鬼無里の鬼姫:常世ニ降ル花 紅葉寒月篇 03

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さて、黒姫山というところに、戸隠の村々を荒らす、鬼武(おにたけ)とその盗賊団がいた。鬼武は紅葉の怪しげな噂を聞きつけ、子分らを引き連れて、紅葉の岩屋へと押し込んできた。
鬼武らが居間に上がり込むと、そこに紅葉がいた。官女の装束を着飾り、褥(しとね)の上に座る紅葉の艶やかな姿に、盗賊らはあっけに取られた。我に返った鬼武は進み出て言う。
「お主が噂に聞く紅葉か。妖しげな術で多くの人をたぶらかし、金銭を巻き上げ、経基公の妾だと嘯く女とはお主のことか」
紅葉は少しも怯むことなく、笑って言う。
「我が屋敷を訪ねてきて、名も名乗らぬとは無作法なこと」
「我は戸隠盗賊の鬼武よ。この屋敷と金品を明け渡してもらおう」
すると紅葉は高らかに笑い、
「経基様のお種の若君がここにおり、その母であるこの紅葉が、たかが盗賊風情になぜ屈せねばならぬか」
そう言って秘術を唱えると、山谷鳴り、家の障子がバラバラと倒れ、空から火の玉や氷の玉が落ちてきた。これに驚いた鬼武と盗賊らは刀に手をかけるが、手がしびれて動かせない。
半死半生の姿となった盗賊らを見て紅葉は大いに笑い、扇を開いて口を塞ぎつつ秘文を唱えると、瞬く間に空は晴れ渡り、風が止んだ。
鬼武は逃げようとするが動けない。紅葉は刀を奪って鬼武の喉元に突き立てた。
「どうした、鬼武。先程までの威勢はどこへいったのじゃ」
「ヒィィ、許してくれ」
「許さん」
「ま、まこと尊き姫君であったとは知らず、我らが無礼を許して下さいませ」
鬼武をはじめ、盗賊らは皆ひれ伏した。
紅葉は褥に座り直し、平伏する鬼武らに話かけた。
「我は経基様の寵愛を賜り子種を得た。すると、奥方は深く妬み、周囲を抱きこんで紅葉の身にはあやまりありと言いふらし、結果この山奥へと追いやられてしまった。しかし神の守りあって、この子・経若丸はすくすくと育っておる。われら親子は京に戻らねばならぬ。そのために其方らは我に力を貸しておくれ」
「我らはかの平将門公の末裔でござる。京より捨てられ、盗賊と成り果て、この山奥で無常の日々を過ごすのみ。ここで経基公の若君にお仕えできることは願ってもないこと。遠からず花の都へ返り咲く日のため、我らの力を尽くしましょうぞ」
こうして、鬼武らは紅葉の配下となった。
それからというもの、紅葉らは里から離れた富豪を襲っては、その金品を里人に振る舞い、屋敷もさらに大きく造り替え、ますます悪事に手を染めていった。
噂を聞きつけた、歳の頃は23,4の鬼女、怪力のお万もやってきて、紅葉の配下となった。
紅葉の悪事は止まるところを知らず、父・伍輔が度々いさめるも、紅葉は全く聞き入れることはなかった。そして伍輔が死ぬと、彼女を諌めるものはなく、歯止めがきかなくなった。
紅葉はついには人を食い、生き血をすするようになっていった。

