愛知県豊川市にある「砥鹿神社」(とがじんじゃ)を訪ねました。
三河国一宮で、東海地方の総鎮守として崇敬される神社です。
天正2年(1574年)の『三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起』によれば、大宝年間(701年-704年)に42代・文武天皇の病を鎮めるための勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)が派遣され、「本茂山」(ほのしげやま/今の本宮山)の神を迎えて里宮が創建されたとされます。
草鹿砥だから、砥鹿なのかー。
砥鹿神社の祭神は「大己貴命」(おおなむちのみこと)で、大国主命を指すとされます。
「但馬続風土記」には、神代に大己貴神は国土を開拓し、諸国を巡幸して但馬国朝来郡赤淵宮に移り、更に東方三河国に向かったと記されています。
当社社伝にはその後の大己貴神のことが書かれており、本茂山に留まって永く神霊を止め置く所「止所の地」(とがのち)とされたと記されているそうです。
止所の地だから砥鹿なのかー。
さらに社伝は、山にいた大己貴神が当地、里宮に鎮まった経緯を、次のように伝えます。
勅使となった草鹿砥公宣が三河の山中で道に迷った時、どこからともなく老翁が現れ、彼を導き、無事祈願を果たして天皇の病も平癒されました。
天皇はこの老翁に礼を尽くすため再度、草鹿砥公宣を使わすと、老翁は山麓に宮居を定めることを望みました。老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じたのですが、公宣がこれを追って山を下り、岸辺に留まった袖を取り上げて、そこに七重の棚を作り七重の注連縄を引廻らして斎き祀った、ということです。
ふむふむ、しかしこの老翁が大己貴神で大国主であるというのなら、なぜ出雲神を斎き祀るのに、七重の棚を作り七重の注連縄を引廻らしたのでしょうか。
そこは八重の棚と八重の注連縄であるべきでは、と思うのです。
これは大己貴≠大国主で、大己貴=大名持ということでしょう。
大名持は主王の役職名ですから、本茂山に出雲系とは系統の異なる神王を斎く集団がいたということではないでしょうか。
草鹿砥公宣は山中で出会ったのは、天皇の病を治す知識を持った集団だったと。
まあ、その社伝である『三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起』の内容を信じるのであれば、ですが。
砥鹿神社には摂社の「三河えびす社」があります。
が、派手ですな。
祭神は「事代主命」と「建御名方命」。
この派手さには、八重波津身も苦笑いでしょう。
僕が砥鹿神社を訪ねようと思ったのは、その末社が気になったからです。
おっと、これはホヒか。
八束穂神社だから、オミヅヌなんじゃないのか。
気になったのはこちら。
小さい方は「秋葉神社」でカグツチを祀る神社です。
その隣、大き方が「荒羽々気神社」(あらはばきじんじゃ)で大己貴神の荒魂を祀ります。
ネットのどこかで、東にある「石座神社」の境内社が、最西端のアラハバキ社だという情報を見た気がするのですが、それはここのことなのではないかと思った次第です。
数年前に里宮参拝して、おみくじをひいた際におまけのような物がついてきまして、六角形(龍鱗枠)に銅矛交差紋が書かれていて感動しました。
本宮山奥宮に今度行ってみたいと思ってます。
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おお、おみくじにそんなものが入っているのですか!小さなエビスさんとかが入っているのは見たことがありますが。
おみくじ屋さんにも、富家ファンがいらっしゃるのかもしれません😊
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三河出身だったりして、私も昨年の夏に参拝しました。大己貴神が当地、里宮に鎮まったというのは、大国主(八千矛)は考えにくいとして、どの代の大名持なのだろうと思いながら。
あと、スピリチュアルな能力ないながら、拝殿の右隅の木のところを通った際に、木の幹にヘビ様(もしかして龍蛇神の使い?)が、ちょうど幹の私の目線の高さのあたりに昇っていらっしゃっており、それが記憶に残っています。
最後は、やっぱり「荒羽々気神社」にひとり静かに興奮しながらお参りしてきました。
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砥鹿神社里宮は、ちょうどお宮参りの方がいたりして、とてもおおらかで穏やかだった印象です。
あの場所に荒羽々気神社があるのは、とても気になりますね😌
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💙
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