
人の心には、魔が棲んでいる。
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松平綱隆(まつだいらつなたか)は、寛永8年(1631年)2月23日、出雲国松江藩初代藩主・松平直政の長男として生まれた。
綱隆の名の一文字は、江戸幕府4代将軍・徳川家綱より賜ったものだ。
寛文6年(1666年)2月、父が死去したため、同年4月10日に家督を継ぎ、2代目の松江藩主となった。
ところが、藩内では先代から続く社会不安や財政悪化、大雨などの災害により、藩政は厳しい局面を迎えていた。
綱隆は、米・雑穀の移出と酒造を禁止し、藩札(藩が独自に領内に発行した紙幣)を増やし、建て直しを図ったのだが、財政はむしろ悪化するばかりであった。
「やれることは全てやった。しかし…」
綱隆は無力感に打ちひしがれた。
そのような折の、延宝元年(1673年)のことである。
日御碕神社の大祭に、せめて神頼みでもと、綱隆は足を運んだ。
「なんと美しい。世にあのような女性がいるのか」
綱隆を虜にした女は、日御碕神社の検校(けんぎょう/68代宮司)小野隆俊(おのたかとし)の妻・花子であった。
検校は直会で藩主をもてなすため、妻に接伴をさせたのであった。
花子が綱隆に酌をすると、ふわり、と良い香りがした。
綱隆は注がれた酒を口に運ぶことを忘れ、花子をただじっと見つめていた。すると、彼女は薄く笑った。
心を病みかけた綱隆にとってそれは、唯一の救いのように感じられた。
城に帰ってからも花子のことが頭から離れない綱隆、彼の心に、次第に魔が忍び寄り、歪み始めた。
綱隆は、先代からの家老で花子の父である、神谷備後(神谷源五郎冨次)を呼び付け言った。
「そなたに美しい娘がいるという話は聞いておったが、あれほどの美貌とは思わなかった。藩政を立て直すための神意を伺いに日御碕へと参ったが、そこで花子と会うたのも神の導きであろう。娘を尊俊と離縁させて側室として我が城へ参内させよ」
神谷備後は驚き、謹んで申し上げた。
「娘には夫ばかりでなく、すでに子もおります。畏れながら、殿の御命令とあっても、それは承服致しかねます」
そのようなことがあって数日後、「小野尊俊検校は妖しい術を使い、それがキリシタンの術である」との罪状で、彼を隠岐へ島流しとする、という旨が言い渡された。
検校は当然無罪を主張したが、聞き入れられることはなく、隠岐へと流されていった。
「そなたの娘、花子の夫は罪人である。もはや隠岐から戻ることもなく、死したるも同然。なれば花子が我が邸へ参ることに、もはや支障はあるまい。冨次よ、ここへ花子を連れて参れ」
綱隆はそう、神谷備後に言いつけた。
神谷は苦しい思いで床へ額をつけ、娘を迎えに日御碕へと向かうのであった。
潮の香りが漂う検校の屋敷の扉は、固く閉ざされている。
声をかけるも、人の気配はない。
神谷が訝しんで戸をこじ開けると、自ら刃を喉に深く突き刺し、息絶えた娘の姿があった。
血が床を満たし、花子の肌は一層白く、着物は赤く染まっていた。
妻の死の知らせを受け取った小野尊俊は嘆き悲しみ、悶え、食を絶って綱隆を恨みながら死んでいった。
延宝2年(1674年)、事の発端から1年程のことであった。
延宝3年(1675年)閏4月1日、前触れもなく、松平綱隆が急死した。享年45である。
跡を四男の綱周(綱近)が継ぐことになったが、綱隆の突然の死は「検校の亡霊によって呪い殺された」のだと噂された。


