徳島県阿南市長生町にある「八桙神社」(やほこじんじゃ)というところに、立ち寄りました。
案内によれば、当社は延喜式内社であり、長ノ国造の祖先神として大己貴神を祀ってきた神社だということです。
古代の阿波は、北の粟国と南の長国に分かれていたといいます。
そして、大己貴命と大国主神は同一神であり、さらに別名の八千矛神が社名の由来だとしています。
当社と、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月にある「事代主神社」、そして石井町浦庄字諏訪にある「多祁御奈刀弥神社」は、阿波国が元出雲であったとする「阿波王朝説」論者の主張する根拠となっています。
その説に関しては、僕の範疇にありませんが、なぜか当社にはこんなものが。
「皇太子殿下行啓記念碑」なるものが堂々と建っています。
皇太子とは、今の陛下のことでしょうか。
八桙神社の創建時期は不詳で、天平勝宝5年(753年)とも、大宝元年(701年)とも伝えられます。
長寛元年(1163年)に二条天皇の勅願所となり、『土佐日記』に記される、紀貫之が海賊を避けるため祈願したのが当社であると考えられています。(ただし土佐日記に社名の記載はない)
国の重要文化財に指定されている大己貴命立像や男神立像など、数々の貴重な文化財を有し、中でも長寛元年(1163年)の紙本墨書『二品家政所下文』(にほんけまんどころくだしぶみ/重文)は、徳島県に現存する最古の文書といわれています。
祭神については、『神名帳考證』『阿波志』では八千矛神、『特撰神名牒』『大日本史神祇志』では建御名方神の子または曾孫としており、八杵命が八桙神であるとする考えもあるそうです。
それにしても、なかなかエグい神紋が付いていますね。
僕は「九州王朝説」や「阿波王朝説」を支持することはできませんが、九州や阿波に王朝に匹敵する大きな勢力があったということは考えています。
ブルーシートがかけられて、やや老朽化した本殿がありました。
本殿裏の山中には磐座もあるようですが、山は荒れている印象です。
そういえば先日、豊後水道で大きな地震がありました。
能登の復興も進んでいな中で、伊予・土佐の方々の現状が気になります。
波乱の幕開けとなった令和6年。
世の中は不安を煽る声で溢れていますが、備えは心掛けつつ、自分の真ん中をしっかりと見定めて、しっかり生きていくことが肝要だと感じる日々です。
narisawa110
四国の氏族の中で、いつ頃に阿部化しているのかに関して考え事をして居ました。大きく分けて二つ、可能性があるのではと思います。
①長国エリアに関してですが、なんと阿府志には、かつて高志国造家の系統の一族が住んでいたのだそうです。
ではということでアラハバキを探してみました所、荒魂神社がもしかしたらそれにあたるのではないかと。
②長国国造の系譜が元々阿部であった説。
これは、富雄川流域、例の長髄彦伝承のあるあたりは、事代主ではなく大彦の系統がある事や、解釈によっては長髄彦が事代主の系図になって居ますので、実は長国国造そのものが阿部であったのではないかという考え方です。
長国国造の名前って出雲的ではない気が致します。
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確かに、②の説の方がしっくり来ますね。出雲ではなく大彦であると。
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narisawa110
という事で、長国エリアにある神社ですが、阿波国と一緒になってから色々大変な事があった様です。まずは多祁御奈刀彌神社のネタばらしから。簡単に言うと刀彌(弥)ではなく、刀禰(祢)が正式呼称なんです。
正式名称:多祁御奈刀禰神社の読みは「たけみなとね」神社です。とめ、ではなく、とね、なんです。つまりあの神社も国造を祀る神社だという事なんですね。
まずは、先代公事本紀から。茨城国造→宇佐比刀禰(トネ)。現存する最古の延喜式、九条本でも多祁御奈刀禰(トネ)神社。広文庫でも多祁御奈刀禰。皇典講究所でも多祁御奈刀禰w。国学院大学デジタルミュージアムでも多祁御奈刀禰ww。国史論纂でも多祁御奈刀禰www。
つまり、トメに対応するトネで、国造職に対する尊称がトネなんです。つまり、ミナカタよりずっと後の年代の神社で、「たけみなさん」神社だったりします(失笑)
土佐国造(小立宿祢:成務期)と、長国国造(韓背宿祢:成務期)の共通の先祖である観松彦色止命の系図は以下の通り。
大国主→事代主→観松彦色止命→「健美奈命」→甕男立命→麻斯命・・・(土佐国造、長国国造)
あの神社は、長国国造の先祖である「健美奈命」を祀る神社です。
ついでに
八桙神社→この前ご報告した通り、長国ではなく、「長国国造」の祖を祀ります。
御間都比古神社→本来の祭神は孝昭天皇ではなく、観松彦色(伊呂)止命で、長国国造を祀る神社です。
徳島藩が編纂した阿波志ではなく、単なる鷹匠であった赤堀による阿府志のせいで現在の徳島はデタラメを吹聴する向きが強く、地元の人たちにも迷惑が掛かっているというのが現状です。
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なかなかの大暴露で、興味深く読ませていただきました。壮大な歴史改竄ですね😅
