美保神社『青柴垣神事』中篇:八雲ニ散ル花 番外

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4月7日、青柴垣神事の本祭は、AM9:00頃の「両當屋、御棚前にて祗候」からPM2:00頃の「御解除」まで、これといった進展はありませんので、

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ブランチすることにしました。
なんせこちとら深夜0時からすっ飛ばして来たわけですから、お腹が空きます。
美保関といえば、白イカの一夜干しですが、それだけでは少々心許なく、美保神社参道入口にある「なかうら美保関売店」さんの簡易食堂で、いかにもインスタント風のうどんを注文したわけですが、
m(´・ω・`)mゴメンナサイ、めっちゃウマでした。
うどん麺がモッチモチなのこれ。
もちろん、白イカの一夜干しも絶品です。

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栗まんじゅうぅ~。

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小腹を満たしたところで、港町をブラブラと歩いて「幸魂神社」(さきだまじんじゃ)へと歩いて来ました。

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三穂津姫命をヌナガワ媛とした場合、ミホススミ媛はどこに祀られているのかという疑問が湧きますが、それがこの地であろうと僕は思っています。
美保神社本殿裏の、丘の上にもお社がありますが。

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幸魂神社は、美保港を挟んで向き合うような場所に鎮座しており、三穂津姫の霊廟であるとも伝えられます。

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しかし常世を思わせる、この圧倒的な樹圧の聖域は、ミホススミ媛の御陵ではないでしょうか。

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本殿裏手の山中にある「久具谷社」(くぐたにしゃ)も再訪しました。

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以前来た時は雨も降っていたので、こんな感じ。

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何でも知っているカカシの神、久延毘古(くえびこ)と大国主を取り持ったのが、当社ヒキガエルの神、多爾具久(たにぐく)でした。
海の彼方からガガイモの船に乗って来た神の名を、久延毘古は「その神はカミムスビの神の御子、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)でいらっしゃいます」と大国主に伝えました。

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多爾具久の神は、サイト『出雲大社の歩き方』によれば、この社殿は南東を向いており、その先には客人社があるのだといいます。

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久具谷社から神事会所への戻り道、傍に、まず人は入らないだろうと思われる、道のようなそうでないような道を見つけ、入ってみました。
しばし彷徨っていたら、なんとそこで、八雲養蜂さんとばったり出会いました。
八雲養蜂さんは、熊野大社の山を拠点とした蜂飼いさんです。
人がまず来ないであろう「こんなところで会う~?!」ってなりましたが、八雲養蜂さんも僕も、敢えて人が来ない道を行く人なので、まあ、必然と言えば必然の出会いなのでした。

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偏木(ささら)の子たちが、「御解除(おけど)で御座る、トーメー」の御触れを七周半終えて帰ってくる13:30頃、美保神社本殿の御扉が開かれます。
奉幣の儀、巫女舞2座などが行われると、神事会所では、御解除の儀が執り行われます。

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トーメーは、古語のに「そのことだけに集中する」「それ一筋」などの意味がある「専」(たくめ)が語源だと云われています。
これは「神事がはじまるので、専念してください」という周知伝達と注意喚起の意味があるのだといいます。

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「御解除」(おけど)は、青柴垣神事の重要な儀である「御船ノ儀」「當屋奉幣ノ儀」への出陣式のような儀式だといいます。
御解除は昭和30年代までは、両當屋それぞれの自宅で執行されていました。
しかし、家屋の事情や便宜的な面から両當屋の自宅で行う事が困難になり、そのため設けられたのが「神事会所」となります。

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大元出版では次のように記されています。

『昼過ぎから、田楽踊りのササラ子が「御解除でござぁい」と叫びながら、コトシロヌシを探す。町中を七回半まわつても見つからないので、葬式が出ることになる』

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島根の友人「あんでぃ」さんは、こんな面白い考察を呟いていました。

『それは祭りの合図である、
「七度半でござる、トーメー」
に表されている。
八度にせずに、七度半にすることで完結させないのだ。
そういえば、境港の日御碕神社の竜巻さんも、長く結った稲わらをご神木に七回半巻きつけていることを思い出す』

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なるほど。
ササラ子たち、つまり村中の多くの人が事代主を探したのだが、成し遂げることができなかった。彼の姿を見つけることができなかったことを未完成のトーメーは表しているのではないでしょうか。
青柴垣神事とはすなわち、事代主のご遺体が見つからないまま執り行われることになった葬儀の様子と同時に、そこに居るはずのない事代主を、神懸かりした當屋を置くことで、彼の身に起きた悲劇をヴィジュアル化した神事である、と見ることができるのです。

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実際、大国主と事代主のご遺体は、すぐには見つからなかった、と富家には伝えられています。

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秦国から出雲に渡来した徐福は、部下のアメノホヒ、その子タケヒナドリと共に、2000人の童男童女を連れて来ました。
ある日、タケヒナドリがヤチホコ王(大国主)に、「海岸で海童たちが、ワニ(サメ)を捕えて騒いでいる」と、告げてきました。
出雲では、ワニは神聖な動物と考えられており、尊まれていました。
王はタケヒナドリに連れられて、園の長浜に出向き、海童たちにワニを放つよう説得しました。
すると、海童たちは王を取り囲み、船に引きずりこんだのです。

