嶽之枝尾神社:常世ニ降ル花 天之高原篇 14

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椎葉村”竹の枝尾”集落にある「中瀬淳氏亭」、その庭先に『民俗学発祥の地』と彫られた石碑があります。
明治41年(1908年)7月に、宮崎県椎葉村を訪問した「柳田國男」(やなぎだくにお)は、大河内の椎葉徳蔵宅で文書『狩之巻』を目にします。
椎葉村滞在時に彼を世話した一人が、椎葉村長の「中瀬淳」(なかせすなお)で、彼は『狩之巻』を分かりやすく書き直し、また、他の狩に関する口伝を文章にして、帰郷した柳田國男に届けました。
それらをまとめ、明治42年3月15日に刊行したものが日本の民俗学の原点となった『後狩詞記』(のちのかりことばのき)だといわれています。
二人の邂逅が後の日本民俗学の出発点となったことを記念して、この碑が置かれることになりました。

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柳田國男が目にした『狩之巻』とは何かというと、「山の神に関する秘密の伝書」である、とのことです。
『後狩』というのは、弓矢で獲物を追っていた時代のの後の時代の狩り、すなわち「鉄砲の時代の狩り」という意味です。
狩の道具が弓から鉄砲に代わってしまい、古来に比べ狩を容易に行える時代になりましたが、椎葉村には鉄砲の時代になって尚、猪狩の儀礼的な慣習がしっかりと残っていることに、柳田國男は興味深く感じ入ったということです。
彼が『後狩詞記』で残したかったのは、こうした猟師たちの間で使われている「生きた言葉」であったようです。

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椎葉の猟師たちは猪の心臓を「コウザキ」と呼んだそうですが、猪を狩った後はこの「コウザキ」を「コウザキ殿」(山の神様)に供えるのが慣わしだったと伝えられます。
柳田國男は中瀬村長への手紙の中で、「椎葉村も猪は段々と少なくなり、やがてそうした慣習も失われ、よその山村と同じになってしまうだろう」と書いているそうですが、綾野ファームでもご馳走になったように、椎葉の山々で猪は今も増え続け、後狩詞記にある慣習も生き続けています。

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『民俗学発祥の地』のほど近く、竹の枝尾日当地区に「嶽枝尾神社」(たけのえだおじんじゃ)が鎮座しています。
社前まで道はありますが、車で乗り入れる覚悟はありませんでしたので、途中で乗り捨てて来ました。

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しっとりとした、荘厳な雰囲気。

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当社創建は不詳ですが、元久2年(1205年)の勧請と伝え、または天正4年(1578年)に那須左近太夫と那須九郎衛門が椎葉山小崎城を攻略した際、ここにわずかな平田があり陣屋としたものを後に祀ったとも伝えています。

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よって、古くは「平田大明神」(へいだだいみょうじん)と呼ばれていた当社ですが、明治4年に現社名の「嶽枝尾神社」と改称し、同7年12月に村社に列せられました。

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嶽之枝尾神社の氏子は、椎葉村南部を流れる小崎川流域の「地内日当」(ちないひあて)、「日添」(ひぞえ)、「臼杵又」(うすきまた)の3集落で、綾野ファームの勇さんが宮司を務められています。

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境内に入ると、ちょっと不思議なものがありました。

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結界のように地面に列をなして突き刺さる、ビール瓶とビール缶。
土地神さまを酔わせているのでしょうか。
これと似たものを、僕は伊豆諸島の神津島で見かけました。

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平田大明神として古くから祀られて来た当社が、嶽之枝尾神社となって、祭神が「太玉ノ命」(ふとだまのみこと)に変えられました。
なぜ太玉なのか、どう入った経緯で平田大明神が太玉に充てられたのか、とても興味がありますが、そもそも”平田”とはなんなのか、疑問が尽きません。
今度また綾野ファームに行った時に、勇さんにお伺いしてみようかな。

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椎葉村はとにかく山なので、わずかな”平地”に恩恵を感じたのでしょうか。
そうした椎葉の村人と山神との関係性を表すものが、当地には伝えられています。

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毎年12月上旬、当社では、椎葉神楽の一つである「嶽枝尾神楽」が奉納されます。
神前八畳の間を「御料屋」とし、外庭に「外神屋」(そとこうや)をしつらえ、一番の宮神楽から三十三番の神送りまで徹夜で舞われる神楽。

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注連(しめ)は、青柴垣の外神屋中央に高天原の祭壇を設け、その左右両側に御幣、紅白の反物、日月を表した御笠などで飾られる大宝(たいほう)の注連を6本ずつ、計12本立てられます。
激しい太鼓に静かな舞が特徴であり、ゴヤセキと呼ばれる女性達による神楽セリ歌と囃子が夜神楽を盛り立てていきます。

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各集落ごとに特徴のある椎葉神楽ですが、嶽之枝尾神楽には、「宿借」(やどかり)、「注繩引鬼神」(しめひききじん)、「星指」(ほしさし)など、全国的に類を見ない演目が多く、貴重な伝承といわれています。

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神楽は、3集落の民家で輪番制で行われていましたが、昭和43年(1968年)に舞殿を改築してからは、主に神社で行われるようになりました。
「みこし神楽」と呼ばれる道神楽の保存継承の為に、不定期に民家での神楽も行っているそうです。

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嶽之枝尾神楽の演目の中で、特に興味深いのが「宿借」です。
これは森の奥から神楽の場へと下って来た「山人」が宿主に一夜の宿を乞うという、『狩之巻』でいうところの「山の神」と平地(平田)に住む村人の関係性を感じる神楽です。

