宇受賀命神社:常世ニ降ル花 由良朗月篇 04

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島根県隠岐島の中ノ島、田園広がる宇受賀に鎮座する古社があります。

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「宇受賀命神社」(うづかみことじんじゃ)です。

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大正の頃の社蔵記録によると、かつては現在地から北方150間(およそ270m)隔たった、海面から36、7尺程(およそ10m強)の高さの断崖上に鎮座していたと伝えられます。

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遷座の時期、および創祀の年代や事由は、嘉吉年中(15世紀中頃)に炎上して縁起を焼失しており、不明。
しかしながら、宇受賀の守護神として古くから祀られて来ました。

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祭神の「宇受賀命」(うずかのみこと)は、記紀をはじめ、他に名を見ることのない神。
「宇須賀宮」や「宇津賀大明神」などと称されきましたが、当地の守護神として祀られて来た独自の神であると考えられています。

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『続日本後紀』によれば、承和9年(842年)に「由良比女命神」「水若酢命神」とともに官社に預かったことが見え、延喜式神名帳の国幣大社に列した隠岐国4大社の1社でもあり、古くから国衙や守護職からも重きを置かれてきました。
中世以降は神仏習合思想の一つである両部神道の影響を受けていたようで、大般若経284巻も残されています。

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本殿もとても優美で、現在の屋根は銅板葺きですが、昭和37(1962年)までは茅葺きだったという話です。

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社紋は「橘紋」でしょうか。嘉吉2年の安堵状に「宇津賀左衛門尉」と見える宇津賀氏が後に氏名を変え、その後裔とされる村尾氏が現在は社家を務められているそうです。

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さて、祭神の宇受賀神とは、どういった神なのでしょうか。
元禄16年(1703年)の『島前村々神名記』には、祭神を「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)と記してあるそうですが、これは「記紀」に載せる神名に付会させたものであろうと考えられています。

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僕が宇受賀(ウズカ)から連想したのは、アメノウズメであり、それとウカノミタマでした。
どちらも穀物神としての性格を持っています。
興味深い伝承として、この神の恋物語が伝えられていました。

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宇受賀神はある時、西ノ島の「比奈麻治比賣」(ひなまじひめ)に出会い、その美しさに一目惚れをしてしまいます。
そこで宇受賀神は結婚を申し込みましたが、比奈麻治比賣からは良い返事はもらえませんでした。
宇受賀神はそれでもあきらめず、求愛の手紙を送り続けると、比奈麻治比賣は「大山神社の神様と力比べをして、勝った方に従いましょう」と言いました。
そうして二人の神は石を投げ合う力比べをするのですが、結果は宇受賀神の勝利となり、夫の座を勝ち取ったということです。

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この大山神社の神様とは、西ノ島の大山祇命のことで、一説には焼火山(たくひやま)の神ともいわれています。
しかしそうすると、宇受賀神はアメノウズメではなく男神ということになります。

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二神の石投げを彷彿とさせる神事に「あご石神事」というものが当社に伝わっています。
元旦に行われる、豊作豊漁を願う神事で、「あご」(トビウオ)の形に似た石を宇受賀の海岸から24個拾ってきて、元旦当日に奉納します。
そして前年奉納したあご石を「大漁!」(だいりょー)と叫びながら海の方角に向かって投げるそうで、投げた石は不思議と消えてなくなり、あごとなって海に帰るともいわれています。
あごが大漁に網にかかる姿がお米の稲穂に似てるからだそうで、豊漁に加えて、豊作祈願の意味も含むということです。

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こうして比奈麻治比賣と結ばれることになった字受賀神の間には娘が生まれ、柳井姫(やないひめ)と名付けられたそうです。
その娘は、奈伎良比賣神社(なぎらひめじんじゃ)に祀られています。

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宇受賀命神社から南西1.5kmのところに、「北乃惣神社」(きたのそうじんじゃ)がありました。

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白い漆喰がロマンティックな、神庫と思われる倉があります。

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当社は、島内北分地区に鎮座していた總社、海士北乃社、白山社を合祀して、惣神社の社地に奉座し、明治26年に北乃惣神社と改称したもの。

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合祀された各神社の由緒は詳らかではないが、現在も区民の崇敬が大変篤い神社であるとのことです。

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祭神は「大穴牟遅命」(おおなむちのみこと)、「須佐能男命」(すさのおのみこと)、「菊理媛命」(くくりひめのみこと)ですが、僕が気になったのは白山社に祀られていたであろう「菊理媛」の存在です。

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彼女が祀られた経緯が気になるも、特別な何かを感じるわけでもなく、チャリ漕ぎで汗ばんだ体に吹く風が、ほっこりさせてくれる神社でした。

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中ノ島の菱浦港そばに鎮座する「御倉神社」(みくらじんじゃ)へやってきました。

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登ります。

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創立詳らかならず。当社祭神は「大国主命」(おおくにぬしのみこと)となっていますが、元禄16年の『島前村々神名記』には「御蔵大明神 大国玉命秘伝」とあり、宝暦7年『両島神社書上帖』、天保4年『隠州風土記』にも同様に記載されているそうです。
大国主ではなく、大国玉なのです。

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ところが、明治の『神社明細書』には、「祭神不詳と雖も土人の口碑に大国主命という」と記され、現在に至っているとのこと。

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大国玉とは、土佐の「天石門別安国玉主天神」、「天石門別神」(あまのいわとわけのかみ)のことではないかと思われるのです。
また、隠岐・中ノ島が、海士島(あまとう)の別名で呼ばれるのは、海部族が関わっているのではないか、と感じたのでした。

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