京では戸隠の岩屋に恐ろしき鬼女が住み、村々を襲っていると噂された。自らの悪行が京まで轟いていることに、紅葉は驚いた。深山幽谷のことで京にまで話は届かないだろうと思っていたのだ。紅葉は鬼武に命じて、手下どもに武装の準備を整えさせた。
それを知った京の人々は、「鬼女が京に攻め上って来る」と皆、恐怖に震えた。京の一大事に、冷泉帝は国民数多の憂いを除くべく、紅葉討伐の勅を定めた。
この任を受け、信濃守に命じられたのは平維茂(たいらのこれもち)であった。時は安和2年(969年)の7月である。
維茂は250騎の軍を率いて戸隠に向けて出立した。
紅葉の母・花田は孫の経若丸の身を案じ、娘に降伏するようにいさめた。紅葉は聞き入れる様子もなく、花田は自ら命を絶って説得を図るも、その思いが紅葉に届くことはなかった。
朝廷の軍は塩田平に集結し、維茂は150騎を引き連れて北上する。千曲川、犀川を渡って戸隠の岩屋の麓、笹平に陣を敷いた。紅葉の手勢は約200人。たかが盗賊ごとき、と攻めかかった維茂軍であったが、その時突如として天はかき曇り、雷鳴がとどろいた。紅葉は妖術によって火の雨を降らし、洪水を起こした。
維茂の家臣・成田左衛門が「武器に不浄の血をつければ幻術は一掃できる」と助言し反撃したのであったが、効果はなかった。
お万は七十人力の怪力で敵兵を蹴散らした。こうして紅葉軍に圧倒され、恐れ慄いた維茂軍は50騎以上を失い一旦退却せざるをえなかった。

「成田の策は失敗に終わった。紅葉の妖術を破るにはどうするべきであろうか」
維茂が軍議を図ると、金剛兵衛が言った。
「紅葉の使う妖術は、我らの知る類のものではありません。紅葉は姿こそ女であれ、心は羅刹鬼神に等しい。生き血を啜り、人肉を喰らうと聞けば、人に交わる悪魔というべきもの。これを討つには神明仏陀の力にすがるしかありません」
この金剛兵衛の発案を受け、維茂は別所北向観音に17日間参籠し祈願をした。
満願の夜、維茂の夢枕に老僧が現れた。老僧は維茂の手を取り、白雲に乗せて紅葉の住む岩屋の場所を示し、内外の様子をありありと一目に見渡させた。そして老僧は懐から、4,5寸ばかりの剣を取り出し、告げた。
「これぞ降魔の剣なり。これをもって紅葉を打つべし」
目覚めた維茂の手には、夢で見た剣が握られていた。「これぞ観音様の加護に違いない」と奮い立ち、兵を整えて紅葉を討ち果たすべく出陣した。

紅葉勢は先の勝ち戦で毎夜酒宴を開き、また攻められようとも妖術で蹴散らせてくれるとの奢りがあった。
「性懲りも無く来おったか」
近づく維茂の兵に対して、紅葉は笑いながら妖術をかけた。だがどうしたことか、術の効果はなく、味方は次第に倒されてゆく。敵の大将が掲げる剣先が霊気を放っているのが見えた。やがて紅葉の体は氷のように冷えわたり、震えて術がかけられなくなった。
紅葉は、青ざめる鬼武どもに
「我は火水の妖術を行えなくなった。さればこの城も破られよう。汝らは早く逃げ去りなさい。我は身一つ、雲を呼んで空を駆け逃れよう」
と覚悟の言葉を述べた。
鬼武は土民の姿になり変わり、裏手から忍び寄って維茂に一太刀浴びせようと画策した。しかしその企みも維茂の部下の金剛太郎に見破られ、鬼武は岩に投げつけられて即死した。
これらの様子を陰で見ていた経若丸は、祖母・花田を埋めた塚のほとりに座して、自刃した。
紅葉は体が冷えて妖術が使えない。そこで体を温めるべく大盃に注いだ酒を呑んだ。体はようやく温まってきたが、今度はしきりに眠気が襲う。
そこへ維茂が主従合わせて25騎で踏み込んできた。鬼の一同が上に下にと逃げ惑う中、維茂は降魔の剣を白羽の矢に番えると、それを紅葉めがけて撃ち放った。
矢に右肩を射抜かれた紅葉は、鬼神の本性を現し、天に舞い上がって維茂めがけて火炎を吹き出した。しかし雲の隙間から眩い光が紅葉を射挿し、鬼女は大地へ墜落した。
「口惜しや」
そう叫びつつ維茂に飛びかかる紅葉を、金剛太郎が横から胴腹深く一刀を浴びせた。太郎の腕をつかみ、引き倒して足で踏みつける紅葉に、維茂は背後から斬り込み、その首をはねた。
紅葉の首は空に舞い上がり、何処ともなく消え失せた。
維茂は鬼女の両腕を斬り落とし、金剛太郎に命じて首桶の中に納めさせ、これを守らせた。
その他の鬼どもは召し取られ、皆死刑となったが、お万だけは逃げ延びたという。
安和2年(969年)年10月25日、紅葉は33歳の若さで命を落とす。それは戸隠の山々が、深紅に染まる頃のことであった。