【15分ver.】(宿借は6’30あたり)

神楽宿を訪れた山人は、一夜の宿を乞いますが、宿主は、蓑笠に身を包み、杖を付いて現れたみずぼらしい姿の山人を怪しみ、宿は借すことは出来ぬと最初は断ります。
そこから山人と宿主との問答が始まり、山人とは、じつは諸国を廻ってきた山の神であり、この村に幸と五穀豊穣、狩りの豊猟などを授けに来たものであることが明らかになりなります。
そこで村人が徳利と盃を持って出て仲裁し、「どうぞお入り下され」と招き入れることになるのです。

【2時間ver.】

ここでいう「山の神」とは何であろうか、と僕は考えます。
確かに言葉の通り、村人に幸をもたらす山神そのものであるとも捉えられますが、人の姿の神としてあまりにリアルに描かれるその姿は、あるいは出雲サンカのことではなかろうか、とふと思いました。
サンカがある日、椎葉村にやって来て、さまざまな知識・文化を与えた、その中には狩猟の知識と儀礼も含まれていたのではないでしょうか。
と仮定するならば、椎葉村にはサンカが来る以前から、古い古い民がいた、ということになります。

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この「宿借」はまた、日本に点在する蘇民将来の原型のようにも感じられます。
僕の仮説が正しいとすれば、説話に登場する「武塔神」(むたふのかみ)とは、スサノオではなく出雲サンカということになります。

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それはさておき、この嶽之枝尾神楽に限らず、椎葉村内26地区に伝わる各椎葉神楽は、氏子の減少などにより存続が難しくなりつつあります。
今は氏子だけでなく、近隣の集落も皆で助け合い、なんとか実施できているというのが実情のようです。
演目も全てを行うことが厳しくなり、一部内容を省いて行っているところもあるのだと伺っています。

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幸いなことに、ここに紹介しているようにYouTubeに多数の動画も残されており、我々はいつでもそれを観ることができますが、やはり生で場の空気を感じられる機会を、未来に向けて残していって欲しいと切に願います。

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僕は神楽は、たとえば「天の岩戸」や「八岐大蛇」の演目のようなものは、メディアが存在しなかった頃のプロパガンダとしての役目もあったのではないかと考えています。出雲王国や橋本を守る人たちの歴史を神話に替え、架空の物語にしてしまったのです。
しかし椎葉神楽、「宿借」のような独自の演目の中には、失われて来た歴史の片鱗が残されているようにも感じられます。

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悠久の時を紡いで受け継がれる椎葉神楽、叶うなら僕もこの目で見てみたいものです。

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4件のコメント 追加

  1. 阿部 日登美 のアバター 阿部 日登美 より:

    コメントではなく🙏✨
    お尋ねですが

    今、スサノウさん復活というお話を耳にいたしますが、出雲口伝ではスサノウさんは、徐福、饒速日と書かれています。
    五条さんは、スサノウさんを
    どのように捉えてありますか。
    見解をお伺いできれば幸いに存じます。

    出雲口伝は2015年に、
    また、五条さんの本も
    読ませて頂いております。

    宜しくお願い申し上げます。
           阿部日登美 拝🙏

    iPhoneから送信

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      阿部様、ご質問ありがとうございます。
      私の本も読んでいただいたとのこと、合わせて感謝申し上げます。

      スサノオ、スサノヲ、スサノウと呼び名も様々ですが、より多くの人に分かりやすい呼び名で、という富先生のご指導に則して、スサノオと表記させていただきます。

      さて、大元出版の各書籍では、スサノオは徐福のことだとされていますが、私が各神社を巡った印象では、そうばかりではないと感じています。
      島根・須我神社の祭神は、当ブログでも書いていますように、菅之八耳とした方が自然です。

      福岡の祇園社である櫛田神社の祭神は、大幡主命、天照大神、素戔嗚尊となっていますが、拝殿内に掲げられた扁額には「須賀大神」とあり、この場合もスサノオは菅之八耳だと思われます。

      そもそもスサノオとは、アマテラスがそうであるように、古事記によって登場した神名になります。
      古事記に出てくるスサノオは、確かに徐福の血を継いだ者たちのことを表している部分が多いと思われます。
      古事記編纂には、出雲王国の存在を神話化することで曖昧にする意図もありましたので、徐福=スサノオを出雲の祖神として書かれたのだと思います。
      しかしあえて稲田姫を娶った話を入れることで、人麿は本当の祖神は菅之八耳であると伝えたかったのかもしれません。

      神社は記紀編纂、明治維新・神仏分離令などでかなり祭神が書き換えられていますので、注意が必要です。
      特にスサノオを祭神とする神社の場合は、神社の成り立ちや背景を考慮して、真の祭神を見極める必要があろうかと思います。

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  2. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    今思うと、五ヶ瀬の方は今一番ヤバいと言われながら向かいましたが、南関からの菊池経由のルートは一切渋滞も迂回もなく五ヶ瀬まで辿り着けました。

    クラオカからのルートのみ生き残ったとするのであれば、橋本や興梠の抑えていた地域は本当に良い土地だったのではないでしょうか?

    ビクともしていませんでしたよ

    それどころかダムのおかげで他の地域も助かった様に思えます。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      そうなんですよね。
      災害に強いルートというのは、昔から守られてきた場所なのかもしれません😌

      いいね

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