古代東山道の関所の一つ「不破関」(ふわのせき)。
不破関は美濃国(岐阜)と近江国(滋賀)の間に設けられた関所ですが、壬申の乱(672年)において大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依らに命じ、多臣品治(多品治)がこれを塞いだことによって、大きな勝因をもたらした要所です。
その後、律令体制のもとで都の警護のため、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに「三関」(さんげん)として整備されました。
中世以降は多くの和歌や俳句などに歌われ、不破関の名は枕詞になりました。
不破関は、華々しい歴史を伝える史跡なのですが、その裏には壮絶な痕跡も残されていました。
不破関から少し離れた場所に、「自害峯の三本杉」という、物騒な名前の名所があります。
そこに流れる川も、黒血川と呼ばれ、壬申の乱における大海人軍と大友軍が激突した名残を伝えていました。
激戦で流れた兵士の血が、川底の岩石を黒く染めたと云います。
階段を登って少し行くと、
見えて来ました。
天に突き抜ける程に聳えた、3本の杉。
これが自害峯の三本杉。
天智天皇の子、大友皇子が自害した場所で、その頭が葬られていると伝えられます。
『人麿古事記と安万侶書紀』を執筆した僕は、ここへ参拝しないわけにはいきませんでした。
悲しみを滲ませたような雨が降ります。
常世へ旅立った全ての命に、安らぎがあらんことを。