張孔堂を探して

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由比正雪の江戸での邸宅、彼が開いたと言う「張孔堂」はどこにあったのか。
一説に、新宿区北東部の牛込榎町にあったという説があり、その場所を訪ねてみましたが、ご覧のように何もありませんでした。
背後の建物は、大日本印刷㈱の榎町工場になります。

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そこからほど近い新宿区矢来町に「秋葉神社」が鎮座しており、

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境内の片隅に、「正雪地蔵尊」が祀られていました。

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これは、由比正雪の邸宅があったという辺りから掘り出されたキリシタン灯籠の一部のようです。

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ただ、この灯籠と正雪との関係を伝える確かな資料は存在しておらず、由緒は不明。
また、正雪がキリシタンであったという話も、他では聞いたことがありません。

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由比正雪に関しては、「慶安の乱」の首謀者であったということ以外、ほとんどが正確に伝わっていません。
今私たちが知る由比正雪の歴史は、江戸時代の歌舞伎演目『樟紀流花見幕張』(くすのきりゅうはなみのまくはり)や、さらにこれを元に脚色された作者不詳の実録体小説『慶安太平記』(けいあんたいへいき)によるところが多いのが実情です。実録体小説とは実際にあった事実・事件をもとに、巷説・風説などを交えて書かれた小説のことで、虚構を多く含み、言わばそれは、「すべてを見てきたような嘘」なわけです。

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そのような中で、由比正雪が江戸に出てから、彼の様子を知ることができる唯一の情報に、新井白石が佐久間洞巌に宛てた手紙というものがあります。

「世間の噂では、正雪は駿河の由比の紺屋の出身ということですが、まあそんなところでしょうか。神田の連雀町という町の裏店に五間ほどの家を借り、そのうちの三間に手習子を集め、二間をすまいに使っていたということです。明日のたつきにも困るような、みすぼらしい浪人暮しでしたが、その裏店に旗本や御家中の御歴々を引きつけて、軍法を伝授しているといった変った男だったそうです。面白いことには大名を弟子にとらない方針だったらしく、方方から呼ばれても、断っていたといいます。ただ板倉重昌だけは、弟子になっていました。どの門弟の評判を聞いてみても、正雪を中国の兵法の大家、孫武や呉起の再来とまで尊敬していたようで、万人にすぐれたばけものと噂されていました」

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白石自身も、由比正雪の後の人物であり、手紙は彼が聞いた話を書いたものに過ぎません。が、少なくとも、当時そのように人々が認識していたことが窺えます。
この手紙によれば、由比正雪の実家はやはり、静岡の「正雪紺屋」であるということになり、「張孔堂」は先の牛込榎町ではなく、神田の連雀町にあったということになります。
ですが、やはり連雀町にも、彼の邸宅跡と思われる史跡はありませんでした。

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連雀町を歩いていると、「出世稲荷神社」というものがありました。

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祭神は「倉稲魂命」。
伏見稲荷神社の分祠で、柳森神社の境外摂社となっています。

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連雀町創立の頃より町内鎮守神として祭祀され、青果商人が出世奉賽の為に建立したとも伝えられています。
延享年間(1744~1747年)の火災の折に、柳森神社に合祀され、明治7年に当地に社地造営し、改めて遷座されました。

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また少し東の方へ歩いていくと、神田須田町に「柳森神社」が鎮座していました。

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祭神は「倉稲魂大神」で、

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立派なお稲荷さんなのですが、

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なぜか境内には、たぬきの姿もチラホラ見えます。
たぬきといえば四国。

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柳森神社は室町期の長禄2年(1458年)、太田道灌が江戸城を築城した際に東北の鬼門鎮護の為に京都伏見稲荷神社を勧請して創建したと伝えられます。
神田川土堤一帯に柳の木を多数植えて繁茂したことから柳森神社と呼称されたそうです。

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なぞの「おたぬきさん」の正体は、境内に鎮座している「福寿神」によるものでした。

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これは、桂昌院によって江戸城内に「福寿稲荷」として創建されたことに由来します。

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桂昌院は京都堀川の八百屋の娘でしたが、春日局に見込まれ、三代将軍「家光」公の側室となり、五代将軍「綱吉」公の生母となりました。

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多くの大奥の女性たちが、「他を抜いて(たぬき)玉の輿にのった桂昌院の幸運」にあやかりたいと、こぞって「おたぬきさま」を崇拝したということです。

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さて、 由比正雪の通説では、張孔堂の門弟数は3000人とも、5000人とも言われていますが、実際には100人程度だったのではないかと、新井白石の手紙から窺うことができます。
仮に張孔堂が3000人近い浪人を抱えていたのだとしたら、とっくに幕府に目をつけられ、潰されていたのではないでしょうか。

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白石は、他人から咎人である由比正雪に似ている、と言われていたことに良い気がしていなかったようで、手紙の文面には、彼を蔑んでいる様子が受け取られます。
みすぼらしい浪人暮らしだったらしい、とまで酷評していますが、その白石をしても「どの門弟の評判を聞いてみても、正雪を中国の兵法の大家、孫武や呉起の再来とまで尊敬していたようで、万人にすぐれたばけものと噂されていました」と書かせています。
これは、正雪の人並外れた聡明さを、改めて窺い知る事になるのですが、その彼が、短絡的で浅はかな、あの幕府転覆計画を立てたことに、僕は強い違和感を感じました。

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「違和感のあるところに、人の思惑あり」

歴史にも記されるような、武断政治から文治政治への大きな転換点となる事件「慶安の乱」。その主人公たる由比正雪の足跡が、不自然なまでに残されていない事実と相まって、そこに隠された真実があるのではないかと思い至るようになりました。

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そこで、僕は一度、通説や由比宿の伝承を頭から外し、由比正雪の生きた時代の他の歴史的出来事をリサーチしてみました。すると、とても不自然な珍妙な出来事があることに気がつきました。

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僕が抱く違和感の正体、この一連の事件に潜む思惑の正体を探るため、慶安の乱によって、最も得をした人物は誰かということに思考が向きます。
そうして書き上がった物語が、『由比正雪と薄明の月』でした。

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この僕の次作となるはずだった物語(フィクション)は、諸般の事情で残念ながらお蔵入りとなりました。
ですが、通説をただ真に受けるのではなく、疑問・違和感に対して、歴史的事実を可能な限り探り出し、勇気を持って考察するという僕の試みは、いかにも「大元出版」的だったのではないかと、自負するところです。
元々、江戸時代などにさして興味のなかった僕に、このような経験をいただいた幸運に、感謝しきれぬ思いなのです。 

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1件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    narisawa110

    張孔堂に関しては、山本博文の、江戸の事件現場を歩く、という本にもしかしたら出ているかもしれません

    中々情報がないんですね

    いいね: 3人

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