の方にお預けいたします。
藤白神社の近くには「鈴木屋敷」と呼ばれる場所があり、また、鈴木姓の参拝者の方には、社務所で「紀州 藤白鈴木家系譜」というものを頂けるそうです。
境内に御神木の楠を祀った神社があります。
「子守楠神社」で、熊野杼樟日命を祀ります。
熊野では子供が生まれると長命・出世を祈って「楠」「藤」「熊」のいずれかの字をつける風習があったといいます。
あの「南方熊楠」も、この社から「熊」「楠」の字を授けてもらったという話です。
もうひとつ、塀で囲われた楠があります。
そこにあるのは、平安時代に宇多・花山・白河の三上皇の熊野御幸を記念して建てられた「聖皇三代重石」で、当時から鎌倉時代にかけて、皇族の熊野御幸の際には当地が、御宿泊所となり、歌会や相撲会等が盛んに催されたことを伝えています。
境内中心にある手水の水は、「紫の水」と呼ばれていますが、
境内のすぐ傍を流れていた紫川は、その名が示す通り、とても清らかな川だったようです。
その紫川の今の姿は、まこと残念極まりないところではありますが。
境内にある「藤白王子権現本堂」は、神仏習合の名残を伝えるもので、中に祭神の本地仏3体が祀られています。
それは藤代王子を顕彰するもので、これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものでしたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐に際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを、江戸時代に復したものだそうです。
明治の神仏分離による破棄を免れ、今に至ります。
藤白神社の境内奥に、ひっそりと祀られる神社があります。
「有馬皇子神社」(ありまのみこじんじゃ)です。
祭神の有間皇子は、中大兄皇子の母・皇極女帝の弟である孝徳帝の子でした。
彼はここからほど近い、藤白坂で中大兄によって絞首刑に処せられたのです。
有馬皇子神社横の参道から、藤白坂へ向かいます。
のどかな道。
その先に、有間皇子終焉の地がありました。
645年、中大兄は正当なる王家、山背王と石川家(蘇我家)を滅ぼすというクーデター「乙巳の変」を成し遂げました。
そうして政治の実権を握った中大兄が、皇位継承を確実なものにするうえで邪魔な存在であったのが、有間皇子だったのです。
そこで中大兄は物部シビに命じ、有間皇子が斉明女帝に陰謀を企てたという罪を着せ、捉えさせました。
その後、中大兄は有間皇子を白浜温泉に誘うふりをして、当地で絞首刑に処したのです。
この時、有間皇子はわずか19歳だったといいます。
藤白神社では、命日の11月11日に「有間皇子まつり」を執り行い、悲運な死を遂げた彼の御魂を慰めているのでした。
昨日から、実家で白浜温泉に浸かってます。
温泉の源泉のあたりに、有間皇子の石碑があります。
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なんと、ご実家が白浜温泉とは、なんとなんと贅沢な😋
うらやましすぎます♪
有間皇子の石碑があるとは知りませんでした😌
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