
島根県浜田市相生町、石見国三宮「大祭天石門彦神社」(おおまつりあめのいわとひこじんじゃ)を訪ねました。

天石門彦の名前に釣られて立ち寄りましたが、

なるほど、石見神楽で有名な神社でしたか。
いつか見たい、石見神楽。

境内は車道のそばにありますが、のどかな村落の社といった趣きです。

古くから武将らの崇敬も篤く、平安時代には藤原純友の乱を平定に際して右近衛少将・小野好古の祈請奉幣を受け、また毛利・吉川氏の祈請奉幣も受けたとされます。
社殿背後の三子山(約140m)には、同社の神主で土豪の岡本氏によって三子山城が築かれていました。

当社の創立年代は不詳ですが、第15代応神帝の御代に、阿波忌部氏が石見の山守部となり、その時に勧請したことに始まると伝えられます。
また一説に、大麻山神社と同時期に祀られたとも伝えられていました。

祭神は「天石門別命」(あめのいわとわけのみこと)で、いわゆる「手力男命」(たじからおのみこと)のこととされます。
また、承和2年(835年)に信濃国の諏訪神社より「建御名方命」(たけみなかたのみこと)が勧請され、配祀されています。

延長5年(927年)の『延喜式神名帳』にその名が見られ、文治年間(1185~1189年)に「正一位三宮大明神」と称することを許され、現在は島根県神社庁より特別神社に定められています。

神紋は『式内社調査報告』に「亀甲に柏」とあるそうですが、これはどうみても柏というより「梶の葉」でしょう。
後に梶に変えられたのか、大麻山神社同様、忌部、もしくは諏訪の影響を感じます。

たまたま訪れたこの日は、秋季大祭の日だったようで、神社も賑わっていました。

また当社には特殊神事として「贄狩祭」(にえかりまつり?)というものが伝えられており、往古に12月1日から翌年1月25日まで山狩をして、獲物の鹿を供え、村内を始め近郷40ヶ村の平穏繁栄を祈願したといいます。
この時、鹿の足を供えたので「鹿足郡」、「みの」を献した習慣か「美濃郡」の地名が生じたと伝えられます。
現在は1月25日を祭日とし、サザエの酢物・くわ形餅・あお木の箸・かづらの輪にしたものを新撰に合わせ、猪の肉を供えて祭典を行い、祝詞の次に万才楽を奏上する慣習として続けられています。

この贄狩祭は諏訪大社の御狩神事を彷彿とさせ、勧請したタケミナカタ信仰の影響力の強さを物語ります。

当社の境内社としては「足王神社」があり、サルタ彦が旅の神として祀られていました。

社殿には大わらじが奉納されていますが、これはサルタ彦というよりも、アラハバキを連想させます。

ともかくも色々と不思議な神社ですが、本殿背後には高さ四間、幅六間余りの大きな岩石があるとのことで、その大岩が本来の信仰の対象であったことが分かります。

その神体岩に近づいてみましたが、本殿と草に覆われて、全貌が今ひとつ見えません。

本殿の向かって右側には、スプーンでえぐり取ったような「烏帽子岩」がありましたが、大岩の方に窪みがあれば、合わせてサイノカミということになるのでしょうか。
ただ、大岩が洞穴になっている気配はありません。

イワトワケは僕は越智の祖神だと考えており、阿波忌部が当地にイワトワケを祀ったとは、どうにもイメージが湧きません。
まあ、イワトワケの派生に阿波忌部があると言えば、あるのですが。

当地にはもっと古い時代から、巨石崇拝がなされており、そこに阿波忌部が乗っかった形なのではないかと思われます。

それにしても天気も良く、やさしい風が吹いており、僕はしばらく、祭りの風景を眺めて過ごしました。
