僕より一週間ほど前に、北のm嬢が対馬を再訪してあったらしく、「ちょうど今、僕も対馬に来ています」と連絡したら、ぶっ飛んだ情報をくれました。
それは、「案内板にはのっていない”松崎神社”という神社の祭神がイソラだという文章を見つけてしまったので探しに行ってきた」というものでした。
それがこれだ。。。
僕はぶったまげた。
ここには5回ほど足を運んでいるのですが、未だ知らぬ、こんな石積みがあったとは。
しかし本当にぶったまげたのは、おそらく以前はここは深い森になっており、石積みが目視できなかったのだろうと思われたことでした。
あらかじめm嬢に情報をもらっていたとはいえ、僕は思いのほか簡単に、これを見つけてしまったのだ。
m嬢も言う通り、ここはおそらく「不入坪」(いらぬつぼ)の一部だと思います。つまり禁足地、ということです。
本来は森で多い隠し、迂闊に立ち入るべきではない場所です。
僕は勝手ながら手前の大きめの木までを結界と決め、そこから望遠で撮影するに留めることにしました。
近づいて石積みを壊そうものなら、絶対にろくなことになりません。
見た感じは石積みの中に何かある風ではありません。ただ、そこから空に伸びる蔦が、神と意識を繋ぐ神経のように、異様かつ美しく見えました。
松崎神社というものがこれなのかどうかは分かりません。
境内社をくまなく調べましたが、確かに松崎神社の名はなく、しかし名と祭神を変えられて存在しているのかもしれません。
ともあれ、この石積みが重要な何かであるのは、間違いありません。
これは限定公開にするべきか悩みましたが、おそらくすぐに人に知れることになるだろう、それくらい容易に目視できましたので、ここに紹介しておきます。
が、本当に、オソロシドコロでの迂闊な行為は、やめておいた方がいいと忠告申し上げます。
Googleマップで松崎神社を検索していると、神功皇后の腰掛け石の先に、「小松崎神社」がヒットしました。
Googleマップ先生が「目的地に到着しました」と言います。
そこにあったのは、小さな稲荷のようなお社。これかー。
しかしなんか腑に落ちない僕は、行き止まりの防波堤へと目を向けます。
いや、待て、なんかある。というか、鳥居がある!
近づいてみると階段があり、登った先には、
3つの神社がありました。
そして海岸の方にも、鳥居が。
3つ並ぶうちの一番手前が「小松崎神社」でした。
祭神は阿曇磯良で、神功皇后が三韓征伐の際、対馬に寄港し、船出をしたことに由来する神事「カンカン祭り」に関係する神社です。
祭りでは、長さ50cmほどの布製の紅白の古代舟を2艘作り、この海に浮かべ、航海安全と無病息災を願うといわれていますが、その舟が残されたままでした。
また、社の中の神体は白に近いベージュの石で、対馬の石積みの石とはまた違ったものです。
真ん中の社は社名は不明でしたが、
サイノカミを思わせる夫婦の石が置かれています。
一番右手奥は大漁祈願とあるのでエビス社かと思いましたが、
金刀比羅宮でした。
中には丸石と鏡。
こうして見てみると、やはり小松崎神社の神体だけが異様です。
磯良の容姿は、貝や虫のとりつく醜い様を示しており,それを恥じて神功皇后の召請に、当初は応じなかったのだといいます。
しかしやがて、磯良は皇后の前に姿を現し、干珠満珠をもたらしたと伝えられます。
その磯良に導かれて、神功皇后はこの場所から豆酘に上陸したのでしょうか。
そもそも阿曇磯良とは、何者なのか。
その正体は五十猛であるとも、ウガヤフキアエズのことであるとも、また、天児屋根のことであるともいいます。
「阿知女作法」(あちめわざ)の「阿知女」も、彼のことだと言う説もあります。
阿曇磯良は志賀海神社の祭神だったこともあるといい、阿曇族の中でも、格別の存在であったことを表しています。
が、実態となると、その存在感はまるで聖霊でもあるかのように、妙に希薄なのです。
阿曇磯良は実在したのであろうか、そんな命題も浮かんできます。
海の泡と消えた、童男童女の御霊が神となったワダツミの神、それと同じものかもしれません。
真相はわからないまま、彼のアバタの皮膚のようだと、亀裂の入った岩の海岸を、僕はしばし見つめていたのでした。