ダイナミックな天上山の大崩壊地帯と美しい海の青が織りなす多幸湾(たこうわん)。
残念ながら、この美しい海での遊泳は禁止されていますが、砂場は子供たちの遊び場として、時には賑わうそうです。
多幸湾の奥にあるのが「多幸湧水」(たこうゆうすい)。
水配り伝説にある、湧水地のひとつとなります。
多幸湧水は、「東京の名湧水57選」のひとつにも選ばれています。
天上山に降った雨は、流紋岩の地層で磨き濾過され、そして滔々とここへ湧き流れています。
とてもまろやかな多幸湧水は、島民愛用の水汲み場であり、連日多くの島民が訪れています。
さて、この辺りに鎮座すると言う神津島(こうずしま)三社のひとつ、「日向神社」(ひゅうがじんじゃ)を探しますが、それらしきものも、案内板も全く見つかりません。
15分ほどウロウロして、もしやここか、と思ったのがこれ。
あったよ、日向神社の文字が。
それでもこの道が正しいのか、不安になってきます。
薄暗い参道の先に、
ようやく鳥居が見えてきました。
日向神社の創建は不詳。
鎌倉時代完成の『三宅記』にある、三嶋大明神の后「神集島の長浜の御前」(阿波咩命)の二人の王子のうち、「とうなえの王子」を祀るといいます。
「日向さま」として島民に呼び親しまれるこの王子は、「たふたい王子」「とうなべの王子」などとも記されます。
その名に、どの様な意味があるのだろうか。
しかし地元では、この王子は夭逝された(若くして亡くなった)と伝えられていました。
日向神社の「日向」は、神話の里「宮崎」を連想させますが、社名の由来は多幸浜が朝日が見れる海岸だからだ付けられたのだと考えられます。
集落のある前浜は、夕陽の見える海岸でした。それにしても、
社の横にある、この空間は何だろう。
どう見ても、祭祀の場であると思われますが、全く情報がありません。
枯葉の下は砂地で、ビール瓶のようなものが、中心を取り囲む様に突き刺さっています。
大地を酔わせているのでしょうか。
ここは、伊勢神宮内宮の磐座の上にあった、祭祀の場に似たものを感じます。
多幸湧水にも近い場所で、湧水地を御神体とした聖域なのでしょうか。
小さな離島では、水は命そのものとも言える大切なものでした。
夭折した御霊を祀ることによって、常世の変若水(おちみず)の如き霊水を、多幸の湧水に求めたのかもしれません。
日向神社の参道入口そばに、「黒曜石展望地」と案内があったので、立ち寄ってみました。
黒曜石の展望?なんじゃそりゃ、と思いましたら、
なんと、対岸の岬に、黒い筋の地層が見てとれます。
これ全部が黒曜石だって。すっごっ。
日本に製鉄が営まれるまでは、天然ガラスの黒曜石は、貴重かつ主流の刃物でした。生きていく上で欠かせない道具だったのです。
縄文時代、日本の黒曜石は採掘され、各地に運ばれており、中にはロシアのウラジオストクにまで輸出されていたとのことです。
それは古代に、荒海を渡って神津島にたどり着いた一族がいた、ということなのです。