島根県松江市西川津町、閑静な住宅街の奥の小高い丘の上に、「推恵神社」(すいけいじんじゃ)が鎮座しています。

境内はさほど広くなく、落ち着いた雰囲気ですが、かつての祭礼時には芝居小屋などが建ち、賑わったということです。

当社は「稲荷社」「天満宮」「三神社」(諏訪神社)が合祀され、狛犬も様々。

推恵神社の主祭神は「小野尊俊霊」で、「倉稲魂命」「菅原道真」「武御名方命」「誉田別命」を配祀します。

検校・小野尊俊の悲劇については、諸説ありますが、その内容は概ね次の通り。
松江藩主2代目の松平綱隆が、尊俊の美貌の妻・花子に横恋慕。小野尊俊に罪を着せ、隠岐島流刑に処す。
小野尊俊は隠岐・中ノ島の海士町(一説では知夫里島の知夫村)で失意のうちに命を絶った。
妻・花子は綱隆に求められるも固辞し続け、清操を保って自害に及んだ。
というもの。

検校夫妻の死の順番は、夫が先であったり妻が先であったり、また妻の自害の方法も刃物によるものだったり入水であったり、と定かではありません。
しかし日御碕神社の検校(寺社を司る役職・宮司)に小野尊俊という人物が実在し隠岐島に流刑となった、妻は神谷家の娘であった、ということは事実のようです。

小野尊俊が流刑となった時の藩主・松平綱隆が延宝3年(1675年)に急死し、その後も出雲では災害が続いて財政は逼迫、藩主にも不幸が降りかかりました。
そして尊俊が亡くなって60年近く経った享保18年(1732年)、6代藩主・松平宗衍(まつだいらむねのぶ)の命によって、松平家の別荘地であった楽山に尊俊を祀る推恵神社が建てられました。
それが当社創建の由来となっています。

松平家は年2回の祭礼の日は庶民に楽山を開放し、富籤や芝居を行い、多くの参拝者を集めるよう押し進めました。
それは全て、尊俊の霊を慰めるためであった、と云われています。

推恵神社と呼ばれる社は他に2社あり、1社は日御碕の月讀神社が祀られる小高い山の山中にありました。
もう1社は小野尊俊がなくなったとされる隠岐・中ノ島、その隠岐神社の境内脇にあるそうです。

昭和15年(1940年)、隠岐神社の改築時に推恵神社の傍から石棺が発掘されました。
中にはミイラ化した白骨体が残っており、現地に駆けつけた日御碕神社宮司が確認したところ、小野尊俊の遺体であると認めたとのことです。

他にも隠岐・知夫里島の一宮・天佐志比古命神社にも、小野尊俊が悲嘆に暮れて座り続け、ついには中心がへこんだといわれる「検校の石」がありましたが、この島には他に彼の墓だという「検校塚」なる五輪の塔があるそうです。
訪ねそこなった中ノ島の推恵神社にはいずれ行きたいと思っていますが、検校の石は藪の中にあるようで、所在を確認することができませんでした。

松江の当社境内奥には、「御前神社」が鎮座しています。
祭神は「清操辺命」(すがみさべのみこと)で、『川津郷土誌』によると妻を祭ると解されているそうです。
日御碕の推恵神社では、清操辺命は同じ社に、夫婦揃って祀られていました。



推恵神社のすぐ傍に、熊野神社があったので立ち寄ってみました。

『松江市史』によれば、花子は松江藩江戸藩邸で生まれ、綱隆の養女となって小野家に嫁いだが、そのことで尊俊が増長したためやむなく離縁させて、尊俊を処罰。その後改めて神谷家(神谷備後の息子)に嫁がせたという話になっているそうです。
これは藩主の醜聞を、ことの顛末に合わせて改竄したものと考えることができます。
しかし、日御碕神社の小野氏といえば、出雲王国7代大名持・天之冬衣(天葺根)の末裔とされ、代々宮司を務める家柄であり、現在もそれは変わらぬところです。
その権威ある小野尊俊を、松江藩主とはいえ、女欲しさに罪をなすりつけ流罪とできたのか、疑問が残ります。
小野尊俊が流罪となったのが事実として、そこには別の理由があったのではないでしょうか。

小泉八雲の『知られぬ日本の面影』には、「花子の実家・神谷家は今も続いており、松江で非常に尊敬を受けている。それで日ノ御崎の宮司は、いつもその凛凛しい家系の娘から花嫁を選ぶのである」と綴られていました。