-『北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝』

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犀川の支流、裾花川を柵村から上流に遡ると、「鬼無里村」(きなさむら)があります。
平成の大合併により、今は長野市鬼無里地区になっています。

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その産土社である「鬼無里神社」(きなさじんじゃ)を訪ねました。

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古びつつも堂々たる風格。

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この社殿の中には、江戸中期建立の一間社流造の本殿が納められています。

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鬼無里は谷にある里ですが、ここはかつて巨大な湖であったという伝承があり、その水が流れ出て魚山が出現したのが当鎮座地であるとされます。

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そして湖の主であった龍神を諏訪明神として祀ったのが当社であり、坂上田村麻呂が蝦夷平定を祈願し、平維茂が紅葉退治を祈願したと伝えられます。

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祭神は「建御名方命」で、相殿に「八坂刀売命」「素盞嗚尊」「大物主命」を祀ります。

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創建は不詳ですが、奈良時代の末期と考えられています。

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湖沼伝説は安曇野などの長野各地にみることができ、諏訪湖も古代には今よりも遥かに規模が大きかったと伝えられます。
地質学的にも、当地が太古には、水底であったことが確認できるということです。

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拝殿には、かわいい紅葉ちゃんがいました。

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鬼無里の「松巖寺」(しょうがんじ)を訪ねます。

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ここは柵村の大昌寺と並ぶ、鬼女紅葉の菩提寺とされます。

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山門をくぐりますと、

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すぐ右手に、紅葉のお墓と伝わる石塔があります。

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柵村の鬼の塚よりも、ずいぶんと小ぶりです。

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松厳寺は紅葉が守護仏とした「地蔵尊」を祀った地蔵院が前身と伝えられます。

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『北向山霊験記』では、紅葉は第六天を祀ったと云われますが、鬼無里では違っていました。鬼無里の紅葉姫は、魔王にすがったのではなく、菩薩に救いを求めたのです。

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紅葉伝承がどこまで史実であるかは不明ですが、仮に京都から配流された紅葉姫が実在したとしたなら、彼女はなぜ、討たれのか。

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紅葉には、父親の一字をとって経若丸と名付けられた源経基の子を儲けていました。
その子にもやがて、元服する日がやって来ます。

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しかしそれを知って忌む人が、当然都にはいたはずです。
紅葉母子はそのようにして、討伐の対象となったのかもしれません。

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こちらにも紅葉ちゃんがいましたが、

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裏側は鬼姫ちゃんでした。

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京の都から配流された紅葉は、とても美しく、聡明であり、鬼無里の里人に慕われていました。
紅葉姫は鬼無里で穏やかな日々を過ごしますが、京を偲び、この里に京ゆかりの地名を付けたと云います。

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鬼無里の高台に、東京(ひがしきょう)と名付けられた地区があり、

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そこには、紅葉が京の上賀茂神社・下鴨神社を偲んで建てたと云われる「加茂神社」が鎮座します。

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祭神は「武御雷命」(たけみかづちのみこと)と「天思兼命」(あめのおもいかねのみこと)。

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カモ社では「賀茂建角身」(かもたけつのみ)や「賀茂別雷神」などが祀られるのが常ですので、本来はカモ社ではなかったのかもしれません。

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のどかな、山中の谷にある里、鬼無里。

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東京と谷を挟んだ対面には西京(にしきょう)があり、同じく紅葉が京を偲んで建てたと伝わる「春日神社」が鎮座しています。

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祭神は「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)。
しかし京を偲ぶといいつつも、春日社であれば奈良、枚岡社であれば大阪ということになりますが、これいかに。

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まあ、そんなささいなことは気にしないのが伝承というものかもしれません。