観松彦のミルマツって、どこかの神社で祀ってたような。
現代でもそうですが、歴代の偉人の名を、子につけたりするからややこしいですね。
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narisawa110
しかしですね、ここいら、もしくは天竜川河口域の東海あたりから諏訪にミナカタが持ち込まれたというのはそれでもアリだと私は思って居て、鎌の交差紋もそうですが、富編集長のおっしゃることを素直に受け取るなら
①まずは四国は出雲の古い分家である。
②分家は地方でトミを名乗ったとあります。
絶対やりそうですよねーww。私はこれらの細工が、国造職が廃止になり、忌部子首が国司として出雲に派遣されるくらいの権勢でありましてので「チョッとだけよぉ〜」くらいのことはしたんじゃないかと思って居ます。諏訪は明らかに幸神からミナカタに上書きされて居ます。徳島の神社でもわかる様に基本的には先祖崇拝が生まれてからの神道ですので、自分を祀る神社は建てません。自分の家にまだ生きてる自分の名前の位牌はありませんw
出雲国造が今でも見えない出雲王国と戦っている様に、忌部氏、それら関係者も何かに余念のない生き方をしてても不思議はないと見ました。
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なるほど、確かにww
見えない敵と戦うことほど、永く虚しいものはないのかもしれませんね。自分の妄想と戦うに等しいですから。
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narisawa110
八桙神社の由緒なんですが、大事なことが書いてあって、八桙神社は上古、長国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す
長の国は北方粟の国と相対して阿波民族の源を形成すとあるんです。
阿波節は、長国造の祖神とあるのを長国の祖神と解釈してここに出雲があったと言ってるわけです😱
出雲系の人が国造だったというだけの話なわけです
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なるほど!長国は新しい国なんですかね。
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narisawa110
よくよく噛みしめてると、結局出雲伝承でも阿波国造、長国造がどうもはっきりしません。
阿波国造→ホヒ家を帯びて家名を守った、神門臣大伴の後裔。しかし、伝承では阿波には尾張家が入り込んで変化したとあります。これが「膳大伴部直」と変化したのであれば、関東安房の社家にもなったというのなら筋は通ります。銅鐸も初期の物と後期の安倍系の畿内銅鐸が半分であることも筋が通ります。しかし、伊予エリアは八井耳(多臣・中臣)が入った割には銅鐸が極端に少なくなり、九州の色彩が強いと感じます。やはり一次物部東征以降に安倍が入ったという事でなければ考古学的に説明がつかない気がします。
長国造→実は「事代主神社」「多祁御奈刀弥神社」「八桙神社」は全て長国エリアにあります。律令時代には阿波国造に統一されていたともされますが、本質は別の物とも考えられます。初代波多国造である天韓襲命を「事代主神の子」(または孫)の観松彦色止命の9世孫で、長国造・都佐国造の祖である韓背足尼と同人とする説があることから、事代主系の領域とする考え方があります。これにより淡路島に最古級の銅鐸が出てもおかしくはない事になります。しかし、この考え方だと、富家の分家と言う設定のはずの忌部氏が古くは阿波国と無関係であった事になり、どーもすっきりしません。更に土佐国は、南四国で出雲口伝でも古くから物部の拠点と出ていたと記憶しています。国造は二次東征以降の役職と考えられますので、南四国を物部政権が出雲系に任せたというのは不自然な気がします。
忌部氏の独立は、長国と阿波国が一緒になってからでなければ説明が難しいと感じます。出雲口伝はいつの時代の阿波の事を言っているのか、厳密な処が不明のままなような気がします。
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長国と阿波国の件は、僕も気になりつつ放置している課題です。この辺を突き詰めると、矛盾だらけになってしまいますよね。
長国は元出雲主張の強い地域ですが、それは忌部が言い出したことなのかも知れませんね。物部と忌部は歴史をかき回している印象です。
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narisawa110
最近、長野の安曇氏に大彦の影が感じられると書きましたが、二品家が、長野に来て仁科家になったとするのであればワオw
仁科神明宮にカゴヤマって居たかな?
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なるほど、二品家ですか。
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