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それ以降、ヤチホコ王は行方不明になりました。

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次に、コトシロヌシに異変を伝えるために、使者のタケヒナドリを乗せた諸手舟が、オウ川をくだり、王の海(中海)を渡り出ました。
そしてタケヒナドリは、海岸で釣りをしていたコトシロヌシに会うと「ヤチホコ様が、園の長浜で行方不明になったので、コトシロヌシ様もいっしょに来て探して下さい」と告
げ、コトシロヌシと従者を舟に乗せました。

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彼らは、数隻の舟で王の海を西に向けて進み、弓ヶ浜の栗島に着きました。
すると海童たちが現われ、逃がさないように舟を取り囲みます。
コトシロヌシは舟から引きずり降ろされ、それ以降、コトシロヌシも行方不明になってしまいました。

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神事会所では、宮司はじめ勢揃いで、ようやく「御解除」(おけど)の儀が執り行われます。
當屋らの背後にある大棚は、「御棚」(おおたな)と呼ばれ、各27台ずつ両御棚合わせて54台に特殊な神饌が供されます。
御解除でようやく祗候は解かれますが、當屋はここに居ない存在、神霊であるので、この先も瞑想は解かれません。

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御解除が始まると、一ノ當、二ノ當それぞれの、「御注連懸け」(おしめかけ)がなされます。
この注連縄は、内側に結界を張るように、神事会所内に付けられていました。

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御注連懸がおわると、神事会所内の上準官に膳が振る舞われます。

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しかし正面に座す宮司や頭人・両當屋は、特に大きな役を務めるため口を付けません。

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この青柴垣神事は、記紀の国譲り神話を儀礼化したものであるといいます。つまり、真実ではないと。
しかしながら、富家に伝わる話と情景的に重なる部分も多いこの神事には、なにかしら込められた思いがあると見ています。
それを知るには、神事の製作者「太田政清」のことを知る必要があるのかもしれません。

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ところが、太田政清を調べてみるも、ほとんど情報が得られません。
「中世後期に落ち延びて来た公卿であると信じられている」くらいのことです。

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太田家は、事代主の息子クシヒカタが大和に進出し、大神神社の社家となった彼の末裔でした。
太田家の祖「太田田根彦」は、第一次物部東征陣を大和に引き入れた八咫烏とされる人物であるとも考えられていますので、神具に度々見られる八咫烏はそのためでしょう。

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ただ、八咫烏の他に、餅をつくうさぎも描かれており、これは太陽と月を表すとされていますが、宇佐・豊家の関わりも気になるところです。

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そして、太田政清がクシヒカタの子孫だと言うこと。

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美保神社の本殿裏にある社。
ここには何故か、若宮社としてクシヒカタが祀られており、今宮社として太田政清霊(おおたまさきよのみたま)、それと神号不詳の秘社(ひしゃ)が祀られます。
普通に考えるなら、若宮も今宮も、美保神社祭神の子、または子孫が祀られるはずですが。
僕はこの2人も、越国の血を受け継いでいるのではないかと考えています。

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また太田政清は、なぜ當屋を2人にしたのか、と言う疑問も湧き起こります。
當屋(とうや)は、一ノ當・二ノ當の2人のことをいい、青柴垣神事で神懸かりする大事な役です。
當筋16流(或いは18流とも伝わる)の家筋で15歳以上の長男に限定、親が準官以上、親族に3年間死者が出ていない、妻帯者であるといった厳密な決まりの中から、「みくじ」によって決まります。

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この2人の當屋は、公式には、一ノ當が「大御前」の三穂津姫命を、二ノ當が「二御前」の事代主神の神を降ろす役であると報じられます。
しかしそれはおかしい。
なぜ女神の神霊を、當筋の長男が受けるのか。

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神事であるから男子が役を務めなければならないと言うのなら、せめて一ノ當は女装をするべきなのでは。
しかも一ノ當・二ノ當にはそれぞれ、小忌人(おんど)が付くのです。
小忌人は通常、當屋の妻が務めることになっており、當屋が妻帯者でない場合は町内女児がこれに代わり奉仕します。

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小忌人はその名称からしても、行方不明になって常世にある當屋の喪主であり、妻であるということになります。
すなわち、當屋に降りる神は、男神でなければならない。

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小忌人は布を被り喪に伏していますが、最初は地面を自らの足で歩いています。
つまり、この時点では人です。

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供人は最初から宙に浮いており、神霊であることを示しています。
彼女たちはコトシロヌシ一緒に、諸手船に乗せられた従者なのでしょうか。

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當屋の乗る海上の御船にて、霊験を得ると言う「波剪御幣」(なみきりごへい)は、宝暦3年(1753年)の『出雲國三穂両宮縁起』に、「海上にて風波はげしきときは、波きりの御幣を立てれば波わかりて其難を凌ぎ、くらきに迷えは神燈を乞、山を願いて無難に入津し、すべて海上の通路は此御神の神秘にまかせ奉るなり」とある、強力な神徳のある特別な御幣だと云われます。

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授与の方法は限定的で、年間授与の体数に制限があるのですが、青柴垣神事の当日は申し込み者全員に授与されます。
波剪御幣は箱に封印されており、特にご神徳を受けたい火急重大な時は開封し、御幣を取り出します。
一度開封した波剪御幣は再封も可能ですが、初穂料¥50,000、再封料¥20,000と、授与を受ける側の覚悟も試されるシステムです。

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「八雲板」は鏡板ともいい、神霊が宿る「しるし」だとのことです。
そこに描かれるのは、やはり八咫烏とうさぎ。

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そして白装束に身を変えた當屋が、まるで逃がさないように手を繋いだ黒服に囲われて、「宮灘」までやって来たのでした。

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