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鬼無里では、紅葉伝説のほかに「遷都伝説」もあり、これらの京ゆかりの地名や神社も、伝承が被っています。

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当地に伝わる遷都伝説とは、飛鳥時代に天武帝による遷都の計画が、鬼無里にあったとされるものです。

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『日本書紀』では確かに、天武帝が壬申の乱の後、信濃への遷都を計画していたと記されています。

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天武帝は「三野王」(美濃王)を信濃に派遣しました。

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鬼無里にある「白髯神社」(しらひげじんじゃ)の縁起によれば、壬申の乱があった時期を含む、白鳳年間の遷都に際して鬼門の守護神としてサルタ彦を当地に勧請したと記されています。

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当時の鬼無里は、山間にあって平らな盆地であり、都にふさわしい土地として三野王は遷都先に推薦します。
しかし、その計画を知った鬼が、盆地に一夜で山を築いて邪魔をした、などと伝承では謳っています。

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そこで天武帝は、白村江の戦いや蝦夷征伐で功績のあった将軍「阿倍比羅夫」(あべのひらふ)を派遣し、鬼を討させます。
ついには「鬼がいなくなった」ので、鬼無里になったということです。

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三野王は鎮守のため、裾花川の左岸に加茂神社、右岸に春日神社を創立し、東京、西京などの地名を命名しました。
こうした鬼無里に伝わる紅葉姫と遷都の伝承地は、ほぼ丸っと重なるのです。

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鬼無里の西の外れに、紅葉が住んだという「内裏屋敷」の跡地が残っています。

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ここからは、紅葉が生きたとされる時代の土師器や製鉄の跡を示す鉄滓の遺跡が出土しています。
また、縄文時代の石鏃・石斧・玉類などの石器や黒曜石、建物の礎石も発見されています。

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柵神社の御神体も、八寸(約24cm)の黒曜石の矢尻石ですので、当地に黒曜石文化があったことを物語っています。

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それにしても、「内裏屋敷」という名前が気になります。内裏といえば、御所のことです。
案内板には、紅葉姫を帝に仕える官女であったと記しています。

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紅葉はここで、知識と霊能をもって里人に施し、文化を伝え、慕われたと伝えられます。
故に、気品あふれる彼女の住まいを、内裏屋敷と呼び讃えたのでしょうか。

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鬼無里では紅葉を、表向きは鬼女と呼びながらも、内々では「貴女」と称えていました。
鬼無里という村名は、中央が言うような「鬼がいなくなった里」ではなく、「元から鬼などいない里」であると、古い里人が暗に伝えるものなのかもしれません。

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内裏屋敷跡の横に、気になる案内板があります。
「月夜の陵」(つきよのはか)です。

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うへぇ、こんなところをどこまで登らされるのか、と不安になりましたが、

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すぐに辿り着きました。

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「月夜の陵」は遷都伝説において、検分のため鬼無里に来て客死した皇族某の墳墓ということですが、また別の伝承では、鬼女紅葉の侍女「月夜」を葬った場所とも伝わっています。

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個人的には、このロマンティックな墓は後者のもので、その子孫が貴女・紅葉の伝承を密かに語り継いでいると、僕は夢想します。

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さて、これから来た道を戻り帰るわけですが、こんなん絶対すべりコケるやろ。

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ほらね。

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2件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    うーむ、この部分に私は注目しました

    「この任を受け、信濃守に命じられたのは平維茂(たいらのこれもち)であった。時は安和2年(969年)の7月である。」

    つまり、平氏の賊に対し、平氏の討伐隊を組んだと
    呪いの世界では親戚同士の争いを血縁相克といい、忌避します。
    討伐には汚名返上の機会を与えるとして大義名分が成り立ちます

    阿部氏の全国展開に関しての構図が見えてくるような気がするのです

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      確かに戸隠の鬼山賊は平将門の末裔となっていますが、紅葉姫の子は源経基の子でもありますので、一応平家が源氏を討った、という形になるのでしょうか。
      でも陰で、確かに血縁相克を狙ったのかもしれません。

      いいね

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